第38章合言葉の夜
ズルヴィアン一行の出現に、エッセ、クレテク、リアン、そしてあの兄弟は息を呑んだ。 誰もが、凍り付く。 それぞれの胸の内で、同じ疑問が声もなく渦巻いていた。
(どうやって、あんなに堂々と出てこられたんだ?)
我に返ったエッセが、彼らに駆け寄ろうとする。 だが、一歩踏み出したところで、後ろからティックに腕を強く引かれた。
動きを制され、エッセは鋭い視線で振り返る。苛立ちを露わに、問い詰めた。 「なんで止めるんだ、ティック。」 そのまま腕を振りほどく。
「すまない。」 ティックの口から出たのは、それだけだった。 それ以上の説明はなく、ただ奇妙な光を宿した瞳でエッセを見つめている。
(……何かが、おかしい) エッセは息を呑み、今度はできるだけ穏やかな声色を作って、再び問いかけた。 「説明しろ。どうして俺を行かせなかった?」
ティックはすぐには答えない。 その視線はエッセの肩越し、闇を抜け、まっすぐこちらへ近づいてくるズルヴィアンたちの一団に注がれていた。
エッセの問いをしばし宙に泳がせた後、ようやく口を開いた。 「早まるな。」 と、ティックは静かに言う。再びエッセの腕を掴み、今度は強く握りしめる。 「次に何が起こるか分からない。俺たちが見ているのは、ただの幻かもしれない。」
幻――その論理的な言葉に、聞いていたリアンとクレテクもまた緊張に身を硬くする。 彼らは警戒しすぎていた。看守たちが仕掛けた、待ち伏せの罠である可能性も捨てきれない。
「ティックの意見に賛成だ。」 静寂を破り、クレテクが落ち着いた声で言った。 「ここで奴らを待とう。まだ信じるな! ここに着いたら、こう聞くんだ。『合言葉は?』と。」
(面倒な!) エッセの脳裏を、その一言がよぎる。 だが、仲間たちに視線を送れば、全員がクレテクの案に頷いていた。……多勢に無勢か。
「わかったよ!」 と、エッセは言い放つ。ティックから二度目に腕を引き抜き、くるりと背を向け、ズルヴィアンたちが到着するのを待った。
彼らの間に、会話はない。 静寂が、ますます色濃くなる夜空に溶けていく。 時折、北東からの風が強く吹き付け、沈黙を引き裂き、木の枝を揺らし、彼らの服を弄んだ。
二つの集団を隔てる距離が、やけに長く感じる。 一分一秒が這うように進み、忍耐を試す。 エッセは目を細め、まだ信じまいと抗っていた。
だが、その人影は次第に輪郭をはっきりとさせていく。 幻などではない。 ズルヴィアン、ボロボロのボロ、ムルニ、そしてムルナ。傷を負ったハン。……と、見知らぬ金髪の少女。
それでも、クレテクが決めた取り決めからは逃れられない。 結局、口火を切るのはエッセの役目だ。 ズルヴィアンたちが目と鼻の先まで来た、まさにその時。エッセは片手を上げた。
「そこで止まれ!」 エッセは毅然と言い、手のひらを外に向ける。 「もしあんたが本物のボス・ズルヴィアンで、幻じゃないってんなら、合言葉を言ってみろ。」
その馬鹿げた物言いに、ズルヴィアンは眉をひそめる。 疲労困憊の顔に、戸惑いの色がはっきりと浮かんだ。
「どういう意味だ、エッセ?」 ズルヴィアンはか細い声で尋ねる。 「いきなり合言葉だなんて……っ」
その言葉は遮られる。エッセが、より強い口調で被せた。 その視線が、ハンを支える金髪の少女へと鋭く走る。 「質問するな! さっさと合言葉を言え!」
ズルヴィアンの怒りが込み上げてくる。 これ以上場を荒立てまいと、両の拳を固く握りしめて耐える。 長く息を吸い、ゆっくりと吐き出し……ようやく、エッセの馬鹿げた要求に応えた。
「シア、シア……アイン、アイン……ジャディ・ナ・クマハ・アイン。」
合言葉は、静かにその口から紡がれた。 途端に、エッセたちの間に張り詰めていた緊張の糸が、ぷつりと切れる。 ……本物の、ズルヴィアンだ。
自分の勝手な憶測に振り回されたことに気づき、エッセはそっぽを向く。 その視線はクレテクへと転じた。 無邪気な馬鹿みたいに、ふにゃりと笑みを浮かべるクレテクの顔面を、冷たい視線が射抜いた。
「この野郎、クレテク!」 エッセは歯ぎしりする。ゆっくりと歩み寄り、何の予告もなく、クレテクの胸ぐらを掴み上げた。 「よくも俺を、もてあそんでくれたなァ!!」
クレテクは必死にその手を振りほどこうとするが、無駄なあがきだ。エッセの握力は、あまりにも強い。 「もてあそぶつもりなんてなかったんだ。」 クレテクはか細い声で弁明する。 「俺はただ――」
その言葉は、より大きな怒声によってかき消された。 牢の中で溜め込んでいた感情を、ズルヴィアンが遂に爆発させたのだ。 「もうやめろ、いい加減にしろ! 今日の貴様らには、反吐が出る!」
そのくだらない茶番劇に、ハンの隣にいた金髪の少女は顔をそむけた。 チッ、と小さな舌打ちが漏れる。ハンにかろうじて聞こえるほどの、小さな音。少女はうんざりしているようだったが、何も言わずに黙っている。
少女の不機嫌な表情を察し、ティックが空気を変えようと、真っ先に口を開いた。 「ボス。」 ティックは穏やかに呼びかける。そのまま、少女の方を指差した。 「その子は? なんで一緒にいるんだ?」
再び怒鳴りつけようとしていたズルヴィアンは、ティックの声に動きを止める。 その瞳にはまだ怒りの色が残っていたが、ティックが指差す方へと視線を移した。 瞬間、場の焦点が切り替わる。 全員の視線が、見知らぬその少女一人に集中した。 突き刺さるような視線を感じ、少女はぐっと下唇を噛み、苛立たしげに顔をそむけた。
なけなしの忍耐力を振り絞り、ズルヴィアンはティックの問いに答えた。 「ああ……この子、か。」 ズルヴィアンは困惑したように言う。 「俺も、まだ名前を聞けてないんだ。だが、この子のおかげで、俺たちは無事にここから出られた。」
その説明では、ティックは納得しない。 警戒を露わに、少女へと一歩踏み出す。 そして、何の遠慮もなく、夜のように冷え切った声で問い詰めた。 「アンタ、一体何者だ? 目的は――」
「勘違いしないで!」 少女は、ティックの心を見透かしたかのように、鋭く言い返す。 「アンタたちみたいな素人と馴れ合うつもり、ないから!」
言い終わると、少女は踵を返した。 「行くよ、ハン。」 まだ自分に寄りかかっているハンの腕を引く。 「ここから離れる。」
ハンの名前が呼ばれ、エッセが素早く反応する。 だが、それより早く。ズルヴィアンが声を上げ、二人の歩みを止めた。
「待て!」 ズルヴィアンが鋭く言う。 「ハン、お前に会いたがっている人がいる。」
二人は意に介さず、歩き続ける。 その背中に、ズルヴィアンはさらに声を張り上げた。
「ハン……! 聞こえないフリをするなら、お前の仲間……ジャミルに、こう伝えておく。お前は、俺が着いた時にはもう死んでいた、と!」




