6. 共鳴率99.9%の真実
朝陽も差さない地下ラボでは、時間感覚を失いがちだった。灯花は何時間実験を続けていたのだろう。疲労で瞼が重くなりつつも、彼女の指先は魔力制御の繊細な術式を描き続けていた。魔力測定装置は92%の共鳴率を示していた。
「もう少し……」
彼女は唇を噛み締めた。このまま行けば、今夜中にも臨界点に到達する。そう考えると、体中の痛みが興奮を呼び起こし、瞳孔が拡大した。龍の魔核との共鳴を、彼女は限界まで高めていた。
魔核片の輝きが強まり、実験室全体が紅蓮の光に満たされていく。灯花は懐から小さな魔法記録石を取り出し、装置に設置した。
「録画開始」
彼女の声が部屋に響き、かすかに震えた。今までに幾度となく繰り返してきた儀式だ。表向きには「研究記録」だったが、内実は「誰かに見せるための演出」だった。灯花は自分でもその違いを自覚していながら、もはや止められなかった。
「共鳴率93%……94%……」
数値の上昇と共に、灯花の体内を激しい痛みが駆け抜けた。紅蓮の契約の代償は、使えば使うほど重くなっていた。右手の薬指には深く蓮の刻印が食い込み、そこから全身へと赤い筋が走っている。でもそれは気にならなかった。この痛みは「見られる資格」を得るための通行料に過ぎないのだから。
「95%……」
灯花の額から汗が滴り落ちる。心臓の鼓動が激しくなり、呼吸も乱れ始めていた。しかし彼女は術式から手を離さない。「本番」はこれからだった。魔核との共鳴が臨界点に近づくほど、術者が得られる魔力と知識は指数関数的に増えるのだ。
「脈動パターン安定。魂の共鳴、第三段階へ」
彼女の声が上ずり、指先が小刻みに震え、唇が渇いていた。かつて父が研究し、誰も到達できなかった領域—灯花はそこへ足を踏み入れようとしていた。
「96%……97%……」
魔核から放たれる光が白熱し、ラボの壁一面に灯花の影が大きく映し出された。その影は彼女の動きに合わせず、まるで別の意志を持つかのように蠢いていた。だが灯花は気づかないふりをした。そんな異常を認めることは、自分自身の異常を認めることに繋がるから。
ドアの方から軽いノックの音。
「灯花君、進捗はどうだね?」
烏丸教授の声だった。
「どうぞお入りください。ちょうど臨界点に近づいています」
灯花は振り返らずに答えた。彼女は自分の背後で教授が息を呑むのを感じた。
「これは……素晴らしい」
烏丸の声が震え、一歩後ずさった。魔法学者として、彼は今目の前で起きていることが歴史的瞬間であることを理解していたのだ。
「共鳴率98%……」
測定器の数値が上昇するにつれ、灯花の体からは赤い光が溢れ出していた。その光は教授の表情を照らし出し、彼の瞳孔が開き、呼吸が速くなっているのが見えた。
「これが選ばれし者の真の姿だ」
烏丸教授の喉から息が漏れ、目が大きく開かれた。その言葉に灯花は応えた。
「見てください、世界を変える力を」
灯花の手を包む紅蓮の炎は、もはや彼女の指示に従うのではなく、共鳴によって自律的に動き始めていた。炎は彼女を中心に渦を巻き、天井へと伸びていく。その様子はまるで神の降臨を演出するかのようだった。
「共鳴率99%……」
測定器の針が振り切れそうになった瞬間、灯花の体に激痛が走った。もはや代償という言葉では片付けられない痛み。それは彼女の存在そのものを引き裂くような感覚だった。
「……っ!」
彼女は悲鳴を上げることもできず、ただ唇を噛み締めるしかなかった。魔力が暴走し始め、ラボ内の器具が次々と浮き上がり、宙を舞い始めた。
「99.5%……」
もう少しで完全同調。かつて誰も達成できなかった領域に、灯花は踏み込もうとしていた。その先には何があるのだろう。無限の力?全知の境地?それとも……。
「99.8%……」
烏丸教授の全身が震え、額に汗が浮かんでいた。「完璧だ、灯花君!君は歴史を変える!」
「99.9%……」
