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第1話:リングの向こう側

 暗く濡れた山道を抜け、年季の入った大型バスがきしむような音を立てながら、トンネルの中を走っていた。


 ツギハギだらけの舗装が続く田舎道。街灯ひとつない峠道を、車は黙々と登っていく。フロントガラスの向こうに広がるのは、闇に沈んだ山影ばかり。唯一の光源はヘッドライトだけで、その細い光の筋が、漆黒の闇をわずかに切り裂き、心許ない道筋を浮かび上がらせていた。


 そのバスは、地方巡業中のプロレス団体IWA(IRON WILL Athletic)の移動車両。今となっては数少ないプロレス団体のひとつで、全国各地の町の体育館や市民ホールを転々とし、わずかな観客の前で試合を続けている。


 一番前の座席に、まるでバスの進行方向を睨むように座る男がいる。屈強な体躯(たいく)、丸太のような腕。その名は新崎英二しんざき・えいじ。IWAのトップレスラーにして、団体の看板を一身に背負う男。全盛期を過ぎた今も、リングに上がり続ける理由が彼にはあった。


 それは、亡き恩師・アルフォンスの夢を継ぐためだ。


「いつか、俺も向こうに行ったときは……師匠の前で、胸を張って言いたいんだ。“俺は最後まで、プロレスラーだった”って」


 若き日の英二が、海を渡りドイツで学んだプロレスの原点。その道を照らしてくれたのが、恩師アルフォンスだった。彼が遺した夢は、もう誰も語らなくなった。でも、新崎はあきらめない。小さな会場でも、どんなに観客が少なくても、“あの夢”だけは、リングの上に持ち込む。


 その新崎の隣には、一人の男が座っていた。彼の名は高山ヒロミ。かつては一部のマニアから支持された技巧派だったが、今は地方興行専門のフリーランスレスラー。年齢は五十を超え、腰と肩も満身創痍。どこの団体にも所属せず、日々の日銭を稼ぐために試合をこなす。古傷がうずくのか、落ち着かない様子で何度も体の位置を直していた。


「ヒロさん、また腰かい?無理してんだろ」


 声をかけた如月に、古参のベテランレスラーは不機嫌そうに顔をしかめた。額に滲む汗は痛みの証であり、それを隠すように動きを荒っぽくしているのが一目でわかる。


「はん!ほっとけ。痛ぇのはお互い様だろ」


 無愛想なようで、言葉の節々に優しさがにじむ。英二にとって、数少ない“同じ匂い”のする男だった。


 派手さもなければ、映えるビジュアルもない古いレスラー。


 でも、マットの上では、誰よりもあきらめが悪い。倒れても、歯を食いしばって、もう一度立ち上がる。


(ヒロさん、あんたみたいな人間がいるから、俺もまだやれてるんだよ……)


 そんな言葉を、口に出したことはない。でも心の奥では、何度も、そう思っていた。


 特に人気があるわけでもない。SNSもよくわからないし、今さら始めようとも思わない。応援してくれるファンも、もう数えるほどしかいない。


 それでも、マットの上ではあきらめない。満身創痍の体にムチを打ち、必死にしがみつくよう戦っている。それが滑稽こっけいに見えてもいい。痛々しいと思われてもかまわない。


 時には自らをピエロにしてでも、観客の笑いを誘い、空気を動かし、退屈を吹き飛ばす。一発のドロップキックに、見えない執念を込めて。倒れても、立ち上がる。その姿だけで、何かを届けたいと思っている。


 そうやって今日も、リングの隅でレスラーとしての寿命を、わずかずつ延ばしている。生きるために。プロレスをやめたら、何も残らないからだ。


「お前みたいなロートルが、まだプロレスラーなんて名乗ってんじゃねえよ」


 観客の心ないヤジが耳に残る。それでもヒロミは、リングに立つことをやめない。なぜならリングの外には、居場所がないからだ。


 つぶしのきかない人生。学歴や資格もなし。やれるのはプロレスだけ。いや、プロレスすら「やれている」と言っていいのか、自分でもわからない。それでも今日もまた、地方の片隅でロープを握る。何度倒れても立ち上がる、あの無骨な生き様に、英二は知らず知らず心を奪われていた。


 バスは峠を越え、長いトンネルを抜ける。闇の口を抜けた瞬間、窓の外にぽつぽつと小さな町の灯りがにじんで広がった。山あいの静かな集落、その温もりが闇に浮かび上がるように見える。


 英二は何気なく、その先を確かめようと視線を遠くに投げた。だが――そこで、ふと目にひっかかる違和感を覚えた。


 視界の端に、何やら見慣れない文字がちらついている。最初は道路標識か看板かと思った。だが、焦点をずらしても、窓を移しても、それは消えるどころか必ず視界のどこかに貼りついてくる。


