3. 天音の負傷と切断
迷宮の異変は瞬く間に学院中に広まった。灯花が禁忌の領域で《影蟲》の群れを倒したという噂は、学生たちの間で恐れと畏敬の入り混じった囁きとなって流れていた。
「あの平民の娘が?」
「禁断の術を使ったらしい」
「紅い炎で瞬時に魔獣を焼き尽くしたって……」
灯花は教室に入るたびに、会話がピタリと止まり、視線が一斉に自分に集まるのを確認した。肌がピリピリと痛み、耳たぶが熱くなる。瞳孔が開き、まばたきが増え、体がわずかに後ずさる仕草。視線が灯花を捉えては逸らされ、再び戻ってくる。恐れ、好奇心、そして何より注目――それらが灯花を取り巻いていた。
一方、天音は灯花を心配して迷宮へと駆けつけていた。禁忌の領域に入ったという報告を受け、胸が締め付けられ、足が勝手に走り出していた。呼吸が荒くなり、手のひらに冷や汗が滲んでいた。
「灯花!」
天音の声が空間に響き、灯花は振り返った。最後の《影蟲》を倒し終えたところだった。部屋はまだ紅蓮の炎の余韻で薄く赤く染まっている。
「天音……どうしてここに?」
灯花は一瞬言葉に詰まった。天音の目に映る自分はどんな姿だろう。紅蓮の力に包まれた自分は、親友の知る「灯花」とは違っているはずだ。
天音の瞳孔が収縮し、口が半開きになった。足が石化したように床に張り付き、両手がわずかに震えていた。
「灯花……あなた、何してるの?」
その声には懇願と非難が混じっていた。灯花の胸の中で何かがぎしりと軋んだ。喉が急に乾き、手の平に汗が滲む。見られている—だが、それは恐れの目だった。
「心配しないで、私は強くなったの」
灯花は穏やかに微笑もうとしたが、その表情はどこか硬く、不自然だった。
「その力……影法師の力でしょう?」
天音の言葉に、灯花は防御的になった。彼女がどうして影法師のことを知っているのか不思議だったが、それよりも胸の奥で何かが熱く燃え上がり、拳が無意識に握られていた。
「これは私自身の力よ。私はこれで皆を守れる」
灯花の頭の中で影法師の声が響いた。『彼女は君を理解しない。君の覚悟を否定しようとしている』。その声に心が揺れ、胸の奥で怒りと混乱が渦巻いた。なぜ天音は分かってくれないのか。自分は正しいことをしているのに—
灯花が反論しようとしたその時、背後から《影蟲》が再び現れた。前の戦いで見落としていたのか、あるいは新たに湧いてきたのか。
「危ない!」
反射的に灯花は紅蓮の炎を放った。しかし、その瞬間、影法師の力が彼女の制御を超えて膨れ上がった。まるで天音への苛立ちが炎に乗り移ったかのように、赤い炎が部屋を激しく横切り、《影蟲》を焼き尽くす。そして、その炎は制御を失い、天音の左腕にも当たってしまったのだ。
「あっ……!」
天音の悲鳴が響いた瞬間、灯花の意識が一気に現実に戻った。影法師の声が消え、自分が何をしたのかが明確になった。
「ごめん……ごめんなさい……!」
灯花は血の気が引く思いで友人の側に駆け寄った。天音の左腕には火傷のような跡がついており、彼女は痛みに顔を歪めていた。灯花の手が震え、呼吸が浅くなった。自分の力で、大切な友人を傷つけてしまった。
灯花は傷の手当をしながら、紅蓮の炎を見つめた。そこに自分自身の顔が浮かび「力を得た代償だ」と囁く声が耳の奥で響いた。
時間が過ぎ、二人は静かに迷宮を後にしていた。天音の腕は応急処置がされ、ひどい怪我ではなかったが、二人の間に生まれた亀裂は簡単に修復できるものではなかった。
「その力、代償はないの?」
天音の静かな問いに、灯花は頬が熱くなり、全身の筋肉がヒリヒリと痛むのを自覚しながら答えた。
「あるとしても、払う価値はある」
廊下を歩きながら、灯花は少しずつ距離を取る天音を見た。かつては無二の親友だった彼女が、今は自分を恐れているのだ。胸の奥がズキズキと痛んだが、同時に心臓が高鳴り、体が熱くなった。
またしても影法師の声が響いた。『彼女はもう君を理解できない。距離を置くべきだ』。その囁きが灯花の理性を曇らせ、口から言葉が勝手に出てきた。
「もうあなたでは私に追いつけない」
その言葉を口にした瞬間、灯花は我に返った。天音の瞳が潤み、唇が小刻みに震えているのを見て、胸の奥で何かが音を立てて軋んだ。喉の奥が焼けるように熱くなった。なぜこんな言葉を口にしたのか。これは本当に自分の思いなのか。影法師の影響なのか、それとも自分の本心なのか分からなくなっていた。
天音は静かに立ち止まり、灯花を見つめた。
「いつでも戻ってきていいから」
その優しさに、灯花の喉が熱く締め付けられた。胸の奥で何かが崩れそうになり、今すぐ天音に謝りたい衝動に駆られた。しかし、影法師の力が彼女の感情を押し込め、表面上は冷静に振る舞わせた。何も答えず先に歩き出したが、天音の言葉は心の奥深くに刻まれていた。
迷宮での出来事は学院中に広まり、灯花は畏れと憧れと批判が入り混じった視線を浴びるようになった。彼女はそれを味わいながら、右手の紅蓮の指輪を見つめた。
指輪からは赤い糸のような痕が手首を超え、腕へと伸び始めていた。使うほど体に食い込み、彼女を変えていく。それでも灯花は後悔しなかった。あるいは、後悔することを自分に許さなかったのかもしれない。
その夜、一人部屋で灯花は天音の傷ついた顔を思い出していた。影法師の声は聞こえないが、心の隅で小さな声が囁いていた。『本当にこれで良かったのか』と。灯花は枕に顔を埋め、その声を振り払おうとした。しかし、天音の最後の言葉—「いつでも戻ってきていいから」—だけは、どうしても消すことができなかった。
暖炉の前で一人佇む灯花の影は、今や彼女とは明らかに異なる動きをしていた。それは彼女が気づかないうちに、別の意思を持ち始めていたのだ。しかし、微かに残る本当の灯花の心は、まだ完全には諦めていなかった。




