5. 影法師の忠告と拒絶
烏丸教授が去った後、灯花は実験を続けていた。深夜の静寂の中、ラボには彼女の呼吸音と魔核の発する低い振動音だけが響いていた。魔力測定器が85%の共鳴率を示している。
「あと少し...」
灯花は両手を魔核へと差し伸べ、紅蓮の指輪が放つ光を増幅させた。そのとき、実験室の温度が急激に下がったように感じた。彼女の息が白く霧となって漂う。
「お前は調子に乗りすぎている」
低い声が背後から聞こえた。と同時に、その声は彼女の内側からも聞こえてくるようだった。灯花は振り返る。そこには影法師の姿があった。
最初に出会ったときと違い、今の影法師は彼女自身とほぼ同じ姿をしていた。ただし、影のように輪郭がぼやけ、色彩が抜けている。まるで彼女の暗部が具現化したかのようだ。
灯花は冷笑した。
「あなたこそ私に力をくれたじゃない」
影法師は静かに首を横に振った。
「力は与えたが、使い方を間違えている」
その声は他者のものでありながら、どこか灯花自身の声にも聞こえた。まるで鏡に映った自分と対話しているような奇妙な感覚。
「私がどう使おうと私の自由でしょう?」
灯花は反論するが、その声には迷いがあった。影法師はゆっくりと彼女に近づき、実験台の上の水盤を指さした。
「その炎は誰かのためではなく、お前の虚栄を燃料にしている」
水面には灯花の姿が映っていた。紅蓮の力に包まれ、強さに酔いしれたような表情をした自分。だが、よく見ると、その瞳には空虚な色が宿っていた。
「お前が本当に求めていたのは、見返すことではなかったはずだ」
影法師の言葉に、灯花の心に何かが揺らいだ。母の言葉、美羽の笑顔、貧民街の子供たち---彼女が本当に守りたかったものの姿が一瞬浮かぶ。
だがすぐにその感情を押し殺し、灯花は激しく首を振った。
「黙って!それでも誰かが見てくれるなら、それでいい」
影法師は悲しげに微笑んだ。その表情には、灯花自身が抱えている悲しみがそのまま映し出されていた。
「お前は本当の自分が見えなくなっている」
影法師は再び水面を示した。するとそこに映る灯花の顔が二つに分かれた。一方は今の紅蓮の力に満ちた灯花、もう一方は入学当初の純粋な願いを持っていた頃の灯花の姿だった。
「どちらが本当のお前だ?」
その問いに、灯花は即座に答えた。
「力を持った今の私よ!」
しかし彼女の心の奥底では、別の声が小さく囁いていた。
「私は...どこで道を踏み外したの?」
影法師はその迷いを感じ取ったように、一歩後ろに下がった。
「やがてお前は自分自身と向き合うときが来る。そのときになって初めて、お前は本当の選択をすることになるだろう」
灯花はその言葉を聞き流すように、再び魔核に向き直った。
「私にはもう選択肢なんてない。ここまで来たら、最後まで進むだけよ」
彼女がそう宣言すると、影法師の姿はゆっくりと薄れ始めた。最後に残ったのは悲しそうな瞳だけ。それは灯花自身の瞳と瓜二つだった。
「お前の影は、いつかお前自身になる...」
その言葉が消えると同時に、影法師の姿も完全に消えた。だが灯花には、それが消えたのではなく、自分の中に戻っていったように感じられた。
水面をもう一度覗き込むと、そこには一人の灯花の姿だけが映っていた。けれど、よく見ると彼女の影は微かに揺れ、時折彼女の動きとは無関係に動いているように見えた。
「私の道は間違っていない」
灯花は自分に言い聞かせるようにつぶやいた。だが水面に映る自分の瞳には、確信とは別の何か---恐れと迷い---が浮かんでいた。
魔核共鳴率の表示が88%に上昇する。自ら進んで選んだ道でありながら、その先に何があるのか、灯花自身もはっきりとは見えていなかった。ただ一つ確かなのは、もう後戻りはできないということ。そして水面に映る彼女の姿と本来の姿の違いが、日に日に大きくなっていくということだけだった。
「私は...本当に何を求めているの?」
その自問が実験室に響いたとき、結晶から溢れる紅蓮の光が彼女の顔を照らし、彼女の影は壁に大きく伸びていった。その影はまるで別の意志を持つかのように、彼女とは異なる動きを見せていた。




