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5. 遼の覚悟と犠牲

 研究塔の最上階は今や炎と魔力の嵐に覆われていた。天井の半分は崩れ落ち、夜空が見える。床には亀裂が走り、壁も崩壊しつつあった。紅蓮の炎が部屋中を舞い、それは生きているかのように脈動している。


 霧島は壁際に倒れ込み、左腕から流れる血を押さえていた。防御結界を張った衝撃で壁に叩きつけられたのだ。彼の傍らでは天音が膝をつき、灯花の姿を探そうとしている。塔全体が崩壊の危機に瀕しており、このままでは全員が生き延びることはできないだろう。


 「どうすれば……」


 天音の絶望的な呟きに、霧島はゆっくりと立ち上がった。彼の顔が引き締まり、肩が上がり、瞳孔が細くなった。


 「俺にしかできないことがある」


 霧島の声は低く、だが確かな意志を宿していた。天音が振り返り、彼の顔を見る。学院でもっとも優れた魔法使いの一人、誇り高き貴族の嫡男である彼が、今は別人のように見えた。


 「何を……?」


 天音の問いに、霧島は応えない。代わりに彼は両手を広げ、古代の言葉で何かを唱え始めた。それは学院では教えられていない呪文、彼の家系にのみ伝えられてきた秘術の言葉だった。


 「古来より貴族の家系に伝わる封印術式だ」


 彼の体から青い光が放たれ始めた。その光は彼の周りに複雑な魔法陣を形成し、床から天井まで一面に広がっていく。紅蓮の炎と対峙するように、その青い光が部屋の端から少しずつ空間を浸食していった。


 「霧島、それは……!」


 天音の血が凍りつくような感覚が走り、手が勝手に前に伸びた。命を代償にする禁忌の魔法について。


 「やめて!そんなことをしたら、あなたが……」


 霧島は静かに首を振った。彼の眉間に深い縦線ができ、唇が一文字に結ばれた。


 「平民だろうが貴族だろうが、守るべき者を守れなければ意味がない」


 その言葉に天音は言葉を失った。かつて霧島は平民を見下し、特に灯花のような「分不相応な野心を持つ平民」を軽蔑していた。だが今、彼は自らの命を賭して彼女を救おうとしている。


 霧島は術式の中心に立ち、両手を高く上げた。彼の体から次第に青い光が強まり、それは紅蓮の炎と対等に渡り合うほどの輝きを放っていた。


 「霧島家に伝わる『魂の犠牲』の術。俺の命を対価に、一時的に魔力の暴走を抑え込む」


 彼の言葉は冷静だったが、その瞳には強い感情が宿っていた。彼はこの選択に後悔はなかった。


 「なぜ……」天音の目が潤み、唇が震えた。「なぜここまで?」


 霧島は一瞬だけ微笑んだ。それは彼らが出会って以来、天音が初めて見る本当の笑顔だった。


 「彼女に、借りがあるんだ」


 その言葉の意味を天音は理解した。霧島は灯花を認めていたのだ。彼女の努力、才能、そして何より純粋な心を。そして自分が彼女を侮辱し、傷つけてきたことへの贖罪の気持ちもあった。


 霧島の術式が強まるにつれ、塔内の紅蓮の炎は一時的に勢いを弱めた。だがそれは彼の体力を急速に消耗させるものだった。彼の顔は青白く、唇から血が滴り始めている。


 その時、部屋の中心で奇妙な現象が起きた。紅蓮の炎の渦の中に、かすかに人の形が見え始めたのだ。それは灯花だった。彼女の姿は半透明で、もはや完全に人間とは言えないが、確かにそこにいた。


