第40章取り返しのつかない瞬間
合意は、なされた。 メリサは見知らぬ男二人の後を、緊張した静寂の中、ついていく。 サンディはその傍らにぴったりと張り付き、小さな歩幅で懸命に後を追った。
メリサは、前方を行く男たちの背中から視線を外さない。 その鋭い眼差しは、彼らの一挙手一投足を捉えて離さない。 男たちの頭が近づき、何事か聞こえない声で囁き合っているのが見える。 ――間違いなく、次の一手を相談している。
不意に、服の裾がくん、と軽く引かれた。 メリサは振り向くまでもない。研ぎ澄まされた感覚が、サンディの不安を即座に察知する。 少年へと、ちらりと視線を送る。
「どうしたの、サンディ。」 と、メリサは声を潜める。
「……あの人たち、どこに連れて行く気、メリサ姉ちゃん?」 サンディの声はほとんど聞こえず、恐怖に引きつった囁きに近かった。
メリサは素早く首を振り、再び前方の警戒に戻る。 「分からない。」 と、メリサは囁き返した。 「今はただ、ついて行く。あたしが命令するまで、絶対に何もするな。……分かった!?」
サンディは、小さく頷く。声なき約束。 (分かってる……) サンディは唾を呑み込む。メリサの目に自分がどう映っているか――軽率で、無鉄砲――は、重々承知していた。今度こそ、従うしかない。
合流地点からわずか数十メートルも進まないうちに、騒々しい声が緊張を破った。 道端に転がるようにたむろしていた、酔っ払いの集団。彼らが、メリサたち一行に気づいたのだ。
「おォ……グレッグじゃねえか、てめえ!」 三十路ほどの、赤みがかった髪をべったりさせた男が叫ぶ。体格はグレッグの仲間ほどもあるが、その声は酒でひどくしゃがれていた。 「どこでそんな別嬪さん捕まえてきたんだ、アァ?」
痩せた男――グレッグは、その声を無視する。代わりに、大柄な仲間が応じた。 メリサは、その下卑た問いかけなどまるで意に介さない、というように平静を装っている。
「トク・リエの鍛冶屋の近くだ。」 と、大柄な男が答えた。
「へえ……」 酔っ払いは、ただ鼻を鳴らす。 顔は恥ずかしさからではなく、純粋なアルコールのせいで真っ赤に歪んでいる。 男は、おぼつかない足取りで、メリサたちの方へと向かってきた。
近づいてくるのに気づき、グレッグが不意に立ち止まる。 そのせいで、メリサは危うくその痩せた背中にぶつかりそうになった。
酔っ払いは、今や一行の目の前に立ちはだかっている。 メリサが抱くミラには目もくれず、その濁った視線はただ一点に注がれている。 男はメリサとサンディの周りをぐるりと回り、まるで品定めでもするかのように二人を眺め回した。
「いイ……お嬢ちゃんだ。」 男が囁く。吐く息が、酸っぱい酒の匂いを撒き散らした。 「なかなか、いい身体してんじゃねえか!」
サンディの顎が、ギリ、と音を立てる。 (このクソ野郎が……メリサ姉ちゃんを……!) 小さな両手が固く握りしめられ、その顔は怒りに歪む。もしメリサに指一本でも触れようものなら、即座に飛びかかれるよう、男の動きの一挙手一投足を見据えていた。
だが、速すぎた。 酔っ払いの右手が伸び、メリサの手首を掴もうとする。 ――もう、たくさんだ。 サンディが、爆発した。 我慢の限界だった。 サンディは体勢を低くし、拳を繰り出そうと踏み込む。
しかし、ひどく酔ってはいたが、男の勘は鈍っていなかった。 サンディが飛びかかった瞬間、メリサを狙っていたはずの右手が、いとも容易くサンディの拳を受け止める。 サンディは目を見開く。渾身の一撃は、完全に防がれた。 身を引いて距離を取ろうとするが、無駄なあがきだった。
酔っ払いは、サンディの拳を万力のように握りしめる。 サンディが必死に振りほどこうとするが、きつく締め上げられ、痛みに顔を歪めた。
