6. 影法師の気配
夜の研究室は静寂に包まれていた。灯花だけがランプの灯りを頼りに、貧民街全体を守るための結界設計に没頭していた。机の上には古い羊皮紙と参考書が山積みになり、彼女の指先はインクで黒く染まっていた。
「うまくいかない……」
灯花は眉をひそめ、術式の設計図を見つめた。疲労で手が微かに震え、羽ペンを持つ指に力が入らない。自分の知識と経験だけでは、街全体を保護する結界を維持するだけの魔力を確保できない。限界を感じる度に、胃の奥がきりきりと痛んだ。それでも彼女は諦めずに試行錯誤を続けていた。
「こうすれば……いや、これでも安定しない」
深夜の疲労と共に、灯花の集中力は少しずつ薄れていく。瞼が重く、何度も閉じそうになる。ふと視界の隅に"何か"が映ったような気がして、彼女は顔を上げた。心臓が一瞬、不規則に跳ねた。
そこには何もなかった。
だが、確かに部屋の隅に影のようなものが動いたように思えた。灯花は首を振り、疲れた目をこすった。指先が冷たく、血の気が引いていくのを感じる。
「気のせいね。寝不足だからかしら」
再び設計図に目を落とす彼女だが、今度は確かに違和感があった。部屋の隅では確かに何かが動いたのだ。彼女が急いで振り返ると、またしても何も見当たらない。
不安に駆られた灯花は、ランプの灯りを強めた。照明が強くなっても、なぜか部屋の影が濃くなっていくような錯覚を覚える。そして、彼女の背後から微かな声が聞こえてきたような気がした。
「もっと……力が……欲しくないか……」
その声は彼女自身の声に似ていながら、どこか異質なものだった。灯花は急いで振り返ったが、やはり誰もいない。冷や汗が背筋を伝い、襟元が冷たく濡れる。心臓が早鐘のように打ち、耳の奥でその音が響いた。
「誰かいるの?」
問いかけに答えるのは、自分の反響した声だけ。灯花は落ち着こうと深呼吸をしたが、吸い込んだ空気が妙に冷たく、肺が縮こまるようだった。喉が渇き、唾を飲み込もうとしても口の中はからからだ。講義で「影法師」について聞いたことがある。魔力に敏感な者が疲労困憊の時に見る幻影だという。
「疲れているだけよ」
そう自分に言い聞かせながらも、灯花は部屋の隅々を警戒するように見回した。首筋の産毛が逆立ち、皮膚がぴりぴりと粟立つ。確かに普段は見えない影が、壁を這うように動いている気配がする。背筋の冷たさは増すばかりで、歯の根が合わなくなりそうだった。
しかし不思議なことに、その気配に彼女は恐怖だけでなく、ある種の引力のようなものを感じていた。胸の奥が妙に熱くなり、何かに引き寄せられるような感覚が全身を包む。まるで心のどこかで、その存在を求めているかのように。理性は拒絶しているのに、身体が勝手に前のめりになる。
「本当に……気のせい?」
灯花はランプを持ち、勇気を出して部屋の隅へと向かった。足が震え、一歩踏み出すたびに膝が笑う。影が濃くなる場所に光を当てると、異常な濃さの影は消えていった。彼女はほっと息をついたが、安堵と同時に、なぜか物足りなさも感じた。
「やっぱり疲れているのね」
椅子に座り直すと、彼女の目は机の上の図面に戻った。しかし手は小刻みに震え続け、文字がぼやけて見える。心のどこかで、今夜の出来事が単なる疲労のせいだとは思えなかった。舌の上に、金属のような奇妙な味が残っていた。
烏丸教授の言葉が脳裏をよぎる。「選ばれし者だけが真の力を得る」と。
灯花は図面を見つめながら考えた。努力こそが正道だと信じたいのに、どこか近道を求める気持ちも芽生えていた。その葛藤で頭が熱くなり、こめかみがずきずきと脈打つ。理想と誘惑の狭間で、彼女の中にひとつの"揺らぎ"が生まれ始めていた。拳を握りしめると、爪が掌に食い込んだが、その痛みすら心地良く感じてしまう自分がいた。
ランプの光が揺れ、壁に映った彼女の影も揺らめいた。その影は確かに彼女自身のものだったが、微かに違う動きをしているようにも見えた。あたかも生命を持つかのように。
灯花は静かに羽ペンを置き、疲れた目を閉じた。