4. 周囲の反応と断絶
迷宮での出来事は学院中に広まり、灯花は以前とは全く異なる立場に置かれることになった。講義室では一部の学生から賞賛を受ける一方で、大多数は彼女を遠巻きに見るだけだった。
「禁忌の領域に入り、《影蟲》を倒したんだって」
「紅い炎で一瞬だったらしい」
「烏丸教授も驚いていたそうだ」
灯花が教室に入ると、そんな囁きが飛び交い、やがて静寂が訪れる。彼女の席の周りには空席ができ、誰も近づこうとしなかった。胸の奥が冷たく沈んでいく一方で、血が熱くなり、心臓が早鐘を打った。
講義の後、廊下で灯花は上級生の貴族たちが談笑するのを耳にした。
「あんな禁忌の力に頼るなんて最低だ」
「所詮、平民の分際で無理をした結果だろう」
「天音はあんな危険な友人と距離を置くべきだ」
かつてなら傷ついただろう言葉に、今や違った感情を抱く灯花。
「見下す者こそ、私を見ている」
奇妙な満足感が彼女の心を満たした。批判も称賛も、どちらも関心の現れに過ぎない。唇の端が微かに上がり、眼鏡の奥の瞳が輝きを増す。背筋が伸び、顔を上げて歩くようになった。
図書館では、以前は親しく話していたエレノア司書も、少し距離を置くようになっていた。
「灯花さん、最近の研究内容には気をつけてくださいね」
エレノアは心配そうに言った。「禁忌に踏み込みすぎると、戻れなくなることもあります」
灯花はただ微笑み、「ありがとう、でも大丈夫」と軽く答えた。内心では「もう戻る気はない」と思っていた。
夜、自室の鏡を見つめる灯花は、自分の姿が二つに分かれ、もう一人の自分が「批判も称賛もただの注目だ」と語りかけてくるのを見た。
「これが私の望んだことなの?」
灯花は自問した。紅蓮の指輪から伸びる赤い痕は、今や肘を超え、徐々に上腕へと広がりつつあった。時折、激しい痛みが走るが、それすら彼女は力の証として受け入れていた。
「身体の痛みは、心の痛みより遥かに耐えやすい」
そう考えると、肉体の痛みがむしろ心を落ち着かせ、呼吸が楽になった。
学院の中庭で、灯花は霧島と廊下ですれ違った。彼の冷たい視線が一瞬彼女に注がれる。
「これで貴族の貴方たちの仲間入りができるわ」
灯花は少し挑発的に言った。何かを期待していたのかもしれない。称賛か、認めか、あるいは……。
霧島は立ち止まり、彼女をじっと見つめた。
「力を得るために自分を失えば、それは本当の強さではない」
その言葉に、灯花の胸の奥で何かがぎしりと軖んだ。「私は自分を失ってなんかいない。むしろ本当の自分を見つけた」
だがその言葉を言いながら「本当の自分」とは何かを自問していた。紅蓮の力を手に入れる前の自分か、それとも今の自分か。どちらが仮面をかぶっているのだろう。
霧島は彼女の言葉に何も答えず、立ち去った。彼の背中が少し丸くなっているように見え、歩き方にも以前のような張りがなかった。
「なぜ彼が悲しむ?私のことなど関係ないはずなのに」
灯花はその疑問を抱えたまま、寮に戻った。
部屋に着くと、机の上に美羽からの手紙が置かれていた。読み進めながら、灯花の表情が少しずつ柔らかくなっていく。妹の無邪気な文字と、母の温かな言葉が、久しぶりに彼女の心を揺さぶった。
「お姉ちゃん、校長先生から手紙が来たよ!お姉ちゃんがすごい魔法を使ったって!すごいね!わたしも早く元気になって、お姉ちゃんに会いに行きたいな」
灯花は手紙を胸に抱き、窓辺に立った。月明かりに照らされた学院の景色を見つめながら、彼女の心には昔の自分と今の自分が交錯していた。
「本当に、これでいいの?」
鏡の前の灯花に、その影が問いかける。「見られることが目的なのか、それとも力そのものが目的なのか」
灯花はその問いを無視しようとするが、鏡に映る自分の瞳が、紅蓮の炎のように揺らめいているのを見て、背筋に冷たい汗が流れた。
その夜、彼女は天音とほとんど言葉を交わさないまま過ごした。かつては心を通わせていた二人の間に、今や深い溝ができていた。
灯花は天音が自分を恐れ、距離を置いていることを知っていた。でも、その距離感すら、彼女の肌を刺し、血管が熱く脈打ち、背筋が伸びる感覚を生んでいた。
「見下され、恐れられ、避けられても、皆の目は私に向いている」
その夜、紅蓮の契約を結んでから初めて、灯花は静かに涙を流した。それが喜びからなのか、悲しみからなのか、彼女自身にもわからなかった。
涙を拭いながら、灯花は天音の言葉を思い出した。「いつでも戻ってきていいから」。その優しさが胸を刺し、同時に温かさも感じさせた。灯花の手が震え、呼吸が深くなった。
鏡を見つめる灯花の目に、一瞬だけ昔の自分が映った。力を渇望する前の、純粋に誰かを守りたいと願っていた灯花が。その姿は紅蓮の炎に隠れてしまったが、完全に消えたわけではなかった。
「まだ遅くないかもしれない」—そんな小さな希望が、心の奥で静かに灯っていた。影法師の力に飲まれそうになる中でも、本当の灯花は諦めていなかった。ただ、その声は日に日に小さくなっているのも事実だった。




