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この作品には 〔ガールズラブ要素〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

ひと知れず咲く花に、名前はいらない。

ブラック教会に勤める聖女ですが、すっ転んで頭を打った拍子に前世の記憶が蘇りました。でも前世、ただの猫でした。にゃーん。

作者: でんぱ

 平凡な宿の二階。簡素な一室。

 ろうそくが小指の先ほどまで小さくなり、その灯りもゆらめき始めた頃。

 ようやく最後の聖水を作り終えたキトゥンは、うつろな表情で小さく息を吐きました。

 テーブルの上に並ぶ小瓶は、きっちり20個。全てに飽和寸前まで自身の祝福を注ぎ込んでいます。

 黎明の空は星が霞み、すでに白みがかっていました。

 少し建て付けが悪い宿の窓からは、すきま風と共に、鶏の遠い声が入り込んできます。

 もはや、ため息をつく気力すらなくなっているキトゥンは、倒れるようにベッドへと潜り込みます。

 そして、頭の片隅でほんのわずかに残っていた理性が、これから取れるであろう睡眠の時間を逆算します。考えるだけで気が滅入ることではありますが考えないわけにもいきません。

 昨日の神父様のお言葉を思い返します。すでに思考がまとまらなくなり始めていましたが、お屋敷へ招かれていた時間は、二つ目の鐘の頃とおっしゃっていたはずです。

(馬車の時間を考えても、一つ目の鐘が鳴るまでは、寝ていられるはず、です……)

 一度閉じた瞼は、まるで糊でも貼られたように動きません。

 キトゥンは固い枕に顔をうずめ、意識を溶かすようにそのまま眠りに落ちました。


「いつまで寝こけておるつもりだ。出発の時間は疾うに過ぎておるぞ」

「申し訳ありません。すぐに参ります」

 宿の玄関から、神父様の大きな声が響きます。

 キトゥンは両手に抱えた小瓶の入った箱を落とさぬよう、慎重に階段を駆け下ります。

 そして神父様もとへとたどり着くと、ぺこりと頭を下げました。

「まったく、子どもではないのだから時間くらい守りなさい」

「申し訳ございません」

「今日のお勤めのお相手は、きちんと頭に入っているな?」

「はい。伯爵さまのご子息が大火傷を負ったとのことで、その処置を求められてるとお聞きしています」

「よろしい。では、すぐに出発だ。昨日言っておいた聖水は、全てできているか?」

「はい、こちらに」

 キトゥンは手に持っていた箱を神父様へ手渡します。

 昨晩は、衣類の手入れをする時間もありませんでした。真っ白なローブについてしまった皺をごまかすように箱を持っていたため、お小言が増えないかと少し緊張が走ります。

「……うむ、よいだろう。これから馬車で伯爵さまの屋敷へ向かう。道中、半刻ほどはかかるだろう。その間、お前は聖水の箱詰めをやっていなさい。木箱と麦わらは、荷台の隅へ積んでおいた」