 まるで見えない膜のように、視線を遮る得体の知れない痕跡。


「……なんだこりゃ?飛蚊症か?」


 英二は思わず声に出した。けれど胸の奥では、ただの目の疲れで片づけられない薄気味悪さがじわじわと膨らみ始めていた。視界に焼き付いた見慣れぬ文字は、瞬きをしても、目をこすっても消えない。むしろ濃さを増し、黒い水のように視界の奥底からにじみ出てくる。


 額に冷や汗が浮かび、思わずシートの肘掛けを強く握りしめた。胸の奥でざわりと警鐘が鳴る。


 ――これはただの目の異常じゃない。何かが迫っている。そんな直感が背筋を冷たく走った。


 そのときだった。


 バスが突如として大きく揺れた。まるで路面の下から巨人の手で押し上げられたかのように、車体全体が軋みを上げて跳ねる。窓ガラスが震え、天井の蛍光灯が不安定に明滅した。


 シートベルトをしていた英二でさえ、体が半ば浮き上がる。心臓が喉まで競り上がり、先ほどまで視界にあった奇妙な文字が、今度は車内全体に焼き付いたようにちらついて見えた。


 「うわっ!」という誰かの叫びと同時に、車体が大きく傾く。バスのブレーキ音が車内に悲鳴のように響いた。


 前方、道路のど真ん中に、何かがあった。獣か。落石か。……それとも、もっと別の“何か”か。確認する間もなく、運転手はハンドルを切る。が、間に合わない。車体の側面がガードレールをかすめ、甲高い金属音が響き渡る。


「あぶねぇ!」


 車内にどよめきが広がった。突如として訪れた異常事態に、レスラーたちの大柄な身体が座席ごと大きく揺さぶられ、後部座席からは鈍い衝突音が連続して響いた。肩が、肘が、座席や窓枠にぶつかる音が、車内の混乱を物語っていた。


 その中で、瞬時に反応した者もいた。リングで鍛え上げた反射神経を活かし、とっさにロープワークよろしく座席の背もたれにつかまり、身体を支える者。あるいは咄嗟の受け身で床に転がり、衝撃を最小限に抑えようとした者。彼らの動きには、プロとしての身体感覚がにじんでいたが、それすらも状況を覆すには至らなかった。


 車体はすでに制御不能だった。フロントガラスの向こうに見えるカーブが急速に迫る中、運転手の必死のハンドル操作もむなしく、バスは激しくタイヤをきしませながら横滑りを始めた。重心を失った車体は、鉄の塊のように唸り声をあげてカーブに突っ込んでいく。


 ガシャアアアンッ!


 バスはガードレールを悲鳴のような金属音とともに突き破り、闇の底へと投げ出されるように転がり落ちた。何かが壊れる音が連続して鳴り響く。鉄とガラスがこすれ合い、砕け散るその叫びが、耳をつんざいた。


 ぶつかる、跳ねる、潰れる。車体は宙を舞いながら何度も地面に叩きつけられ、そのたびに内部のものすべてが暴力的に揺さぶられる。床と天井、どちらが上かわからなくなるような混沌。重力の向きさえ信じられず、世界が狂ったようにひっくり返る。視界は激しく引き裂かれ、破片と叫びと振動の渦の中で、すべてが白くちぎれ飛んだ。


 ——どれくらい時間が経ったのだろうか。


 あたりは嘘のように静まり返っていた。さっきまでの騒音がまるで夢だったかのように、音も気配も消えている。砕けた窓から吹き込む夜風が、皮膚にじわりと冷たい。倒れたシートの隙間からのぞくのは、見るに堪えない光景だった。荷物は四方に散らばり、破れたカバンからは衣類や日用品が溢れている。


 どこかで、水か何かが滴る音がしている。規則的なその音だけが、やけに現実的だった。


 沈黙の中、誰かが呻くように言った。


「……痛ってぇ……もう勘弁してくれよ……」


 かすれた声が、沈黙に沈んだ車内へ、ぽつりと響いた。深刻な状況にそぐわない、どこか間の抜けた、しかし確かに生きている人間の声だった。


 声の主は高山ヒロミだった。レスラーとして鍛え抜かれた大柄な体が、荷物の山の中からもぞもぞと動き出し、やがて半身を起こす。顔は煤け、額には切り傷。頭を押さえながら、ギシギシと軋むような動きで立ち上がる姿は、まるで壊れかけの機械のようだった。


 鼻血が唇を伝って顎を汚し、右肩は不自然な角度に落ちている。おそらく脱臼だろう。足元もおぼつかず、足を引きずりながら、フラついた体を無理やり支えるようにして、車内をゆっくりと見回した。


「……みんな……無事か……?」


 その声は掠れていて、それでも確かに仲間を呼ぶものだった。高山ヒロミの目に宿るのは混乱と痛み、そして、それらを押しのけるようににじむ、わずかながらの気遣いの色だった。傾いた車体の中、ひしゃげた天井の下で、彼の視線は散乱した荷物と倒れたシートの隙間を彷徨い続ける。返事はない。だが、その沈黙の奥に、気配はあった。


