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第10話:夜明け前の道場

 次の日の朝。昨日に引き続き、ギフト訓練が始まっていた。


 まだ日が完全に昇りきらない時間帯、道場の窓から差し込む淡い光が床板に長い影を落としている。吐く息は白く、夜明け前の冷え込みが残っているのに、室内の空気はすでに熱気を帯びていた。


「……1489!1490!」


 力強い掛け声と荒い息づかいが混ざり合い、規則正しい動きに合わせて床がわずかに軋む。その軋みまでもがリズムの一部になり、まるで巨大な心臓が脈打つように道場全体を揺らしていた。


 選手たちの額からは汗がぽたりと落ち、木の床に丸い水跡を作る。それはすぐに次の一滴で広がり、繋がり、細い川のように流れ出す。誰一人、手を止める者はいない。


 斎藤コーチは、道場の中央に腕を組んで立っていた。目は鋭く、しかし声は一定のリズムを崩さない。まるで太鼓の打ち手のように、テンポを刻み続けている。


「そこ、動きが緩んでる!気合い入れろ!全力で!」


 叱咤しったが飛ぶたび、空気がビリッと震える。選手たちは表情ひとつ変えずに耐え、ただ淡々と課題をこなしていく。


 その光景は、単なる訓練というより儀式に近かった。汗と筋肉、そして掛け声――それらすべてが、この場にいる者の覚悟を証明している。


 その中で如月は、淡々とスクワットを繰り返していた。


 膝を折り、腰を落とし、ゆっくりと立ち上がる――ただその動作を延々と続けながら、意識の奥底では昨日の夢の中で見た光景が蘇っていた。


 夢の中で現れた“この体の女性”――自分が今まさに宿している肉体の、知らない記憶。


 幼い日の笑顔、友達と駆け回った放課後、そして夢を掴んだ瞬間――その記憶が胸を熱くする。


 それは単なる映像ではなく、まるで自分がその瞬間を体感しているかのような生々しさだった。土を踏みしめる感触、全身を包む暖かさ、肌越しに伝わる両親の手の力強さ――すべてが現実のように迫ってくる。


 如月は知らず知らずのうちに呼吸のリズムまで夢の記憶に引きずられていた。無意識に膝の“屈伸運動”を続け、筋肉が焼けるように熱を帯びても、頭の中では、その夢の記憶が繰り返し再生されている。


「……1495、1496……」


 耳に入る掛け声も遠く、汗が顎から滴り落ちる感覚すら霞んでいく。意識は夢の中と現実の間を行き来し、時間の感覚が溶けていった。


 ――その時、背中をトントンと叩かれた。


 現実に引き戻され、如月は小さく肩を跳ねさせる。


「如月、何時までやってんの」


 振り返ると、望月が汗を拭いながら呆れたように見下ろしていた。額から首筋へと伝う汗が、床へぽたりと落ちる。眉をひそめつつも、その目にはわずかな心配の色が宿っている。


 周囲の掛け声はもう途切れ、道場に響くのは荒い息づかいと木の床の軋む音だけ。気づけば、カウントはすでに1500を終えていた。それでも如月は、惰性のように膝を上下させ続けていた。


「……あ、あぁ……」


 気のない返事を返しながら、如月はようやく脚の動きを止めた。膝を伸ばしきると、ふくらはぎに溜まった熱がじわりと広がる。両手を太ももに置き、わずかに肩で息をつく。


 望月はそんな様子を見て、少し眉をひそめた。その視線には、呆れよりも心配の色が濃い。


「ちょっと……大丈夫?何かあったの?」


 如月は昨晩、皿洗いで食堂に行った際、本田と会い、ギフトについて聞かされたことをぽつりぽつりと話し始めた。言葉を選びながらも、あの時の空気や本田の視線まで思い出し、妙に口が重くなる。


 一通り聞き終えた望月は、腕を組み、昨日と同じようなあきれ顔を浮かべた。


「あんたさぁ、そんなんでよく筆記受かったね……」


(……プロレスの入団テストに筆記?)


