7. 灯花の声
天音は夢の中で見知らぬ光景を見ていた。
雪の舞う広場、どこか懐かしい貧民街の風景。そこに一人の少女が立っていた。はじめは後ろ姿だけだったが、振り返ると、それは灯花だった。
だが、あの日の研究塔で見た灯花とは違う。紅蓮の炎に包まれた姿でも、自信に満ちた天才魔法使いの姿でもない。ただの少女、仮面を外した灯花がそこに立っていた。
彼女は微笑みながら天音に向かって手を伸ばした。
「ありがとう。私はもう大丈夫」
その声は風のように優しく、かつての親友そのものだった。純粋で、偽りのない声。
「灯花...」
天音は彼女に近づこうとするが、二人の間の距離は縮まらない。それでも灯花の笑顔ははっきりと見えた。彼女は紅蓮の指輪を嵌めていない右手を胸に当て、静かに続けた。
「あなたが伝えてくれている。私の本当の物語を」
灯花の周りには小さな炎が浮かび、まるで星のように彼女を取り囲んでいた。それは誰かを焼き尽くすための炎ではなく、ただ静かに照らす灯りだった。
「皆に伝えて。炎は壊すものじゃなくて、照らすものだって」
灯花の姿が少しずつ透明になっていく。天音は彼女に手を伸ばしたが、触れることはできなかった。
「また会える?」と天音は問いかけた。
灯花はただ微笑み、雪と光の中に溶けていった。最後に残ったのは、彼女の声だけだった。
「私はいつも、そばにいるよ」
目覚めた天音は、そっと微笑み返し、窓から空を見上げた。雲一つない青空が広がっていた。夢だったのか、それとも本当に灯花からのメッセージだったのか。どちらでもいい、と天音は思った。大切なのは、灯花の言葉が彼女の心に届いたということ。
朝食を取りながら、彼女はその夢について考える。窓の外では、学院の日常が始まっていた。学生たちが行き交い、遠くでは美羽が治癒魔法の朝練に励んでいる姿も見えた。
暖炉の火が揺れ、まるで彼女に応えているかのようだった。
「天音先生」
研究室のドアをノックする声が聞こえ、遼が入ってきた。彼は公務で評議会に出向く前に、いくつか報告があるという。
「評議会での『影法師現象』の研究計画が承認されました」
遼の表情には、かつてない穏やかさがあった。
「それと、貧民街医療支援金の増額も決まりました。美羽さんの研究が認められたおかげです」
天音はその知らせに笑顔を見せた。それは長い闘いの末の勝利だった。かつて支援金凍結がきっかけとなり、ユイという少女の命が失われ、灯花が紅蓮の契約へと進んだ。その悲劇が今、少しずつ癒されようとしていた。
「それから、これを」
遼は一冊の本を差し出した。「影法師---魔法使いの内なる対話」というタイトルの本で、天音が灯花の日記と自分の研究をまとめたものだった。ついに出版されたのだ。
「学院の図書館だけでなく、王国中の魔法学校に配布されることになりました」
その知らせに、天音の目には涙が浮かんだ。灯花の物語が、より多くの人々に届くことになる。
その日の午後、天音と遼は学院の裏手にある小さな丘に登った。そこは灯花が一人で星をよく眺めていた場所だった。春の柔らかな風が二人の髪を揺らす。
「不思議だな」と遼がふと言った。
「最初は彼女を理解できなかったのに、今は彼女がいないのに理解できている気がする」
天音は静かに頷いた。
「それは彼女が残してくれたものかもしれない」
丘の上から見える学院の風景は、半年前とは違っていた。崩壊した研究塔の跡地には記念碑が建てられ、その周りには学生たちが集う小さな広場ができていた。
「夢で灯花に会ったの」
天音はそっと遼に打ち明けた。
「本当に彼女だったかどうかは分からないけど...彼女は『ありがとう、もう大丈夫』って言ったわ」
遼は空を見上げ、その言葉を噛みしめるように黙っていた。やがて彼はポケットから小さな赤い結晶を取り出した。それは石棺から採取が許された、ほんの僅かな灯花の魔力の結晶だった。
「評議会の許可がおりたんだ。これを記念碑の中心に埋め込むことに」
結晶は太陽の光を受け、鮮やかな赤い光を放った。それは凶暴な光ではなく、どこか温かな、心地よい輝きだった。
帰り道、遼がぽつりと語る。
「かつて彼女のそばに、『影』のように囁く存在があったと聞いた。力に酔って自分を見失いかけたとき、あれは誰かではなく、彼女自身だったんだろう」
天音はうなずきながら、「だからこそ、あの炎は今も揺れてるのかもしれない」とつぶやいた。
二人は互いの理解の深まりを感じながら、学院への道を歩み続けた。
その夜、天音は再び夢を見た。
今度は研究塔の最上階、灯花が最期を迎えた場所だった。だが、崩壊した塔の姿はなく、静かな部屋だけがあった。窓から差し込む月明かりの中、灯花が座っていた。
彼女は天音に気づくと笑顔で立ち上がり、「来てくれたんだね」と言った。
「ここはどこ?」と天音は尋ねた。
「私の内側の場所...かな」灯花は窓辺に立ち、外を眺めた。「ずっと誰かに見られることを求めてた。でも大切なのは、見られることじゃなくて...」
「誰かを照らすこと?」
灯花は首を横に振った。「いいえ、ただそこに在ること。誰にも見られなくても、自分自身でいること」
彼女は手のひらに小さな炎を灯した。その炎は赤くも青くもなく、純粋な白い光だった。
「伝えてくれる? 私の本当の声を」
天音が目を覚ますと、枕元の紙に何かを書き留めていた。夢の中の灯花の言葉だ。
「誰にも見られなくても、自分自身でいることの大切さ」
それは灯花が最後に理解した真実だったのかもしれない。天音はその言葉を、次の講義で学生たちに伝えようと決めた。
朝の光が部屋に差し込み、天音の姿を照らした。彼女が窓辺に立つと、校庭には早くも学生たちが集まり始めていた。その中に美羽の姿も見え、彼女は仲間たちと何やら熱心に話している。
天音は微笑み、夢の中の灯花の声を思い出した。
「私はいつも、そばにいるよ」
本当だったんだ、と天音は思った。灯花は形を変え、声を変え、今もここに存在していた。彼女の魂は消えたのではなく、皆の心の中で静かに生き続けているのだ。