 そう言って、神父様は馬車の御者台へと向かっていきました。

「承知しました」

 キトゥンは、ほっと胸を撫でおろし、改めてぺこりと頭を下げます。

 そして、神父様に気づかれないように重い息を吐きます。

 もう慣れてしまったことではありますが。

 聖水を手渡した時、神父様のローブから、お酒と、強い香水の匂いがしました。


 きっかり半刻馬車に揺られ、街の郊外のお屋敷へと到着しました。

 案内された大きな応接間には、幅広のソファに奥方様と(くだん)のご子息が並んで腰かけておられました。

「それで、あなた方でしたらウチのマリヴちゃんの傷を治せるとお聞きしましたが本当なのかしら?」

「もちろんです。我々にお任せください」

 対面に据えられた上等そうなソファに腰掛けた神父様が、柔らかい笑みを浮かべおっしゃいます。

「何人ものお医者様が匙を投げた大傷ですのよ?」

「そのような方々を救うことこそ、我々の本懐なのです。是非、お任せください」

 そして、後ろで控えていたキトゥンへ目配せをします。

 キトゥンは一言、「失礼します」と言って、少年のもとへと歩みより、顔に残った傷の状態を確認します。

 確かに痕に残りそうな傷ではありますが、大火傷というにはあまりにも控えめな痕でした。

「治せるな?」

「はい」

「では、やりなさい」

 キトゥンはこくりと頷き、くすぐったそうに顔を背ける少年に向かい、片手をかざします。

 ややあって、手のひらに微熱を感じ始めるようになったころ、少年の顔から、まるで煙が風に吹かれるように、傷跡が消えていきました。

「まあ!!」

 奥方様が、ご子息のお顔を両手で包み込んでまじまじと見つめます。

「いかがですか?」

「素晴らしいわ、神父様!! 教会の癒しの祝福は社交界でも評判とは聞いていましたけれど、まさかこれほどとは思いませんでしたわ」

「お気に召していただいたようで光栄です」

 奥方様が喜ばれる様子を見て一仕事を終えたことを確認したキトゥンは、ひっそりと気配を抑えて神父様の後ろへ控えます。

 ちょうどそこへ、伯爵さまがいらっしゃいました。

「あなた、見て頂戴。マリヴちゃんのお顔が、こんなにきれいに」

 伯爵さまは、ご子息と、満足そうに嬌声を上げる奥方を一瞥だけして頷きます。

「教会の祝福は評判通りだったようだな。家内も非常に喜んでくれているようだ」

「恐縮です」

「ねえ、神父様。ほかにも、不老長寿の祝福などをいただくこともできると伺っていたのですが、本当ですか?」

「ええ、もちろんです。確かに、そういった祝福をご要望されるかたもいらっしゃいますな」

「では、わたくしにもお願いできますか? 是非、不老の祝福を」

 神父様は、そこで、いかにも申し訳なさそうな顔を作ります。

 まあ、いつものことです。

「申し訳ございません。祝福は一日に一度までの奇跡ですので、今日すぐにというわけにはいかないのです」

 奥方様は、目に見えて肩を落とします。

「でしたら、次にこの街へいらっしゃるのはいつごろになるのかしら?」

「今日はたまたま巡礼の途中で立ち寄れましたが、個別のご依頼となるとなんとも。おそらくですが、何か月、あるいは何年もあとになるかもしれません」

「ねえ、あなた。この街にも教会を誘致しましょうよ。そうすれば、何か月も待たずとも定期的にいらっしゃっていただけるのでしょう?」

「それは素晴らしいお考えです。主もきっとお喜びになるでしょう」

 しかし、伯爵さまは眉を顰めます。

「構わんが、さすがに一朝一夕にできることではないぞ」

「そうよねえ、なんとかならないのかしら」

「実はそのような方のために別のものもご準備しておりますよ」

「別のもの?」

 ここまでの話の流れは、もう慣れたものです。

 キトゥンはしずしずと奥方様のもとへと歩み寄り、木箱を差し出します。

「これは?」

「我々が聖水と呼んでいるものになります。我々が直接施す祝福と比べると効果はやや劣りますが、こちらを身に振りかけていただければ同様の効果を得られます」

「まあ!!」

「非常に貴重なものですが、相応のご寄付をいただければ、そちらを差し上げることもできるのですが……」

「いかほどだ?」

「およそ、この程度が目安となります」

