6. 天音と遼の対話
夕暮れが学院の中庭を橙色に染め始めた頃、天音は木陰のベンチに腰掛けていた。彼女の手元には灯花の日記の複写があり、静かにページをめくっていた。夏の終わりを告げる風が彼女の髪を揺らし、一日の疲れを優しく撫でていくようだった。
「ここにいたか」
静かな声に顔を上げると、遼が立っていた。彼はもはや杖を使わなくなっており、怪我の傷も完全に癒えていたようだった。
「遼...どうしたの?」
「会議が終わったところだ。新しいカリキュラムがようやく完成した」
天音は微笑み、隣に座るよう促した。遼は少し躊躇したが、結局は彼女の隣に腰掛けた。彼はかつてのような堅苦しさを失い、より人間らしくなっていた。
「灯花のこと?」
彼は天音の手元の日記を見て尋ねた。
「ええ。時々読み返すの」
天音は頷いた。「彼女の言葉には、今でも新しい発見があるのよ」
二人の間には静かな沈黙が流れた。それは居心地の悪いものではなく、二人が共有する思いの重さを表すものだった。
「灯花は最後まで演じたままだったかもしれないね」
遼は静かに言った。夕陽に照らされた彼の横顔には、物思いにふける色が浮かんでいた。
「でも、あの涙は本物だったと思う」
天音はそう答え、彼もまた同意するように頷いた。二人の会話は、過去に対する美化ではなく、現実と向き合った末の静かな祈りだった。
「貧民街の結界プロジェクトの進捗はどうだ?」
遼が話題を変えた。それは彼と天音が共同で進めている、灯花の遺した図面をもとにした貧民街の孤児院に新しい結界を設置するプロジェクトだった。
「順調よ。第一段階の結界は既に機能しているわ。子供たちが安全に過ごせる空間ができたの」
天音の言葉に、遼の表情にも満足の色が浮かんだ。
「彼女の最後の願いが、少しずつ形になり始めている」
彼の言葉には、深い共感が込められていた。かつては灯花を見下していた彼が、今や彼女の遺志を継ぐために尽力している。その変化は天音にとっても、学院にとっても大きな意味を持っていた。
「遼、あなたはすっかり変わったわね」
天音の率直な言葉に、遼は少し驚いたようだった。だが彼は否定しなかった。
「ああ、そうかもしれないな」
しばらくの沈黙の後、彼は続けた。
「彼女の...死は、私に多くのことを教えてくれた。名誉や家柄よりも大切なものがあると」
夕陽はさらに深みを増し、学院の塔を赤く染めていた。その色は紅蓮の炎を思わせたが、それは恐怖ではなく、温かな思い出をもたらすものへと変わっていた。
「灯花の影の正体について、研究は進んでいるの?」
天音は少し話題を変え、遼に尋ねた。霧島家は、魔法の秘術に関する知識を蓄積しており、彼は近頃「影法師現象」について独自の研究を進めていた。
「ああ」遼はうなずき、「烏丸教授の残した記録によれば、あれは自己の投影だけでなく、魔法使いの内なる葛藤が具現化したものだという」
「結局、彼女は自分自身と戦っていたんだね」
天音の言葉に、遼は考え込むように遠くを見つめた。
「いや、共存しようとしていたのかもしれない。最後の彼女の絵は、影と手を取り合っていたから」
天音は懐から灯花のスケッチの写しを取り出した。そこには確かに、灯花自身と彼女の影が手を取り合う姿が描かれていた。
「自分自身のすべてを受け入れることができたなら...」
天音の言葉は途切れたが、遼は彼女の思いを理解したようだった。
「それが彼女の最後の勝利だったのだろう」
二人は沈黙の中、遠くに沈む夕日を見つめた。学院の窓ガラスに反射する夕陽が、一瞬紅蓮の炎のように見える。
「彼女の炎は今も、誰かの心の中で灯っているんだろうね」
天音の言葉に、遼も静かに同意した。彼らの目には同じ景色が映っていた---灯花の遺した灯火が、彼らや美羽、そして学院の生徒たちの心の中で、静かに、しかし確かに燃え続ける姿を。
夜の帳が降りかかる中、二人は立ち上がった。明日もまた新しい一日が始まる。彼らには果たすべき役割があったのだ。
「文庫館の準備は進んでいるか?」
遼が尋ねた。「灯花文庫館」は、彼女の研究や日記、そして彼女から学んだ教訓を保存するための施設として計画されていた。
「ええ。開館は来月の予定よ。美羽も手伝ってくれているわ」
天音の言葉に、遼は満足げに頷いた。
「彼女は立派に成長している。姉とは違う道を歩んでいるが、灯火は確かに受け継がれている」
彼らは中庭を後にし、それぞれの任務へと向かった。天音は新入生の指導準備を、遼は評議会の報告書をまとめるために。
二人の背後で、学院の灯りが一つ一つ灯され始めていた。それは紅蓮の強大な炎ではなく、小さくとも確かな光だった。灯花が本来求めていたのは、そのような灯りだったのかもしれない。
天音は一瞬立ち止まり、空を見上げた。最初の星が瞬き始めていた。
「灯花...あなたの問いかけに、私たちはこれからも答え続けるわ」
彼女の静かな誓いは、夜風に乗って学院全体に広がっていくようだった。




