7. 静寂と記憶
雨が降り始めていた。崩壊した研究塔の跡地に、細かな雨粒が静かに降り注ぐ。塔が崩れてから一週間、学院はようやく日常を取り戻しつつあった。瓦礫の片付けは終わり、一部の区画は立ち入り禁止となっていたが、授業は再開され、学生たちは少しずつ平常の生活へと戻っていった。
天音と霧島は瓦礫の中から設けられた小さな祭壇の前に立っていた。天音は小さな花束を手に持ち、霧島は松葉杖をついて立っていた。彼の左足は包帯で巻かれ、顔にも傷跡が残っていた。
「雨が……弱まってきたわね」
天音が空を見上げて言った。霧島は無言で頷く。二人は互いに目を合わせず、同じように肩を落とし、息を深く吐いた。
「灯花のしたことを、校長先生たちは『暴走事故』として処理するつもりのようね」
天音は静かに言った。学院内では事件の真相を知る者は少なく、ほとんどは「禁忌の力を得ようとした平民の魔法使いが暴走した」という認識だった。
「そうだな……だが俺たちは知っている」
霧島の言葉に、天音は深く頷いた。祭壇に花を置き、二人は黙祷を捧げる。残された魔力の余韻が二人の肌を微かに撫でていた。塔は完全に崩壊したが、不思議なことに紅蓮の炎の気配だけはこの場所に残っていた。それは脅威としてではなく、頬に触れる温もりのように懐かしく、優しいものとして。
「あれが……本当の灯花だったのね」
天音は静かに呟いた。
「演じることをやめた顔」
霧島も頷き、こういった事は普段しないが、彼もまた大切に持ってきた一輪の花を祭壇に添えた。白い花は雨に濡れ、一層美しく輝いているように見えた。
「いまになって思えば……彼女は複雑な人間だった」
霧島が静かに語り始めた。「不思議なほど強くて、同時にもろかった」
天音は黙って聞いている。彼は続けた。
「最初は単なる『分不相応な平民』としか見ていなかった。だが彼女は違っていた。並外れた才能と努力で這い上がろうとしていた」
雨がやみ、夕暮れの光が雲の隙間から差し込んできた。天音は祭壇の上に小さな魔法の炎を灯す。それは灯花が最初に学んだ基本的な火の魔法だ。
「私たちはお互いをライバル視していたけど、本当は……」
天音の言葉が途切れた。二人とも、最初は互いに反発し合っていたが、灯花を通じて理解し合うようになったという事実が胸の奥で静かに響いていた。
「彼女は……誰かの目に映ることでしか存在できなかった」
霧島は分析するように言った。紅蓮の炎に溺れた灯花の姿を思い出しながら。
「いいえ、そうじゃない」
天音は首を振った。
「最後に見せた表情は、誰のためでもない、灯花自身のものだった」
その言葉に、霧島も静かに同意する。彼らの前にある祭壇には、灯花の遺品が置かれていた。彼女の日記、母からの手紙、そして彼女が使っていた魔法の本。それらはすべて学院長の判断で二人に託されたものだった。
「彼女の日記を読んだ?」
霧島が尋ねた。天音は頷いた。
「ええ……最終ページに書かれていたのは『影法師は私自身だった。自分の弱さや渇望を認められず、外側に投影していただけ』という言葉」
二人は静かに立ち尽くした。灯花の悲劇を、その純粋な面も歪んだ面も含めて、語り継ぐことこそが自分たちにできることだという想いが胸の底で確かに脈打っていた。
「彼女の物語を、きちんと伝えなければならない」
霧島が決意を込めて言った。それは自分が生き残った責任でもあった。
「うん……そうね」
天音は小さく頷いた。二人は灯花の存在を、その本当の姿を、語り継いでいくという重い責任が肩にのしかかるのを覚えていた。
「私たちは彼女の選択を無駄にはしない」
天音はそう言って、小さな魔法の炎をもう一度灯した。それは紅蓮の力ではない、灯花本来の優しい炎だった。崩壊した塔の跡地に、小さな明かりが灯る。
「この灯りを、みんなの心に」
彼女は祈るように呟いた。霧島も黙って頷きながら、炎を見つめていた。
二人が去った後も、その小さな炎は消えることなく燃え続けた。風が吹いても雨が降っても、不思議と消えることはなかった。それはまるで灯花の意志そのものが、この場所に残っているかのようだった。
学院の窓からは、その小さな炎が夜空に浮かぶように見えた。何人かの学生たちは不思議に思い、それが何なのか尋ねたが、天音と霧島は「灯火」とだけ答えた。
やがてその場所は「灯花の聖域」と呼ばれるようになり、試験前の学生たちが祈りを捧げる場所となっていった。それが灯花本人の望みだったかどうかは誰にもわからない。だが彼女の名前と物語は、ひとつの伝説として学院に残り続けることになった。
天音と霧島は、夜が更けてから再び跡地を訪れた。今度は二人だけで、静かに語り合うために。
「彼女が最後に何を思ったか……私たちにはわからないわ」
天音は言った。
「ただ、彼女は自分自身と向き合うことができた。それだけは確かだ」
霧島の答えに、天音は頷いた。二人は目を閉じ、手を胸の前で組んで、長い息を吐いた。
星空の下、小さな炎は静かに燃え続けていた。それは紅蓮の炎のように強大でも、華麗でもなかった。だがそれこそが、灯花が本当に愛した魔法だったのかもしれない。