「ふむ、…………よいだろう。一ついただこう」

「主も、お喜びになります」

 もとは、昨日休憩に立ち寄った川で汲んだ水が、馬車が買えるほどの金貨に変わりました。

 キトゥンは、思わずこぼれそうになったため息を飲み込みます。

 上機嫌な奥方様にわざわざ水を差すこともないでしょう。効果に偽りはありませんし。

「ところで神父様、今宵は一緒にお食事などいかがかな」

「ふむ、そうですね。お食事の申し出もありがたいのですが、私はどちらかと言うと華を好みますので」

「なるほど、華か。では、美しい華も色とりどり取り揃えよう。一輪でも、二輪でも、好きなだけ愛でられるとよい」

「それは、素晴らしいですな」

 我慢しきれず、小さなため息が漏れてしまいます。

 伯爵様は、そのときようやくキトゥンの存在に気が付いたというように、バツが悪そうに顔を逸らすと、わざとらしく咳ばらいをします。

「あ、いや。これは失敬。聖女様もご一緒でしたな。先ほどのお話は、なかったことにさせていただきましょう」

「いえいえ。せっかくご招待いただいたのですからご好意を無碍(むげ)にはできますまい」

「よろしいのですか?」

「ええ、もちろんです」

 嫌な予感がしました。

「というわけだ。お前は先に帰っていなさい」

「……その、どちらへでしょうか」

「ん? 無論、宿までに決まっておろうが」

 神父様は、馬車で半刻かかったこの道を、歩いて帰れとおっしゃっているようです。

 寝不足でふらふらのコンディションでこの事態は、さすがに途方に暮れてしまいそうになります。

「困りごとかい?」

 そのとき、しゃがれた女性の声が会話に交じりました。

 さきほど伯爵さまがいらっしゃった入り口から、一人の女性が顔を出していします。

 喉は完全に酒に焼かれているようですが、声の印象より歳は若いようで、キトゥンとさほど変わらないように思われます。

「その、どちら様でしょうか?」

「アタシはただの商人さ。伯爵さまのお屋敷へ定期的に日用品や食品の(おろ)しにやってきている。街へ帰るアテがないんだったら、アタシが送ろうか?」

「商人様でしたか。ですが、お手間ではありませんか?」

「ちょうど一仕事終えて街へと帰ろうとしていたところだ。どうせ、ついでだし、聖女サマさえ良けりゃ、アタシは構わないよ」

 正直、ただこうして立っているだけで限界に近い状態です。折角ですから、ご厚意に甘えさせていただくことにしました。


 ほどなく、伯爵さまへのご挨拶を済ませ、一足先に帰り支度を終えました。

 といっても、キトゥンはもともと荷物などほとんどなく、身一つです。

 一方で商人様のほうは馬車の準備が大変そうでしたのでお手伝いをしようとしたのですが、荷台に手を伸ばしたところで、その手をはたかれました。

「積み荷には触れるんじゃないよ」

 当然悪意があったわけではありませんが、気を悪くしてしまったようでしたので素直に謝ることにします。

 商人様はお名前をカトレア様とおっしゃいました。

「カトレア様は、この街で長いのですか? それとも行商のようなものもされているのでしょうか?」

「アタシの場合は、どっちかって言うと行商のほうがメインだよ。一年くらいの周期で、あちこちの街を周回している」

「その割には、伯爵さまとはずいぶん懇意になさっているようでした」

「……まあ、この街には思ってたよりも長くなっちまったからね。でも、そろそろ頃合いだな。次の街での売り時を逃しちまう」

 道中は御者台の隣を譲っていただきました。

 隣で眠ってしまっては失礼だろうと思い、眠気覚ましを兼ねて色々とお話をさせていたのですが、

「別に、眠いようだったら私に気にせず眠ってくれて構わないよ。見りゃわかる。アンタ酷い顔だ」

それは却って気を使わせてしまっただけのようでした。

 酷い顔と言われてしまっては、返す言葉もありません。

 これ以上、気分を害してしまってまで固辞するのは失礼になるでしょう。

「お心遣い、感謝いたします」

 それだけ言って、キトゥンはカトレアの隣で背筋を真っすぐに伸ばしたまま、瞼を閉じます。

 そして、そのまま意識を深い深い闇の底へと沈めます。

「……他人のためにどれだけ身を削ってるんだか。これだから、聖女サマってやつは好きになれねえ」