臨界点直前、灯花の視界が揺らぎ、手が空中を掴んだ。そして彼女の前に一つの幻影が現れた。母・イリナの姿だった。
「灯花……あなたは誰のために、その炎を燃やしているの?」
イリナの問いは静かに、しかし彼女の心の奥深くまで響いた。
「母さん……?」
灯花はその幻影に手を伸ばしかけたが、母の眉が下がり、唇が震えているのが見えた。その視線に耐えられず、灯花は目を逸らした。
「私は……」
答えを口にすることができない。彼女は本当は知っていた。もはやこの炎は誰かを温めるためではなく、ただ自分が見られるための道具になっていることを。
激しい魔力の嵐の中で、灯花の胸がぎゅっと締め付けられ、呼吸が浅くなった。それは水滴のように小さいものだったが、確かにそこにあった。
彼女はふと振り返り、ラボのドアを見た。そこから烏丸教授がこっそりと退出しようとしていた。彼は全てのデータを手に入れると、もはや灯花を必要としないかのように立ち去ろうとしていたのだ。
「教授……?」
烏丸は振り返り、申し訳なさそうに微笑んだ。
「君の成果は学院の宝となる。私はこれを安全な場所に……」
言葉の途中で、彼はドアを開けて廊下へと姿を消した。一人取り残された灯花の周りで、魔核のエネルギーが制御不能に膨れ上がっていく。
魔力計は「共鳴率99.9%」を示したまま、針が震えていた。
灯花は虚ろな目で天井を見上げた。無数の疑問が彼女の心を駆け巡る。
「私は……誰のために……」
その問いかけが彼女の心を揺さぶる中、紅蓮の炎は天井を貫き、学院全体に異変が走り始めていた。地下からの振動に気づいた学生たちが廊下に飛び出してくる。警報の音が鳴り響き、研究塔全体が揺れ始めた。
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## 学院長室にて
学院長は執務室で緊急警報の音に顔を上げた。窓の外から見える研究塔の上空に、不自然な紅い光が立ち上っているのが見えた。
「ついに来たか……」
学院長の表情が厳しくなった。彼は灯花の異常な実験について薄々感づいていたが、烏丸教授からの報告では「順調な進展」としか聞かされていなかった。しかし、この魔力の異常な波動は明らかに危険レベルを超えている。
「緊急評議会を招集せよ。そして避難命令を」
学院長が執事に指示を出す間にも、研究塔の振動は激しくなっていた。
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## 学生寮にて
その時、天音は寮の自室で急に立ち上がった。胸の奥で何かが強く疼き、灯花の名前が口をついて出た。
「灯花……!」
彼女は急いで部屋を出ると、廊下で同じように不安そうな顔をした霧島と出会った。
「君も感じたのか?」
「ええ、彼女に何かが……」
二人は迷うことなく研究塔の方向へ走り出した。避難指示が出ているにも関わらず、彼らは逆行して危険地帯へ向かった。
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## 地下ラボ
「このままでは……」
灯花の呟きの中、ラボの壁に亀裂が走り始めた。制御を失った魔核共鳴が建物の構造にまで影響を与え始めている。彼女は孤立していたが、実は学院全体が彼女を心配し、行動を起こし始めていたのだ。
灯花は思考を整理しようとしたが、もはや遅かった。臨界点を超えた魔力は彼女の制御を完全に離れ、独自の意志を持って暴走し始めていた。彼女の視界が紅く染まる中、彼女はやっと気づいた。
求め続けていた「称賛」の実体、「見られること」の意味、そして「影法師」の正体を。
それは全て、彼女自身の中にあったのだ。
紅蓮の光が塔を包み込み、灯花の意識が闇に沈んでいく。最後に彼女の脳裏に浮かんだのは、シンプルな問い。
「私は……これから……どうなるの?」