 一瞬、如月の思考が止まった。ほんの数秒の沈黙の間に、望月の視線がじりじりと突き刺さる。仕方なく口角を引きつらせ、どうにか笑顔を作る。


「はぁ……あんたねぇ……」


 望月はため息混じりに肩をすくめると、手を腰に当てて言った。


「入団テストってのはね、身体能力テストのほかに、ギフトの知識、国が定めてる規則、それからギフト適正者かどうかの判定試験――全部セット。昔からそういうもんでしょうが」


 自分がいた世界ではありえない内容――そんなこと、この瞬間まで知らなかった。


「まぁ、あれだな……一夜漬けだったからな……はは……」


 と、わざとらしく頭をかきながらごまかす。如月の笑い声は、どこか乾いていて、道場の熱気の中でも妙に浮いていた。


 望月はそんな如月をじっと見た。口元にはかすかな弛みが浮かんでいたが、目の奥には温度がなかった――そう感じさせるような、薄い膜の張った表情。訓練中の冗談としては軽すぎるその返しに、胸の奥で小さな棘のような不信感が引っかかる。


「……ふぅん」


 わざと興味なさげに視線を逸らす望月だが、耳だけは如月の声を逃さない。


 その空気を察したのか、如月は咄嗟に別の話題を探すように視線を泳がせた。そして、さも思い出したように、何気ない調子で問いかける。


「それはそうと、お前さんは、その……ギフトの適正はどんな感じだったんだ?」


 望月はその言葉を待っていたかのように、口角をぐいっと上げる。背筋を伸ばし、汗で張りついたシャツ越しにも分かるほど胸を張ると、軽く顎を上げて宣言した。


「アタシのギフトは身体強化型!最も出世コースまっしぐらの判定だったよ!」


 その声音には、迷いや控えめも一切ない。まるでリングアナに勝利を告げられた直後のレスラーのような、自信と高揚感が全身からにじみ出ていた。周囲のざわめきや訓練の掛け声さえ、その瞬間だけ遠くに引いて聞こえるような迫力だった。


 どうだと言わんばかりの表情。身体強化型はトップ戦線にも加われるほどの価値があり、過去の有名選手もほぼこのタイプだと自慢する。


 如月は神妙な顔でうなずく。それを見た望月が「馬鹿にしてる?」と顔を近づける。目をそらした如月の視界に、少し離れた場所で息を切らし、床に倒れこんでいる島村が映った。


「そういえば、あの島村って子はどうだったんだ?」


 如月が話題を切り替えるように何気なく問いかけると、望月の表情がふっと変わった。さっきまで胸を張っていた姿勢が少しだけ緩み、視線が横へと流れる。口元はわずかに引き結ばれ、ほんの一瞬、言葉を選ぶような沈黙が挟まった。


「あの子は、肉体再生。……治癒型だったみたい」


 その声色には、はっきりとした評価というより、複雑な感情が滲んでいた。道場のざわめきや床を踏む音が続く中、二人の間だけ空気が少しだけ重くなる。


 現在のギフト至上主義の世界では、派手な技や一撃必殺の演出を持つ攻撃型が、観客やスポンサーから最も好まれる。


 一方で、治癒型のような地味な能力は注目されにくい。回復や支援がどれだけ価値を持っていても、表舞台での輝きは薄い――そんな空気が、暗黙の常識として業界全体に根付いている。


 結果、彼女らの多くは芽が出ないまま年齢制限の壁にぶつかり、25歳で引退を余儀なくされる。それが「現実」だと望月は言った。


 「そんなことわかんねえだろ?25歳で引退するなんて勝手に決めつけてやるなよ、友達だろ?」


 如月は思わず声を荒げた。額には汗がにじみ、拳がわずかに握られる。望月の言葉が冷たく響き、どこか苛立ちが胸の奥を刺す。


 しかし望月は、呆れたように深く息を吐き、眉間にしわを寄せた。


「あんたね……25歳引退制度は国が決めたこと、そんなの常識でしょうが!」


 その言い方は、叱責というよりも突き放すような現実の突きつけだった。その剣幕に如月は言葉を失い、口をつぐむしかなかった。胸の奥に、反論の種だけが熱く残ったまま――。