もがく子供のことなど意にも介さず、酔っ払いは再びメリサに向き直る。 手首を掴み損ねた男は、今度はその体を屈め、メリサの胸元を貪るような視線でねめつけた。 奇妙な笑みが、その顔に浮かぶ。 舌が、ずるり、と這い出し、喉の渇いた犬のように、自らの唇を舐め上げた。
「お嬢ちゃん……」 男が再び呼びかける。舌がまだ出ているせいで、その声は不明瞭だ。 「ちょっと、触らせてくんねえか? ……その乳、吸わせてくれよォ?」
サンディは暴れるが、どうにもできない。 (どうすれば……こいつの顔を殴ってやりたいのに……!) サンディの思考が混乱する、その最中。
メリサが、動いた。 ミラを守るためか、あるいは単にバランスを取るためか――わずかに体を捻る。 その動きによって、彼女の片方の胸が、ちょうど屈み込んでいた酔っ払いの顔に触れた。
その接触に、酔っ払いはビクッと反応する。 その表情が、途端に締まりのない、馬鹿げたものに変わる。 「きひゃッ……」 奇妙な声が、その口から漏れた。
自分たちの「獲物」が横取りされそうになるのを見て、グレッグたちが黙っているはずもなかった。 二人が、踏み込む。 何の警告もなく、グレッグの拳が、酔っ払いの顔面を捉えた。
ゴッ!!
鈍い音。 男はそのまま地面に崩れ落ち、頭を路肩に強く打ち付け、動かなくなった。
サンディは、握りしめられて赤くなった自分の手を、慌てて擦る。 そして、メリサを見上げて――凍り付いた。 メリサの表情が、硬く強張っていた。 その瞳は、冷たく、虚ろだ。 (あ……) サンディは、そのサインの意味を悟る。 (……メリサ姉ちゃん、怒ってる) 自分が、たった今、命令を破ったのだと。
◇◇◇
アジトの扉が、押し開けられる。 牢獄からの短い道のりを経て、ズルヴィアンの一行が戻ってきたのだ。ジャミルへの約束通り、手ぶらでは帰ってこなかった。
真っ先に中へ入ったのは、ズルヴィアンだ。 飛び込んできた光景――汚れた固いマットレスの上に、ジャミルが横たわっている。 だが、彼らの足を止めたのは、その事実ではない。 彼らの視線は、ジャミルが「何をしているか」に釘付けになった。 彼は……己の「大事なもの」を取り出し、それを弄んでいたのだ。
入ってきた者たちの目が、一斉に見開かれる。 目の前の光景が、信じられない。 ジャミルは、ビクッと飛び起きた。 パニックに陥り、慌てて服を整え、その「ブツ」を隠そうとする。 (……遅い) 全員が、しっかりと目撃した後だった。
「……何やってんだ、お前。」 ズルヴィアンの後ろに立っていたエッセが、困惑と嫌悪に顔を歪めながら尋ねた。
「お、お帰りなさい、ズルヴィアンさん、皆さん!」 ジャミルは、エッセの問いを必死で無視し、どもりながら応対した。
ズルヴィアンは、その恥ずべき光景からフイと顔をそむける。 彼の頭の中は、ジャスミンとハンの間で交わされた約束でいっぱいだった。 時間の無駄だとばかりに、ズルヴィアンは狭いアジトの中へと足を踏み入れた。
その時になって、ジャミルは気づいた。 ズルヴィアンの仲間たち一人一人の顔を、見知った姿を探して、目で追う。 (……いない) ハンの姿が、そこにはなかった。
歓迎のために広げかけていた両腕が、ゆっくりと、力なく体の脇へと落ちていく。 「ず、ズルヴィアン……さ……ん。」 ジャミルが、か細い声で呼びかける。 その声は途切れ途切れで、想像しうる最悪の事態に、力が抜けていく。 「ハンは……ハンは、どこです?」
ズルヴィアンは、すぐには答えない。 そのまま歩み続け、ジャミルの真正面に立つ。 重々しく手が上がり、ジャミルの肩に、ぽん、と置かれた。
ズルヴィアンは、うつむいた。 絞り出された声は、ひどく重く、後悔に満ちていた。
「すまない……。あいつは……」




