7. 母からの手紙
深夜、灯花は疲れた足を引きずりながら寮へと戻った。心身ともに消耗し、目の前に見える廊下がわずかに揺れているような錯覚すら覚える。階段を上るたびに膝が震え、手すりにすがらなければ倒れそうだった。
部屋の扉を開けると、月明かりに照らされた机の上に一通の封筒が置かれていた。灯花の心臓が跳ねた。母からの手紙だ。期待と不安が同時に押し寄せ、喉が急に渇く。
彼女は急いでランプに火を灯し、封を開いた。震える手で封筒を破りそうになりながら、慎重に中身を取り出す。母イリナの丁寧だが少しぎこちない文字が並ぶ便箋に、灯花は思わず微笑んだ。しかし、その笑みはすぐに凍りついた。頬の筋肉が強張り、血の気が引いていくのを感じる。
「灯花へ。美羽のことで心配事があるの……」
それは彼女の恐れていた内容だった。妹の美羽が難病に伏せっているという。咳が止まらず、時折血を吐くこともあるという。その文字を読むたび、胃が冷たく縮こまり、吐き気がこみ上げてくる。町医者の診断では、珍しい魔法病の一種で、高額な魔法薬が必要だという。
「大切な娘を学院に送り出したのに、こんな心配をかけるのは申し訳ないけれど……美羽はいつもお姉ちゃんのことを誇りに思っているのよ」
イリナは灯花を気遣いながらも、その言葉の行間から深い憂いが伝わってきた。
「灯花がいてくれることが私たちの支えなの」
その一文に、灯花の胸は締め付けられた。呼吸が浅くなり、肋骨が内側から圧迫されるような苦しさを覚える。
手紙の終わりには、美羽の幼い文字で短い文章が添えられていた。
「お姉ちゃんへ。びょうきになっちゃったけど、はやくよくなるからしんぱいしないで。いつもえがおでいるよ。びょういんのまどからお姉ちゃんのがっこうがみえるんだ。すごいね!」
灯花の手が震えていた。視界が滲み、文字がぼやける。彼女はいつしか便箋を強く握りしめ、しわくちゃにしてしまっていた。慌てて手を緩め、丁寧に紙を伸ばす。涙が頬を伝い、顎から机に落ちた。
「美羽……」
彼女の心は激しい怒りと悲しみに燃えていた。胸の奥で何かが爆発しそうなほど熱くなり、同時に手足の先は氷のように冷たい。美羽がいつも笑顔でいられる世界を作るため、そのために魔法を学んでいるのに。今の彼女にはそれを守る力がなかった。無力感で膝から力が抜け、椅子に崩れ落ちた。
「もっと……もっと強くならなければ」
灯花は美羽への送金額を増やすべく、家計簿を再検討した。ペンを持つ手は小刻みに震え、数字が踊って見える。すでに奨学金の多くは家に送り、自分は最低限の生活をしていた。これ以上削れる費用はない。その現実に、奥歯を強く噛みしめた。
「あと少しでも上の成績なら、特別奨学金の枠に入れるのに」
机上の成績表を見る。2位という数字が彼女を嘲笑しているようだ。あと一歩届かない。その数字を見つめるうちに、こめかみがずきずきと脈打ち始めた。
「このままでは家族を救えない」
灯花は窓辺に立ち、夜空を見上げた。冷たい窓ガラスに額を押し当てると、その冷たさが少しだけ頭の熱を冷ましてくれる。星々が冷たく光り、彼女の無力さを映し出しているようだった。
美羽の笑顔を思い浮かべ、灯花は何度も拳を握りしめた。爪が掌に食い込み、じわりと血が滲むまで力を込める。その痛みが、決意を確かなものにした。自分の限界、平民としての壁、それら全てを打ち砕かなければならない。
「どんな手段を使ってでも」
その言葉を口にした瞬間、部屋の隅に濃い影が揺らめいたような気がした。背筋に冷たいものが走り、全身の産毛が逆立つ。しかし同時に、胸の奥で何かが呼応するように熱くなった。灯花がそちらを見た時には、ただの暗がりがあるだけだった。
彼女は再び美羽の走り書きを読み返し、静かに涙を拭った。しかし涙を拭う手は震えておらず、不思議なほど落ち着いていた。まるで、何か大きな決断を下した後のような静けさだった。
「必ず救ってみせる」
決意を新たにした灯花の瞳の奥には、かすかに赤い光が宿り始めていた。鏡に映る自分の顔を見て、一瞬息を呑む。しかし、その変化を恐れる気持ちよりも、力への渇望の方が強かった。