 そんな声が、意識と無意識の間から聞こえた気がしました。


 カトレア様に声を掛けられ、ぱちりと目を覚まします。

 その瞳に、今朝出たばかりの宿が映ります。

「申し訳ありません。わざわざ宿の前まで送っていただくつもりはなかったのですが」

「構わないよ。さっき昼の鐘も鳴ったところだ。ここいらで飯でも食える場所を探したいと思っていたところさ」

 カトレア様の言葉に得心します。宿の一階は食事を提供する飲食店にもなっています。

「それでは、お心遣いありがとうございました。カトレア様の未来に幸多からんことを」

 キトゥンは御者台から降り、頭を下げます。

 その時、宿の玄関から怒声が響きました。

「野郎、ぶっ殺してやる!!」

 えっ、と驚いて振り向いたキトゥンの顔を目掛け、大きな酒瓶が真っすぐ飛んできました。

 ゴンっと、およそ聞いたことのない鈍い音が、自分の額を中心に響きます。

 その衝撃で、キトゥンは後ろにすっ転んでしまいました。

 直後、地面の石畳にしたたかに打ち付けた後頭部から先ほどと負けず劣らずの衝撃が広がります。


 刹那。

 頭の中に膨大な、――おそらくは何年分もの記憶が生まれ、爆発的に膨れ上がります。

 見知らぬ世界。見知らぬ建物。およそ想像もつかないような速さと大きさで動く機械。

 見知らぬ人。見知らぬ食べ物。見知らぬ視界。見知らぬ獣。そこに映る、毛むくじゃらの細い腕。自分の腕。人のものではない、獣の腕。


 ふと我に返ると、くらくらする視界に見慣れた青い空がいっぱいに映ります。その端で、一人の男が走り去っていきました。手に握られていた鈍色(にびいろ)のなにかから、赤い雫が滴り、キトゥンの頬に落ちました。

 直後、宿のほうから盛大な悲鳴が上がりました。

「きゃあああああ!!」

「やろう、やりやがった!!」

「はやく、だれか!! 何か押さえるものを!!」

 これはただ事ではないと、キトゥンはふらふらとした頭を押さえながら、宿の中へと入ります。

 この辺りはお酒の生産が盛んで、お店によっては、お昼からお酒を提供しているお店も多いです。

 勝手な推測ですが、お酒が入っての揉め事が原因でしょう。

 案の定と言うべきでしょうか。今朝まで整然と並んでいたテーブルや椅子はあちこちに散らばり、その中心、大きく広がった人の輪の中に、一人の男性が倒れ伏していました。顔を青くしている男性のおなかからは、まるで穴の開いた酒樽のように、とくとくと血がとめどなく溢れています。

 いけない、と思い、キトゥンはその人物のもとへと駆け寄ります。

 頭の片隅で、まるで警告のように頭痛と耳鳴りがしますが、そんなものを気にしている場合ではありません。

 両手を、男性の患部へかざすように広げます。そして、ゆっくりと、ゆっくりと、普段の倍近い時間をかけて深く呼吸を繰り返し、意識を手のひらへと集中させます。

 すると、手のひらに、柔らかく、暖かな感触が芽生え始めます。

 そこで、キトゥンは狼狽し、目を見開きます。

 今まで感覚的なものでしかなかった聖女の力、――癒しの祝福が、はっきりと視覚的に感知できました。

 オレンジ色とピンク色が混ざり合ったような色で縁取られた光り輝くそれを、まるで両手で撫でるように包んでいたのがわかります。

 見たことのない形。

 ――いえ。

 正確には、見た()()はあります。ついさきほど頭に衝撃を受けた際に急に生まれた記憶の中で無数に見た獣の形。

 ふにふにとした手のひらの感触。位置的にはおしりに当たる部分を抑えていた左手の端では、長い尻尾がぶんぶんと大きな周期で振り回されているのが見えました。

 今まで何度も繰り返し祝福の力を使ってきましたが、こんなものは一度も目にしたことがありません。

 これはいったい何事かと気にならないわけではありませんが、今はそれどころではありません。まずは目の前の男性を何とかすることが先決です。

 キトゥンは、熱を帯びた手のひら、――薄く輪郭だけ輝く光を、いつものように男性の患部へ押し出すように近づけます。

 すると、それが患部へ触れた途端、光は粒へと変わり男性の身体の中へと摂りこまれて行きます。そして、手のひらに包まれていたそれはだんだんと小さくなり、やがて消えてしまいました。

