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7. 仮面の裏で

 深夜の演習室、灯花は一人鏡の前に立っていた。部屋は紅蓮の炎の微かな光で照らされている。彼女は自分の姿を見つめながら、内心の声と対話していた。


 「なぜ私は、誰かに見てもらえなければ、自分を信じられないのか」


 その問いは彼女が最も恐れていた自己認識だった。幼い頃から、貧民街の子として、平民として、常に「証明すること」を強いられてきた。才能を、資質を、価値を。


 鏡の中の灯花が口を開く。


 「それはお前が自分自身を見ることができないからだ」


 灯花は驚かなかった。今ではこの対話が日常になりつつあった。彼女の唇が動き、饕の中から響くような声が聞こえ、背筋に冷たい汗が流れた。


 「どうすれば……自分を見ることができるの?」


 「見せることをやめれば良い」と鏡の中の灯花は答えた。「演じることをやめれば、本当の自分が見えてくる」


 灯花は演習室の床に座り込み、両手で顔を覆った。膝が石の床に当たる冷たさが、現実を思い出させる。紅蓮の力を得て以来、彼女は常に「見られる自分」を演じていた。強い自分、怖れを知らない自分、誰にも負けない自分。


 鏡に映る影のような存在は、完全に彼女自身の姿を取り、彼女と向き合うように座っていた。


 「私は……いつから見失ってしまったの?」


 灯花が問うと、鏡の中の自分が答える。


 「お前が他者の目を通して自分を見始めた時から」


 母イリナの言葉が脳裏に過ぎる。「炎はただ熱いだけじゃだめ。周りを照らして皆を慈しむ優しい炎であることが大事」。そして美羽の「お姉ちゃんの炎、温かい」という無邪気な笑顔。


 「今の私の炎は誰を温めているだろう」


 灯花は手のひらを見つめ、小さな炎を灯した。かつての彼女の炎は優しく温かいものだった。それが今や危険な紅蓮の炎へと変わってしまった。


 彼女が原初の炎を作ろうとすると、すぐに紅蓮の指輪が反応し、炎は紅色に変わる。小さな炎は瞬く間に大きく強烈な熱を持つ炎へと変貌した。


 「どちらが本当の私……」


 灯花の視線が宙を彷徨い、手が無目的に空中を描き、肌がまだらに震えた。紅蓮の炎も彼女自身の一部なのだろうか。それとも外部から彼女に宿った異物なのか。


 鏡の中の姿は「両方だ。だがお前は一方しか見ようとしていない」と答える。


 彼女は紅蓮の炎を消し、立ち上がった。演習室の大きな鏡の前に立ち、自分の表情を整える。初めは無表情だったのが、次第に自信に満ちた笑顔へと変わっていく。


 「この表情で、皆の前に出れば大丈夫」


 灯花は完璧な笑顔を作った—仮面のような笑顔。自信と余裕を示す、他者に見せるための表情。


 「これでいい。これが私の選んだ道」


 そう言い聞かせるが、鏡に映る自分が「それは本当にお前の選択か?それとも誰かに認められたいだけの選択か?」と問いかけてくるのが聞こえた。


 灯花は紅蓮の指輪に触れた。焼けるような痛みが指先から肩へ、そして全身へと広がり、血管の中を熱い何かが流れていく。今では日常的な感覚だ。その力と痛みで、内面の葛藤を押しつぶそうとする。


 「私にはもう、この力しかない」


 どれほど演習室に留まっていたのか分からない。窓の外は依然として暗く、学院は静寂に包まれていた。灯花はようやく寮に戻ることにした。


 廊下を歩きながら、彼女は壁に映る自分の影を見た。その影は彼女の動きに正確に同調せず、少し遅れて動いているように見えた。


 「おや、こんな時間に」


 声の主は烏丸教授だった。彼は研究室から出てきたところらしく、手には古い書物を抱えていた。


 「教授……」


 灯花は慌てて姿勢を正した。しかし、烏丸教授の視線は彼女ではなく、彼女の影に注がれていた。


 「君の影が、興味深い動きをしているね」


 教授の言葉に、灯花の心臓が跳ね上がった。彼は知っているのだろうか。影法師の存在を。


 「私は……」


 「君は特別な才能を持っている、灯花君」烏丸教授は穏やかに微笑んだ。「だが、その才能には代償が伴う。君はそれを理解しているかね?」


 灯花は答えられなかった。教授の瞳が針のように鋭く、自分を貫いてくるようだった。喉が締め付けられ、息が苦しい。


 「明日の授業で、君に特別な課題を与えよう」教授は意味深長に言った。「君の真の力を試す時が来たようだ」


 そう言い残して、烏丸教授は去っていった。灯花は震える足で寮に戻ったが、その夜は一睡もできなかった。


 翌朝、彼女が目覚めると、枕元に一通の手紙が置かれていた。差出人の名前はない。震える手で封を開けると、そこには一行だけ記されていた。


 『影法師と契約する者は、最後には自分自身を失う』


 灯花は手紙を握りしめた。誰がこれを置いたのか。そして、なぜ今なのか。彼女の運命は、確実に大きな転換点に向かっていた。


 寮の自室に戻ると、灯花は窓辺に立ち、暗い空に浮かぶ月を見つめた。月明かりが彼女の顔を照らす中、灯花はふと天音のことを思い出した。かつての親友は今や彼女を避け、目を合わせようとさえしない。


 「私は彼女を傷つけた。紅蓮の炎で……」


 灯花は自分の両手を見つめた。かつては人を助けるためだけに使っていたこの手が、今や人を傷つける力を持っている。


 枕元に置かれた美羽の手紙を手に取る灯花。妹の無邪気な文字と、母からの心配の言葉。彼女たちは灯花の変化に気づいていないのだろうか。それとも気づいていながらも、何も言わないだけなのか。


 「私は本当に、皆を守るために力を得たのか」


 眠りにつく前の最後の問いが、彼女の心に響いた。瞳を閉じても、問いは頭の中をグルグルと回り続け、眠りは遠かった。

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