 「灯花……?」


 天音の呼びかけに、灯花の姿がわずかに反応する。彼女の目は開いていたが、焦点が合っておらず、意識があるのかどうかもわからない。


 「彼女は、まだ戻ってこようとしている」


 霧島の声は震えていた。彼自身、術式の負担で立っているのがやっとの状態だ。だが彼は諦めなかった。むしろ術式に込める力を強めた。


 灯花はその姿を見て、胸の奥で何かが温かく広がっていくのを覚えた。誰かが自分のために何かを差し出してくれている—それは今までの称賛とは違う、無償の行動だった。彼女の瞳に微かな光が戻り始める。


 「天音……霧島……」


 彼女の声はかすかだったが、確かに聞こえた。天音は喜びの声を上げた。


 「灯花!戻ってきて!」


 だが喜びも束の間、塔が激しく揺れ始めた。構造の限界に達し、完全な崩壊が始まったのだ。天井からは大きな破片が落下し、床の亀裂はさらに広がっていく。


 霧島は術式を維持するのに全力を注いでいたが、彼の体力は限界に近づいていた。彼は膝をつき、血を吐きながらも、魔力の流れを止めなかった。彼の術により、紅蓮の炎は一時的に抑えられていた。


 「急げ、天音……灯花に届くのは、お前しかいない」


 霧島は言った。彼の体は術式の反動で傷つき、血を流しながらも踏みとどまっていた。彼の顎が固く引き締まり、背筋が棒のように真っ直ぐだった。


 天音は頷き、灯花のいる炎の渦へと向かって一歩一歩進んだ。霧島の術式のおかげで、紅蓮の炎は彼女を焼くほどの熱さではなくなっていた。


 灯花は天音が近づいてくるのを見ていた。彼女の胸の奥で、これまで知らなかった温もりが静かに脈打ち始めていた。霧島の犠牲、天音の友情—それらは彼女が渇望していた「見られる」という刹那的な称賛とは違う、もっと深いつながりだった。


 「灯花……一緒に戻ろう」


 天音の声が灯花の心に届く。


 この瞬間、灯花の中で何かが変わり始めていた。彼女の周りを包む紅蓮の光が少しずつ色を変え、彼女本来の温かな炎の色に戻りつつあった。


 霧島はそれを見て微かに微笑んだ。術式を維持するのがどんどん難しくなる中、彼の唇の端がかすかに上がった。彼の犠牲は無駄ではなかった。


 「霧島……」


 灯花の声が彼に届いた。彼女の目は今や灯花らしい温かさを取り戻しつつあった。


 「平民風情を助けるなんて、らしくないわね」


 彼女の言葉には皮肉めいた響きがあったが、同時に感謝の気持ちも込められていた。霧島はかすかに笑った。


 「俺は……変わった」


 彼はそう言い、最後の力を振り絞って術式を完成させた。青い光が部屋全体を包み込み、紅蓮の炎を一時的に完全に抑え込んだ。その瞬間、灯花の姿がはっきりと現れた。彼女は今や完全に人間の形を取り戻していた。


 天音は駆け寄り、灯花を抱きしめた。


 「戻ってきたのね!」


 しかし灯花の目は、倒れ込む霧島の姿を見ていた。彼の術式が彼の生命力を急速に奪っていることに、彼女の全身に冷たいものが走った。


 「彼を……助けなきゃ」


 灯花は天音に支えられながら、霧島の元へと歩み寄った。彼の術式は彼女の紅蓮の力を抑え込んだが、同時に塔の崩壊も一時的に遅らせていた。だがそれも長くは続かないだろう。


 霧島は血だらけの顔で二人を見上げた。彼の目尻に皺が寄り、瞳の奥にかすかな光が宿っていた。


 「逃げろ……二人とも」


 彼の声は弱々しかったが、意志は強かった。天音は涙ながらに頷き、灯花の腕を引いた。


 「行くわよ、灯花。彼の犠牲を無駄にしないために」


 だが灯花は動かなかった。彼女の目には強い決意が浮かんでいた。


 「私にも……やるべきことがある」


 二人の間に流れる沈黙の中、塔が再び大きく揺れた。時間は残されていなかった。

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