「キ、キズが塞がってく? なんでこんな……。 ま、まさか、あんた、まさか聖女様か!?」

「はい。ですから、落ち着いて。私に任せてください」

「か、勘弁してくれ!! 俺ァ、聖女様の祝福を受けられるほどの金なんざ持っちゃいねぇ!!」

 男性が尻をついたまま、慌ててあとずさりします。

「お金はいりません」

 咄嗟の言葉でしたが、言った途端、キトゥンの頭の中でふたたび大きな耳鳴りが響きます。

 極めつけに不快ではありましたが、キトゥンは眉間にしわを刻みながらそれに耐え、男性のキズが完全にふさがるまで祝福を続けました。


 たいそうな騒ぎでしたが、結果として怪我人が出なかったためでしょうか。人波も喧騒もほどなく晴れていきました。

 不運な宿の店主が、玄関に『本日休業』の看板を置いて、散らかった店内を片付けています。

 キトゥンは、くるると鳴るおなかに手を当て、途方にくれます。

 自分もお昼を摂りたいと考えていたのですが、この様子では暖かい食事を提供してくれる余裕はなさそうです。

 さきほどまで介抱していた男性は、傷が塞がったのを確認してキトゥンが気を抜いた瞬間に、慌てて店の外へと逃げていきました。

 口止めをし損ねてしまったのが気がかりではありますが、もはや後の祭りです。

「人には親切してみるもんだなあ。おかげで、とてもいいものを見ちまったようだ」

 テーブルを戻す作業を手伝っていたキトゥンにそう声をかけたのは、カトレア様でした。

 あれだけの大騒ぎでしたからとっくに別のお店へと食事に出られていただろうと思っていたため、キトゥンは少し面食らいます。

「なあ、聖女サマ。さっきの祝福の力、神父様に無断で使ったのがバレたらまずいことになるんじゃないかい?」

 カトレア様は、口元にいやらしい笑みを浮かべてそうおっしゃいました。

 彼女のおっしゃる通り、神父様からは力をみだりに使わないようにと厳命されています。あたまがふらふらしていましたし、咄嗟のことで記憶は曖昧ですが、今思えばあの時の耳鳴りや頭痛はそれを警告するためのサインであったような気がします。

「そうですね。できれば、内密にしておいていただけると助かります」

「いいぜ。ただ、神父様に黙っててほしかったらさ、ちょいーっとばかし、私のお願い聞いてくれないかな?」

 それは、キトゥンに拒否権などない理不尽なお願いでした。


 カトレア様に連れられてやってきた場所は、街の入り口から最も離れた場所にありました。

 往来から離れれば離れるほど、当然、人の目は届きにくくなるもの。

 治安を含め、そこかしこに行政のほころびのようなものが見えます。

 二人が、寂れた区画の中心にある枯れ井戸に到着すると、いったいどこに身を潜めていたのかぼろを身にまとった少年少女たちがあちこちから寄ってきました。

「おかえりカトレアねーちゃん、はくしゃくさまとおはなしできた?」

「ぼくらの集めたはちみつ、はくしゃくさまにちゃんと売れた?」

「おう、しっかりと全部売れたぞ」

 カトレア様はそう言って、少年らに硬貨の入った革袋を渡します。

「やった!!」

「無駄づかい厳禁だぞ。銅貨一枚二枚くらいならくすねていいが、それ以外は必ずモルガンへ預けること」

「分かってる!!」

 少年たちは飛びあがりそうなテンションで、傾いたバラックへと駆けだしていきます。

「ちょっと待った」

「なに?」

「スクナは、家にいるか?」

 途端に、少年たちの顔が曇ります。

「……うん。でも、モルガン兄ちゃんも、もう駄目かもって言ってた」

「そうか。呼び止めて悪かったな」

 カトレア様は、目を伏せて、再び歩き始めました。


 立ち並ぶバラックの一角に、扉に赤色のぼろきれが巻き付けられた小屋がありました。

 その(しるし)が何を意味するか、キトゥンはよく知っています。

「入るぞ」

 当然、カトレア様もそれを知っているはずですが、全く意に介する様子もなく中へと入っていきます。

 身を屈め、そのあとにキトゥンも続きます。

 枯草で作られた粗末な寝台の上で、一人の少女が眠っていました。

 細い呼吸。こけた頬。そして、鼻をつく異臭。

 キトゥンは専門家ではありませんが、一目見てわかります。

 この子は、助かりません。それこそ、奇跡でも起きなければ。

「……治せるか?」

「おそらくですが、可能です」

「教会の祝福とやらは、莫大な寄付金が必要になると聞いたことがある。見ればわかると思うが、この子にそんなものを払える能力はない。無論、私にもそんな金はない。それでも、頼めるか?」

