3. 仮面の崩落
研究塔の入り口で、天音は自らの風の魔法を紅蓮の結界に当て続けていた。細い亀裂が徐々に広がり、ついに人一人が通れるほどの隙間ができた。
「急いで!」
天音は霧島と救援隊の仲間たちに声をかけた。彼女が最初に足を踏み入れると、結界の内側は外界とは別の空間のようだった。重力が歪み、時間の流れも違って感じられる。紅蓮の力が塔全体を支配し、現実の法則を書き換えていた。
「気をつけろ。通常の魔法理論が通用しない領域だ」
霧島が警告する。暗い廊下には魔力の残滓が靄のように漂い、彼らの足音は不自然に響いた。壁から剥がれ落ちた石が、ゆっくりと宙に浮かんでいる。
「上へ向かいましょう」
天音は塔の中心にある螺旋階段を指さした。階段の周囲には既に亀裂が走り、一部は崩壊していた。塔自体が崩れる寸前だった。
「足場が危ない。一人ずつ行こう」
霧島が先頭に立ち、慎重に階段を上がり始めた。その後に天音が続き、残りの救援隊が一列になって進む。
上階へ向かうにつれ、魔力の嵐は激しさを増していった。壁に触れると皮膚が焼けるように熱く、呼吸するだけでも肺が焼けるような感覚がある。
「これが灯花の力……」
天音は友の力の強大さに驚きながらも、進み続けた。彼女の胸の奥で何かが固く血打った—この力は灯花自身ではない。彼女が求めた答えでもない。
「ここだ!」
霧島が最上階の扉の前で立ち止まった。扉からは紅蓮の光が漏れ出し、それに触れるだけでも皮膚が焼けそうだった。救援隊の何人かは既に限界を迎え、膝をつく者もいた。
「もう無理です……これ以上は」
息も絶え絶えに言う下級生に、天音は優しく頷いた。
「ここまでありがとう。下にいて、私たちの帰りを待っていて」
残るのは天音と霧島、そして二人の上級生だけになった。霧島は静かに天音を見た。
「最後は君しかできないかもしれない」
その言葉に天音は頷く。彼女には灯花の魂に届く特別な絆があった。
霧島は両手を扉に向け、青白い光を放つ術式を描き始めた。それは彼の家系に伝わる特殊な防御魔法だった。
「行くぞ!」
術式が完成すると同時に、霧島は扉を蹴り開いた。開いた扉の向こうは、もはや学院の研究室とは思えない光景だった。
部屋全体が紅蓮の炎で満たされ、床や壁も消失し、ただ炎の海の中に浮かぶ島のような空間があるだけ。その中心に灯花が立っていた。彼女の姿は半透明になりつつあり、体から放たれる光が天井を突き抜け、夜空へと伸びていた。
「灯花!」
天音の叫びに、灯花の動きが一瞬止まる。彼女がゆっくりと振り返ると、その瞳は完全に紅く輝いていた。人間の表情とは思えない、神々しいまでの美しさと恐ろしさを併せ持つ顔だった。
「見に来てくれたの……?」
灯花の声は不思議とはっきりと聞こえた。その声が微かに揺れ、目尻が下がった。
天音は一歩前に出た。炎の熱さに顔が火照るが、彼女は怯まなかった。
「灯花、戻ってきて!」
「戻る?……でも私は今、すごい力を得たの。見て」
灯花が手を広げると、部屋中の炎が渦を巻いた。まるで生きているかのように彼女の意志に従う炎。それは恐ろしいほどに美しかった。
「その力はあなたじゃない!」
天音の叫びに、灯花の瞳が大きく開かれ、眉がかすかに震え、唇がわずかに開いた。
「わたしたちはあなたが演じてきた"理想"じゃなくて、本当のあなたを見てたのに!」
その言葉が灯花の心に届いたのか、彼女の顔から仮面のようなものが剥がれ落ちる感覚があった。紅蓮の光に照らされていた表情が、一瞬だけ元の灯花らしい柔らかさを取り戻す。
「本当の……私?」
灯花の声は震えていた。彼女の瞳に、これまで見せなかった迷いと悲しみが浮かぶ。仮面が僅かに崩れ始めたその瞬間、魔核のエネルギーが制御不能となり、部屋中を紅蓮の炎が埋め尽くした。