 彼の鈍い動きに呼応するように、車内のあちこちで微かに呻く声が上がり始める。荷物の陰から、シートの下から、血に染まりながらも数人の選手たちがゆっくりと身体を起こした。顔をしかめ、骨のきしむ音に耐えながら、それでも――立ち上がる。


 たとえ骨が折れていようと、血が滲んでいようと、意識が朦朧としていようと――体がまだ動く限り、レスラーは立ち上がる。それが彼らの矜持であり、リングの外でも変わらぬ本能だった。


 だが、その中に――新崎英二の姿はなかった。


 ヒロミの視線が探していたのは、誰よりも頼れるあの背中。窮地でも冷静さを失わず、仲間を鼓舞するあの落ち着いた声。けれど、そこにはいない。どこにも。その不在が、現実味をもって胸に迫ってきた。


 車内を包むのは、今や呻き声すら消えた異様な沈黙だった。誰もが、それに気づいていた。いや、気づいていながら、まだ口に出すのをためらっていたのだ。最悪の事態を。


 ヒロミが低く、だが震えるような声で叫ぶ。


 「おい!お前ら、表に出るぞ!」


 がたん、と誰かがシートに手をついて立ち上がる音がした。ヒロミの号令に、次々と選手たちが反応する。痛みを押し殺し、身体を引きずりながら、ドアの破れた隙間や割れた窓から、ぞろぞろと外へ出ていく。仲間がいない。その事実が、彼らの体を突き動かしていた。


 バスの周囲、崖下の草むら、道路、林の中――。


 若手たちはスマホのライトを懐中灯代わりにしながら、泥に足を取られ、枝に顔を引っかかれながらも血眼で探した。ヒロミもまた、足を引きずりながら、ぬかるみに踏み入り、砕けた枝をかき分けて進んだ。何度も転び、膝をつき、それでもなお立ち上がり、呼び続けた。


 一方、バスのほうでは、奇跡的に後部座席の椅子がクッションになって助かった運転手を、若手選手たちが懸命に介抱していた。


 ヒロミは立ち止まり、荒くなった呼吸を押し殺すように胸に手を当てた。耳の奥に血の脈打つ音が響く中、それでも必死に闇の向こうに意識を伸ばす。ざわめく木々の音、湿った土の匂い、遠くでかすかに水の滴る音――どれも違う、探しているのはそんな音じゃない。返事だ。英二の声だ。


「英二……!英二ーッ!」


 夜気を震わせるように叫ぶと、声は森の奥に吸い込まれ、反響もなく消えていった。ヒロミの胸を、焦りと恐怖が締めつけた。


 返事はない。木々のざわめきと、どこか遠くで響く虫の声だけが夜に混ざる。


 だが、どこを探しても――新崎英二はいなかった。まるで最初から、そこに存在していなかったかのように。痕跡ひとつ、残されていなかった。


 湿った空気が、トンネルの奥から静かに漏れてくる。季節には似つかわしくない生暖かい風が、どこか不吉な予感を運んでいた。


 ヒロミは息を切らしながら、その場に立ち尽くした。


「あいつ……、どこへ行った?」


 ヒロミはふと思う。いつものように、どこからともなく憎まれ口を叩きながら現れると。


「ったくよ、心配しすぎなんだよ、ヒロさん」


 耳の奥に響いた気がしたその声は、幻に過ぎない。だが軽口の裏には、どこか安心したような響きが重なって聞こえる気がした。相手が健在だからこそ出てくる悪態――そう思えてならない。


「俺がそんなんでくたばるかっての」


 その言葉までもが、まるで記憶の中から引き出された台詞のように自然と頭に浮かんでくる。


 そう言って、ひょっこり現れるんじゃないか。埃まみれの顔に、ニヤついた顔を浮かべて。そんな淡い期待が、胸の奥でうっすらと灯っていた。


 馬鹿くさい、と自嘲する。でも、それが英二って男だった。ヒロミは震える拳をぎゅっと握りしめた。


「なぁ、英二……ふざけんなよ。いい加減、出てこいって!」


 声は闇に吸い込まれるように消えていく。だが、どれほど耳を澄ましても返事は返ってこなかった。


 聞こえるのは、木々を揺らす夜の風の音と、どこかで絶え間なく鳴く虫の声だけ。自然のざわめきがかえって無情に思え、呼びかけた声の空虚さを際立たせていく。


 胸の奥に広がるのは、じわじわと冷え込むようなざわめき。言葉にできない不安が根を張り、心臓の鼓動を押しつぶすように重くのしかかる。


 まるで、英二の沈黙そのものが「もうここにはいない」と告げているかのようで――ヒロミは喉をきつく鳴らし、乾いた息をのみ込むしかなかった。

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