第41章絶望の後に差す光
メリサに絡んできた酔っぱらいは、まだ路上に転がったままだ。 顔面に食らった強烈な一撃と、浴びるほど飲んだ酒のせいで、もはやピクリとも動けない。
ひとまず騒ぎは収まった。 だが、サンディに向けられたメリサの視線は、依然として硬い。……冷たく、鋭い。
その厳しい眼差しの奥で、何かがわずかに和らいだ。 (確かに、イラっとはした。けど……) サンディのあの無鉄砲な行動は、自分を守るためのものだ。小さな感謝が胸に芽生えるのを、メリサは必死で押し殺す。
今、礼を言えるような状況ではない。 メリサは、再び心の鎧を纏い直さなければならなかった。この見知らぬ男二人の前で、弱みを見せるわけにはいかない。
「お嬢さん。」 グレッグが、わざとらしく慌てたような、心配するそぶりで声をかける。 「大丈夫かい? 怪我はなかった?」
それが偽りの仮面であることなど、メリサにはお見通しだ。グレッグを流し目で一瞥するだけですぐに前を向き直す。
「ええ。」 メリサは、あくまで平静を装った声で答える。 「大丈夫です。助けていただいて、ありがとうございます……えっと?」
その言葉尻に込められた意図を、グレッグは即座に察した。 「グレッグだ。アンタもグレッグと呼んでくれ。」
「俺はアレだ!」 大柄な男も、聞かれてもいないのに名乗った。
二人の名前を知り、メリサは途切れた言葉を続ける。 「ありがとうございます、グレッグ様、アレ様。」 腕の中でミラが眠っているにもかかわらず、メリサは軽く頭を下げた。
「『様』なんてガラじゃねえよ。」 グレッグがすかさず訂正する。 「大したもんじゃない。呼び捨てでいい。」
「では、グレッグさん。」
「それじゃ、先を急ごうか。」 短い騒動の後、一行は再び『スカーレット診療所』を目指して歩き出した。
◇◇◇
ズルヴィアンから告げられた、絶望的な言葉。それがジャミルの頭を殴りつける。 思考が、真っ白に染まる。 膝から力が抜け、床に崩れ落ちそうになるのを、ありったけの意識で堪える。 ジャミルは、汚れた固いベッドの端に、どさりと腰を下ろした。
そのまま、わしづかみにした前髪を、強くかきむしる。 「あぁぁッ!!」 絶望の叫びが、口からこぼれ落ちた。
部屋にいる誰もが、同情的な眼差しでジャミルを見つめる。 だが、これもすべてはリーダーの筋書きだ。 彼らは、それぞれの役を演じることしかできない。
ズルヴィアンは何も言わず、ジャミルの隣に腰を下ろす。 その肩に腕を回し、落ち着かせようと引き寄せた。 そして、先ほどの言葉の続きを紡ぐ。
「もう、思い詰めるな。」 ジャミルの荒れた心を鎮めるように、穏やかに語りかける。 「あいつのことは、静かに見送ってやれ。もう泣くんじゃない。……それより、お前に大事な贈り物をくれてやる。何だと思う?」
ズルヴィアンは、言葉を終える前に、仲間たちへ目配せする。 ジャミルに気づかれないよう、ハンを中に入れる合図だ。
「贈り物なんて、いりません、ズルヴィアンさん……」 両手で顔を覆ったまま、ジャミルはくぐもった声で答える。 「それは他の人に。……僕に、そんな資格はありません。」
ズルヴィアンは、その絶望的な響きをあえて無視する。 ハンがアジトに入り、ジャミルの目の前で立ち止まる。まさにそのタイミングで、ズルヴィアンは一層優しい声色で応じた。
「ジャミル。そんなことを言うな。」 ズルヴィアンはそう言うと、ジャミルの手首を掴む。 「いいから、前を見てみろ。」
無理やり両手を引き剥がされる。 ぼやけたジャミルの視界に、まず一組の裸足が映った。 ゆっくりと、本当にゆっくりと、顔を上げる。 視線が上がっていき――そして、痣だらけのハンの顔と、交わった。 ハンの隣には、見知らぬ金髪の少女が立っている。
(ズルヴィアンさんの仲間じゃない。ハンの知り合いでもない……。……誰だ、あの子は?)
ジャミルの顔から、絶望の色が一瞬で消え去る。 瞳が激しく揺れ、まぶたの裏に、透明な膜が急速に張り詰めていく。
震える唇から、か細い呟きが漏れた。 「ハン……」 信じられなかった。さっきのズルヴィアンの話は……嘘だったんだ。 孤児院を出てから初めての、何物にも代えがたい、幸福な驚きだった。
反射的に、ジャミルはベッドの端から飛び上がる。 まだ金髪の少女に支えられているハンの体に、そのまま勢いよく抱きついた。 ハンも、その抱擁に応える。 知らず、一筋の涙が静かに頬を伝った。
金髪の少女――ジャスミンは、小さく息を吐くだけだ。 うつむき加減に腕を組み、心底うんざりした、という表情を浮かべている。
「無事で……よかった。」 ハンは、そっとジャミルの体を離しながら言った。
短い再会を終え、ハンはジャスミンを横目で見る。 少女の表情は、変わらない。 (……長居はしたくない、か) ジャスミンの居心地の悪さを察し、ハンはジャミルに向き直って話を切り替えた。
「長くは、いられない。」 ハンは痛む腹部を片手で押さえながら、きっぱりと言う。 「俺は、この子と一緒にある場所へ行く。」
「『ミューズ』のアジトにかい!?」 ジャミルが、目を輝かせて食い気味に尋ねた。
「違う!」 ハンの答えは、短く、冷たかった。 ハンは、横目ではなく、今度はジャスミンに真っ直ぐ向き直る。
「ジャスミン。」 穏やかに呼びかけた。 「ジャミルに、アンタの計画を説明してやってくれ。」
ハンが言い終わるやいなや、ジャスミンは「はぁ!?」と、苛立ちを隠さずに声を上げた。 顔をしかめ、唇を尖らせる。あからさまな不機嫌だ。
「なんで、あたしが説明しなきゃなんないのよ。」
「牢屋で、『説明してる時間はない』って言ったのはアンタだろ。」 ハンが言い返す。 「今この瞬間まで、アンタは俺にも計画を説明してない。」
その的を射た指摘に、ジャスミンの不機嫌な表情が、一転して間の抜けたものに変わる。 あからさまな「忘れてました」というポーズ。 天を仰ぎ、目をぎゅっと閉じ、ポリポリと痒くもない頭を掻きながら、へらりと笑ってみせた。 その姿は、ハンの目にはひどく滑稽に映った。
ジャスミンは、カラカラと小さく笑いながら、一言。 「……ど忘れしてた。」