「そこ!いつまで無駄口たたいている!さっさとプッシュアップを始めろ!」


 斎藤の鋭い声が道場の空気を一瞬で締め上げた。冗談や会話の余地など一切許さない、その一喝に全員の背筋が伸びる。


 気づけば、周囲の選手たちはすでにプッシュアップバーを手にし、静かに構えていた。木の床に擦れる音と、息を整えるわずかな吐息だけが響く。


 如月と望月は、慌ててあらかじめ隅に置いていた自分のバーへ駆け寄り、それを手に取った。掌に伝わるざらつきと硬さ――。


 それは新しい器具にはない、長年の汗と訓練で刻まれた歴史そのものだった。指先に残る古い木の匂いと、木が吸い込んだ塩気、否応なく集中を呼び覚ます。


 持ち場に戻ると、全員がすでに体勢を整えている。斎藤の「始め!」の合図が響くと、重い沈黙の中で一斉に身体が沈み込む。筋肉にじわじわと負荷をかけ、無駄な反動を許さない最も過酷なフォーム。


 その動きが十数人分、まるで1つの生き物のようにぴたりと揃う光景は圧巻だった。


 バーは市販の軽量プラスチック製などではなく、無骨な木製の手作り品。節目やひび割れの一つひとつが、過去の使用者たちの努力と苦痛を物語っていた。握るほどに掌が吸い付くようで、そこから滲み出るのは、汗と努力と、逃げ場のない時間の重さだった。


 連続50回×15セット――斎藤のメニューでは軽い部類だ。


 如月は慣れた動きで淡々とこなす。望月や島村も必死に遅れまいと動き続けた。


 そのとき、道場の扉が静かに開き、本田が入ってくる。気づいたのは斎藤だけ。軽く会釈を交わす。


 本田の視線は如月に向けられ、その目は何かを探るようで、厳しくもあり、どこか優しげでもあった。


 1セット目が終わり、全員が腕を伸ばして息を整える。張り詰めた空気がわずかに緩んだその瞬間、道場の隅で静かに立っている人影に気づく者が現れた。視線が次々とそちらへ向かい、やがて全員が本田と悟る。


 空気が一変する。汗にまみれた顔が一斉に引き締まり、動きが止まる。まるで稽古場の温度まで下がったかのような感覚の中、「お疲れ様です!」という声が一斉に響き渡った。その声には、敬意と畏怖と、わずかな緊張が混じっている。


 本田は表情を大きく変えることなく、静かに会釈を返すだけだった。しかし、その所作は無駄がなく、わずかな動きで場を支配する力があった。


 斎藤の元まで歩み寄った本田は、わずかな目配せだけで意思を伝える。斎藤も短くうなずき、互いの間に言葉のいらないやり取りが交わされる。


 まさに阿吽の呼吸――長年共にリングを駆けてきた者同士だけが持つ、目に見えない信頼の形のように見えた。


 そして、本田が一歩前に出る。踏みしめた床板がかすかに軋む音さえ、場にいる全員の耳に届く。彼女が口を開こうとした瞬間、誰もが自然と背筋を伸ばし、次の言葉を待った。


「現在、本隊は海外遠征中で順調にTMHとの合同練習に参加しております」


 Queen Beeはオフシーズンを利用し、特例で海外遠征の一環として新興団体TMH(The Mercury Hercule)と合同練習に参加。慣れない土地の空気、異国のリングの匂い、そして未知の相手とのスパーリング――その光景が頭の中で鮮やかに浮かび上がる。


 如月は「海外遠征」という響きに、胸の奥がわずかに熱くなるのを感じた。ドイツでの師匠アルフォンスとの出会い、見知らぬ街で過ごした日々、異国の観客の歓声――忘れがたい記憶が波のように押し寄せてくる。


