8. 運命の歯車
図書館の隅で、天音と霧島が密かに会話していた。二人とも声を落とし、周囲に誰もいないことを確認しながら言葉を交わしていた。かつては互いに避けていた二人が、今は同じ心配を共有していた。
灯花は図書館の反対側の書架から、その様子をひそかに見ていた。普段なら近づき、会話に加わるところだったが、今の彼女は二人から疎まれていることを知っていた。それでも、二人が自分のことを話しているという予感があった。
「評議会の腐敗を調べる中で、奇妙な点を見つけた」
霧島の声が微かに届く。彼は手元の資料を天音に示していた。
「支援金の凍結資金が別の名目で動いている。その多くが烏丸教授の研究室や、彼の父親が運営する研究所へ流れている」
天音の驚きの表情が見える。「まさか……」
「烏丸家は代々、禁断の力の研究で知られている。紅蓮の契約もその一環だと思われる」
灯花の胸がギリギリと締め付けられ、息が詰まった。指先が冷たくなり、背中に冷や汗が伝った。
「灯花を救わなきゃ」
天音の声に、灯花は思わず身を固くした。救われる必要があるほど自分は落ちぶれているのか。それとも、本当に救いが必要なのか。
「簡単ではない。彼女は自ら契約を選び、その力に溺れている」
霧島の冷静な分析に、天音は落胆したように肩を落とす。
「でも、あの子はまだ見失ってはいない。私はそう信じている」
天音の確かな声に、灯花の胸が熱くなり、目頭がじんとした。手が無意識に書架を握りしめ、唇が小さく震えた。
静かに図書館を後にする灯花。廊下を歩きながら、彼女は考え込んでいた。烏丸教授と紅蓮の契約の関係、そして自分が「実験台」かもしれないという可能性。
寮に戻った灯花は、自室で鏡の前に立った。暗い部屋の中、彼女の体から微かに赤い光が漏れている。赤い痕は今や肩を超え、首筋まで伸びていた。
「私は実験台なの?」
鏡の中の紅蓮の幻影と対話する灯花。「それとも『選ばれし者』なの?」
「重要なのはそれではない」と幻影は答える。「お前は何になりたいのかだ」
灯花の視線が宙を彷徨い、指が無目的に空中を描いた。彼女は本当は何を望んでいるのか。力か、承認か、それとも……。
「私は強くなりたかった。皆を守るために」
だが、その言葉は部屋の中に響き、すぐに消えた。彼女の目が一瞬波れ、拳が握られては緩められた。
「もう戻れないの?」
幻影は笑った。「それを決めるのはお前自身だ」
夜の窓から見える月を見つめながら、灯花は心の中の葛藤と向き合っていた。紅蓮の力を捨てれば、また無力な平民の少女に戻る。でも力を持ち続ければ、最終的に自分自身を失うかもしれない。
翌朝、烏丸教授が灯花を研究室に呼んだ。彼の目は異様に輝いていた。
「灯花君、君の進捗は素晴らしい。紅蓮との共鳴率は予想を上回っている」
その言葉に、灯花は警戒心を抱いた。「共鳴率」という言葉は彼女自身使ったことがなかった。
「私を研究しているんですか?」
烏丸教授は一瞬たじろいだが、すぐに微笑んだ。
「研究というより、観察と言うべきかな。君のような才能ある者を見守るのは教授の務めだ」
教授は彼女に近づき、紅蓮の痕を見つめた。
「君はこの学院で最も優れた存在になりつつある。他の平凡な学生たちとは違う。我々選ばれし者は、凡人とは別の道を歩むべきなのだ」
「選ばれし者……」
灯花はその言葉を反芻した。かつては憧れた言葉だったが、今は違和感を覚える。
「私は平民です。『選ばれし者』なんかじゃない」
烏丸教授は笑った。「血筋は関係ない。才能と覚悟こそが、選ばれし者の証だ。君は特別な存在だ、灯花君」
特別な存在――その言葉に、灯花の首筋が張り、瞳孔が拡大した。心臓が早鐘を打ち、耳たぶが熱くなり、指先が小刻みに震えた。
「あと少しで完全な共鳴が達成される。その時、君は誰も到達し得なかった境地に立つだろう」
教授の言葉に、灯花はわずかに頷いた。彼の言うことに全面的に同意したわけではなかったが、自分が進む道についての確証が欲しかった。
研究室を後にする灯花の胸の内は複雑だった。烏丸教授の言葉、天音と霧島の心配、そして自分自身の葛藤。それらが彼女の中で交錯していた。
「これが私の選んだ道なの?」
右手の紅蓮の指輪が痛みと共に脈打ち、まるで「もう後戻りはできない」と告げているかのようだった。学院の廊下を歩く灯花の影は、今や明らかに彼女とは別の意思を持っているかのように見えた。
運命の歯車は回り続け、彼女をある決断へと導いていた。