 当然、従来のキトゥンであれば、お断りしていました。それが常でした。

『癒しの祝福を教会の指示なしに使用することを禁じる』

 そう、神父様から厳しく命じられていました。

 祝福に(すが)ろうとする声は、これまでも無数にありました。そのほとんどを、神父様は拒絶していました。

 キトゥンは神父様の言葉に従い、どれだけ心無い罵声を浴びせられようと、時には暴力的な手段で強要されようと、独断で祝福の力を使うことをお断りしていました。

 それはたとえば、スラム街に住む、今にも命の灯が消えかけている少女が相手でも、変わりません。

 ですが――。

「すこし、お時間をいただくことになると思います」

 何故でしょうか。

 神父様から、厳しく命じられていたはずのその指示を、キトゥンは、()()()()()()と感じました。

 逆に、自身が今までなぜそのような命に従っていたのか全く分からなくなりました。

 そして、その命に従っていたがために振りほどいてしまった縋る腕に、過去の記憶に、ひどく後悔していました。

「……いいのか?」

 自分で要求していたにもかかわらず、カトレア様は躊躇いがちな声で呟きました。

「はい。ですが、私にできることは身体を蝕む病魔を取り払うことだけです。体力不足はどうしようもありません。ですので、新鮮な果実などを準備して、すりつぶしておいていただけますか? それと、出来る限り新鮮な水も」

 そう言うと、カトレア様は静かに頷きました。

「わかった。すぐに準備する」

 キトゥンは安心します。それは、自分にはできないことでしたから。

 そして、まるで冬の森のように静かに呼吸を繰り返す少女に向き合います。

 枯れ枝のようにやせ細った身体に手のひらを重ねます。

 昨晩からの徹夜で身体はとても疲れていましたが、そんなことはあまり気になりませんでした。

 むしろ、気分はかつてないほどに昂っていて、元気いっぱいのようにさえ思えます。

 ――やりたいことを、自由にやる。

 すごく当たり前のことのようではありますが、それだけで、キトゥンは何でもできるような気がしました。


「この方とは、どのような関係なのですか?」

 木の匙で少女の口に水を運びながら、キトゥンはカトレアへと尋ねます。

 少女の顔にはすでに赤みが差し始めており、胸が上下するのが分かる程度には呼吸も深くなっていました。無事、峠は越えたようです。

「ただの顔見知りだよ。スクナって名前を知ったのも、ほんの一か月前だ」

「それにしては、ずいぶんと思い詰められていたようですが」

「……負い目、みたいなもんだよ。この子がこうなっちまったのは、アタシの責任だから」

「事情をお聞きしてもよろしいですか?」

「そんなに複雑な事情でもないさ。この街では、ガキどもが集めたハチミツを買い付けるのが定番になっていたんだがな、品物の吟味をしているときにうっかり油断して、この子が荷台に忍び込んじまった。金を盗まれるだけだったらまだよかったんだが、よりにもよって、この子は積んでた木の実を食べちまった。それが、虫よけ薬の材料で、人間にとって猛毒の木の実だと知らずにな」