「また、今回限りの特例として、デビュー間もない天道カナレ選手とSAKEBI選手、両名のTMHへのスポット参戦を許可しました。」


 その一言に、場の空気が一変した。ざわめきが波紋のように広がり、驚きと高揚混じりの視線があちこちで交錯する。普段は無表情を貫く選手たちでさえ、思わず顔を見合わせていた。


 普段から冷静沈着な斎藤コーチも、この時ばかりは眉をわずかに動かし、短く息を呑んだ。その仕草は一瞬で消えたが、長年の現場経験を持つ彼女にしては珍しい反応だった。


 ――本田は絶対に他団体との交流を認めない。それは単なる方針ではなく、団体の根幹に刻まれた鉄則だ。血統を混ぜない純血主義、外部の影響を徹底的に排した独自の哲学――それが“団体の始祖である本田”を象徴するものだった。


 だからこそ、今回のTMHとの合同練習がどれほど異例であり、どれほど重大な意味を持つかは、関係者なら誰もが理解していた。


 ――例外は、25歳引退を経て復帰した“出戻り組”のベテラン勢のみ。彼女たちは実績と知名度を武器に、限られた条件下で他団体との交流が許されてきた。


 だが、デビューしたばかりの新人、それも二人同時に、多団体で――しかも海外の新興団体TMHのタイトルマッチに参戦するなど、Queen Bee史上かつて一度もなかった。


(……あの社長さん、とんでもないこと考えてるみたいだな)


 如月は心の中でつぶやく。思い浮かべたのは、女子プロレス界の頂点に君臨するひとつの“王国”。そこに流れる血はすべて内部で育まれ、外からの一滴すら許さない――始祖の支配下で、完全無欠に磨かれた群れ。


 その純血の巣から、あえて二匹の若い蜂を外の世界へ放つ。しかも、まだ土台も浅い新興団体、その最も目立つ舞台に。


「加えて、SAKEBI選手は現地の選手とのエキシビションマッチに臨みます。

 そして――天道カナレ選手が、TMHシングル王座戦に挑みます」


 場に一瞬の沈黙が走った。誰かが小さく息を呑む音が響き、それがきっかけのように数人がざっと顔を上げる。緊張と期待の視線が交錯し、道場の空気がわずかに熱を帯びていった。


(なるほど……自分たちこそが女子プロレスの頂点、その血統こそ最強だと――海外のリングで証明させたいんだな)


「また、本隊は合同練習終了後、帰国となります。予定は三日後です。ただし、両名は現地に残り、引き続き調整を行うことになっています。皆さん、対応をよろしくお願いします。私からは以上です」


 そう告げて本田は道場を後にした。


 残された選手たちは、それぞれ隣や前後の仲間に顔を向け、今の発表について口々にささやき合った。声のトーンは低いが、興奮と驚きが混ざったざわめきは収まらない。腕を組んでうなずく者、目を丸くする者、口元を押さえて笑う者――反応は様々だが、皆が同じ話題を共有しているのは一目でわかった。


 そんな中、望月と島村が、ほとんど同時に如月の元へ駆け寄ってきた。望月は額の汗を乱暴にぬぐいながら、「聞いた!?今の!」と言わんばかりの顔。島村は目を輝かせ、両手を胸の前でぎゅっと握りしめている。足音や呼吸もまだ訓練の熱を帯びたまま、二人の勢いは止まらなかった。


「先輩たち、帰ってくるんですね!」


 島村は息を弾ませながら、頬を紅潮させて言った。声の奥には、待ち望んだ再会への喜びがあふれている。


「同期なのに……もうメインイベンターを任されるなんて、やっぱり天道さんはすごいです!」


 興奮で早口になりながらも、その言葉には尊敬と憧れが入り混じっていた。握りしめた拳は小刻みに震え、まるで自分のことのように誇らしげだ。


 その瞳は、単なる同期に向けるものではない。舞台の上で輝く存在を追いかける、熱心なファンのそれだった。

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