8. 極限の仮面
研究塔の最上階、かつての古代魔法実験室を改造した灯花のラボは、もはや人間が立ち入れる場所ではなくなっていた。床から天井まで紅蓮の炎が渦巻き、空間そのものが歪んでいるように見えた。その中心に、灯花は一人立ち尽くしていた。
魔核との共鳴はほぼ100%に達し、彼女の体からは紅蓮の炎が溢れ出ていた。彼女の髪は風もないのに宙に舞い、瞳は深紅に輝いていた。魔法測定装置は全て破壊され、ただ一つ、魔力記録石だけが作動していた。
「世界よ、私を見ろ」
灯花の言葉は神託のように響いた。研究塔から伸びた紅蓮の光柱は学院全体を照らし、夜空に穴を開けたように星々を消していた。だがその声に応えるものはなく、ラボには冷たい静寂が広がるだけだった。
「なぜ誰も答えない……」
彼女は両手を見下ろした。そこには紅蓮の刻印から広がる美しくも恐ろしい魔力の紋様が刻まれていた。自分自身でさえ知らなかった力を手に入れたというのに、胸の奥が冷たく、喉がつまる。
窓の外では学院全体が混乱に陥り、避難する学生たちの姿が見える。しかし、誰も彼女を見上げていない。彼らの顔には恐怖と混乱しか浮かんでいなかった。
「私を見て……私を讃えて……」
灯花は窓に近づき、額を冷たいガラスに押し当てた。これほどの力を得ても、誰にも見られていないという現実。灯花の胸の中で何かがしぼみ、呼吸が浅くなった。肋骨が浮き上がり、手が胸を押さえた。
部屋の中央に戻ると、魔核の光が彼女の顔を照らし出す。水面のように揺らめく魔力の渦に映る自分の顔を見て、灯花は息を呑んだ。
そこには見知らぬ女性が映っていた。うつろな瞳、張り詰めた表情、そして何より—表面的な完璧さの下に潜む深い空虚。
「これが……私?」
自問の声が部屋に響く。魔力による幻影か、それとも自分の心が生み出した幻なのか、灯花には母の姿が見えた。
「灯花、あなたは誰になりたかったの?」
母の問いかけに答えようとして、灯花は言葉に詰まった。かつての彼女なら迷わず「皆を守れる強い魔法使いになりたい」と答えただろう。だが今の彼女は、その言葉が喉まで出てきて、そこで固まってしまう。
本当は何になりたかったのだろう?強くなりたかった?認められたかった?それとも単に、見てもらいたかっただけ?
部屋の隅の大きな鏡に、灯花は自分の姿を見た。紅蓮の力で輝く彼女は確かに美しく、強大だった。だがその顔には、本来の灯花の表情が欠けていた。
その時、遠くから声が聞こえた。灯花は窓の外に目をやると、研究塔の入り口に天音と霧島が立ち、こちらに向かってくるのが見えた。
「彼らは……私を止めに来たの?」
灯花の胸が熱くなり、同時に小さな震えが走った。少なくとも彼らは彼女を見ていた。その存在を認めていた。
「少なくとも、彼らは私を見ているわ」
灯花はそう呟き、苦く微笑んだ。これが彼女の求めていたものだろうか。恐れと憎しみの眼差しでも、ただ見られることが目的だったのか。
紅蓮の力が極限に達し、塔全体が震え始める中、彼女の胸の奥で何かが静かに脈打った。
「私は何のために強くなりたかったのだろう?」
かつて貧民街で初めて炎を灯した時の温かさ、母の教え、美羽の笑顔、天音との友情……そして自分が作り上げてきた「見られる自分」という仮面。
全てが灯花の中で混ざり合い、渦を巻いていた。
「本当の私はどこ……?」
彼女は自分の手で顔を覆った。その指の間から涙が零れ落ちる。紅蓮の炎の中で、彼女の涙は透明で、紅蓮の光を反射することなく頬を伝った。
ふと気づくと、彼女の仮面が少しずつ焼け落ちていくのを感じた。それは物理的な仮面ではなく、彼女が何年もかけて作り上げてきた「見られるための自分」という概念だった。
研究塔の壁に亀裂が走り、天井から破片が落ち始めた。崩壊が迫っている。だが灯花の呼吸は静かで、脇が空っぽに感じられた。
「もう逃げることはできない……」
彼女は深く息を吸い、魔核を見つめた。もう一度だけ、自分自身と向き合うために。
水面のような魔力の渦に映る自分の顔を見て、灯花は静かに微笑んだ。それは観客を意識した演技でも、高揚感に浸った表情でもなく、ただ灯花という少女の素顔だった—これまで誰にも、彼女自身にさえ見せてこなかった表情。
「私は……」
塔が大きく揺れ、崩壊が始まった。天音たちが最上階に到達する音が聞こえる。彼女たちはあと数分で部屋に入ってくるだろう。灯花は窓の外を見た。夜空には無数の星が輝いていた。彼女の紅蓮の炎が消えれば、それらはもっと鮮やかに見えるはずだ。
「私の中の炎は、本当は……」
灯花は空を見上げ、研究塔の上に広がる無限の闇に向かって、最後の問いかけをした。
「私はこれから……どうなるの?」
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## 貧民街・孤児院
同じ夜、貧民街の孤児院では美羽が窓の外を見つめていた。空に不自然な紅い光が見え、心が騒いでいた。
「お姉ちゃん……」
美羽は小さく呟いた。最近、灯花からの手紙が途絶えていた。以前は定期的に近況を知らせてくれていたのに、この数週間は音沙汰がない。
孤児院の院長マリアが美羽の隣に座った。
「心配なの?」
「はい。お姉ちゃんの様子がおかしいんです。最後に会った時も、何だか違って見えました」
美羽の瞳に涙が浮かんだ。ユイの死後、灯花は明らかに変わっていた。以前の優しい笑顔が影を潜め、何かに憑かれたような表情を見せるようになっていた。
「私、お姉ちゃんに会いに行きたい」
「でも学院は遠いし、夜は危険よ」
マリアが優しく諭したが、美羽の決意は固かった。
「お姉ちゃんは私たちのために頑張ってくれています。今度は私がお姉ちゃんを助ける番です」
美羽は立ち上がった。彼女の手には、灯花が初めて魔法を教えてくれた時のことを書いた手紙があった。
「もしお姉ちゃんが本当の自分を見失ってしまったなら、私が思い出させてあげたい」
空の紅い光を見つめながら、美羽は密かに学院への道のりを考えていた。まだ幼い彼女には危険すぎる計画だったが、姉への想いが彼女を突き動かしていた。
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## 地下ラボ
その想いが届いたのか、灯花は突然美羽の顔を思い浮かべた。妹の純粋な笑顔、信頼の眼差し、そして自分に向けられた無条件の愛情。
「美羽……」
灯花の声が震えた。妹に誇れる自分になりたかった。それが全ての始まりだったはずなのに、今の自分は果たして美羽に見せられる姿だろうか。
魔核の光の中で、灯花は自分の選択を静かに見つめ直していた。
彼女の問いに答えるかのように、魔核が臨界点を超え、眩いばかりの紅蓮の光が塔を包み込んでいった。灯花の影は床に伸び、まるで彼女自身と手を取り合うかのように伸びていった。
そのとき、塔の扉が開き、天音と霧島が駆け込んできた。しかし灯花が振り返る前に、全てが光に包まれた—これまで誰にも見られたことのない、彼女本来の姿と共に。