「お聞きした限りでは、カトレア様に落ち度はないように思われますが」

「教会では、善だの悪だの罪だの罰だのってのは神様が決めてくれるんだろうけど、あいにくアタシは無神論者だ。アタシの罪は、アタシが決める」

 その言葉に、キトゥンの瞳が、宝石が揺れるように煌めきました。

「まあ、アタシのことはどうだっていいよ。それより、アンタはこれからどうするんだ?」

「そうですね。正直、少し考えあぐねています」

「スクナの病気を治したことは、隠し通せる。本人はまさか気を失っているうちに聖女サマが治してくれたなんて思いもよらないだろうし、アタシだって口は堅い」

「ありがとうございます」

「だけど、昼間に宿の酒場で治したやつ。あれはまずい。当人はとっくに逃げ出しちまったし、観客も山ほどいた。教会や、伯爵の耳に入るのは時間の問題だぞ」

 そう、それが問題です。

 伯爵様のお屋敷で、神父様は、『癒しの祝福の力は、一日に一度しか使うことはできない』とおっしゃいました。

 そのため、奥方様はやむを得ず高価な聖水を購入したり、神様に興味もないのに教会の誘致を相談したりしていたのです。

 その前提が崩れることを、――それが、嘘であったことを知った伯爵さまは、きっと憤慨なさるでしょう。

 その矛先が神父様へ向かうことも、想像に難くありません。

 教会に対して不信感を抱かせてしまうきっかけを作ってしまったのですから、そちらからの糾弾も小さくはないでしょう。

「ま、それも仕方ないですかね」

 あっけらかんとキトゥンは言います。

「いいのか?」

「自分で蒔いた種ってやつでしょう。不誠実な行いは、やがて自らへと帰るもの。むしろ、今まで好き勝手やってこれていたのが不思議なくらいですし」

「でも、アンタも一緒に責任を問われるんじゃないのか?」

 不本意ですが、カトレア様のおっしゃる通りです。

 だからこそ、頭を悩ませているのです。

「カトレア様、一つお尋ねしますが、いまナイフをお持ちですか?」

「ああ。行商に野宿はつきものだからな、小さなやつで良けりゃ常備しているぞ」

「少し、貸していただけますか?」

「構わないが、何をする気だ?」

 少しだけ警戒はされていましたが、カトレア様はナイフを差し出してくれます。

 キトゥンはそれを受け取ると、逆の手で長い髪を束ね挙げ、そこに添えます。

「おい、何を――」

 そして、一息にバッサリと、襟元から切り落としました。

 カトレア様はあんぐりと口を開けたままぱくぱくと動かしています。

「どうでしょうか。少しは、印象が変わりましたかね?」

 言って、キトゥンが首をふるふると振ると、細い銀髪がはらはらと舞い、絹糸のように太陽の光を反射しました。

 聖女特有の銀色と黒色のまだら模様の髪も、少し目立たなくなったのではないでしょうか。

「たしかに、印象はずいぶんと変わったが。いったい、何のつもりだ?」

「ところでカトレア様。この子に施した癒しの祝福の対価ですが、私は、金銭を求めないことは承知しましたが、無償であることは承知していませんでしたよね?」

「――は?」

 キトゥンはにこりと笑って、カトレア様の手を取り、身を寄せます。

「ということですので、カトレア様。これからよろしくお願いしますね」


 からからと、馬車が街道を進みます。

 伯爵様の領地を抜けて二日目。

 カトレア様のお話では、次の目的地である北の街へは、あと二日ほどで着くだろうとのことです。

「あっ、見てください、カトレア様。鹿の群れですよ。一匹狩って今晩は鹿肉にしましょう」

「馬鹿言うなよ。素人が簡単に仕留められるなら猟師なんて仕事があるはずないだろう。追っかけても徒労に終わるだけだよ」

「なるほど。さすがカトレア様です」

 御者台の上。

 頭を乗せているカトレア様の膝の上で、キトゥンは楽し気に声を上げます。

「なあ、いつまでそんなところで寝ているつもりなんだ?」

「ご迷惑ですか?」

「迷惑と言うわけではないが……」

 馬の手綱を握りながら、カトレア様はバツが悪そうに視線を逸らします。

「それに、私がこうして膝の上で寝ていると癒されて元気が出るって、聖女になる前、孤児院にいたころから評判だったんですよ」

「だが、絵面がどうも私の(しょう)に合わないというか」

「でも、実際元気出ませんか?」

「む」

 カトレア様は、反論できずに言葉を詰まらせてしまいます。

 便利ですね、癒しの祝福。

「ところで、頭を撫でると、さらに効果が上がるそうですよ」

 くすくすと、いたずらっぽく笑うキトゥンに、根負けしたようにカトレア様は手のひらを頭に置きました。

「どうですか?」

「まあ、悪くはない」

「ごろごろごろごろ」

「なんだ、それは?」

「さあ、わかりません。遠い昔の記憶ですかね」

 あのとき、頭を打ってあふれ出した膨大な記憶。

 おそらくは、その影響なのでしょう。

 キトゥンは、ずっと気分が昂っていました。

 空はいつもより高く感じましたし、パノラマに目に映る地平線も、すべてが未知という魅力に彩られて輝いて見えました。

 ただ馬車が土の上をからからと転がる音ですら、極上の楽器の音色に聞こえます。


 もっと、自由に。

 もっと、気ままに。

 今は、ただ、もっと世界を知りたい。


 北の街には、いったいどのような人がいて、どのようなことが起こるのでしょうか。

 安心感のある膝の上、キトゥンは陽だまりのような幸福感に包まれて、にゃあと鳴きました。



 ―了―



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