「危ない!」
霧島が前に飛び出し、青い防御結界を展開した。だがそれさえも紅蓮の炎の前には脆くも崩れ去り、彼は壁に叩きつけられた。
「霧島!」
天音の叫びに、彼は痛みに顔をゆがめながらも手を振って大丈夫だと示す。
部屋の中心では、灯花の体が次第に紅蓮の光と一体化しつつあった。彼女の人間としての輪郭は失われ、光の渦の中心にかろうじて彼女の姿を認めることができる程度になっていた。
「天音……私は……」
灯花の声がかすれ、肩が小さく震えた。
天音は決死の覚悟で炎の渦に近づいた。彼女の周りに風の魔法で薄い防壁を作り、少しでも熱を遠ざけようとする。だがその防壁も刻一刻と溶かされていった。
「灯花、聞いて!あなたはこんな力が欲しかったんじゃない!あなたが本当に求めていたのは—」
天音の言葉が届く前に、魔核からの衝撃波が部屋中を揺るがした。天音は吹き飛ばされそうになったが、かろうじて床に踏みとどまる。
崩壊が加速する中、灯花の中で何かが変わり始めていた。紅蓮の力に溶け込みかけていた彼女の頭の中で、これまで抑圧していた本当の自分の声が耳の奥で響き始めた。
「私は……何のために力を求めていたんだろう」
その問いが彼女の中で響く。最初は家族を守るため、弱者を救うため、確かにそれが原点だった。だがいつからか、力そのものより、力を持った自分が「見られること」が目的になっていた。
紅蓮の光は灯花の心の内側まで照らし、彼女は自分自身の欺瞞と向き合わざるを得なくなっていた。
「嘘……私が求めてたのは……」
肉体が光に変わりつつある中、灯花の瞳が明確な光を取り戻し、胸が小さく跳ねた。自分が作り上げた仮面の下に隠れていた本当の自分の感情が、少しずつ表面へと浮かび上がってくる。
天音は床を這うようにして灯花に近づいた。彼女の衣服は炎で焦げ、肌にも火傷ができかけていた。それでも彼女は進み続けた。
「灯花……」
光の渦の中心で、灯花は自分の両手を見つめていた。紅蓮の力に満ちたその手は、もはや人間のものとは思えなかった。だがふと、彼女は思い出した—この手で初めて魔法の炎を灯した日のことを。
雪の降る夜、病気の美羽を温めるために精一杯の力を振り絞って作った小さな炎。それは紅蓮の力のように強大でも、華麗でもなかった。だがそれこそが、彼女が本当に愛した魔法だった。
「私は……間違えた……」
灯花の声は微かだったが、震えが止まり、唇の端がかすかに上がった。紅蓮の支配から少しずつ解放され、彼女本来の声色が戻りつつあった。
「灯花!」
天音が手を伸ばす。光の渦の中の灯花も、かすかに手を伸ばそうとする。
その瞬間、魔核が臨界点を超え、爆発的なエネルギーが放出された。塔全体が激しく揺れ、天井が崩れ落ち始めた。
「逃げて……天音……」
灯花の声が聞こえた。それは命令ではなく、祈りのような響きだった。
天音は首を振った。
「あなたを置いていくつもりはないわ!」
だが灯花の姿はもう見えなくなりつつあった。光の渦が彼女を完全に包み込み、人間の形を維持できなくなっていた。
最後の瞬間、灯花の顔に浮かんだのは、これまで誰にも見せなかった本当の表情だった。仮面が完全に崩れ落ち、彼女は自分自身と向き合っていた。
「ありがとう……友達でいてくれて……」
その言葉と共に、紅蓮の光が爆発的に広がり、研究塔の最上階を完全に飲み込んだ。天音は霧島に引き寄せられ、最後の防御結界の中に押し込まれた。
塔が崩壊する轟音の中、天音は光に飲み込まれた灯花の最後の表情を心に刻んだ。それは演技でも傲慢でもない、ただの少女の、偽りのない涙を浮かべた顔だった。




