5. 天音の信頼と決意
図書館の隅、重厚な書架の影に灯花と天音が座っていた。土砂降りの雨が窓を叩き、外の世界を霞ませている。灯花の胸には、言葉にできない重いものが沈んでいた。
「灯花、最近どうしたの?」
天音が唐突に尋ねた。言葉が一瞬詰まり、指先が本のページを握りしめた。
「何が?」灯花は顔を上げずに答えた。手元の本—「上級魔法と精神力の関係」—のページをめくりながら。
「なんだか遠くなった気がする。昔の灯花に戻ってほしいな」
その言葉に、灯花の背筋に冷たいものが走った。
「昔の私って、どんな私?」
灯花はようやく本から顔を上げた。彼女の声には皮肉めいた響きがあった。これは自分でも気づかない新しい表情だった。
天音は少し戸惑いながらも、真摯に答えた。
「優しくて、誰かのために頑張る灯花。純粋な心で皆を照らしてた」
灯花は天音をじっと見つめた。「そんな私、いたかしら」と微笑んだが、その笑みは心に届いていなかった。
「もちろんいたわ!」天音は熱心に言った。「貧民街の子供たちを思う気持ち、美羽ちゃんのことを話す時の顔、魔法を研究する時の純粋な喜び……」
天音の言葉が灯花の胸に重く響いた。目の奥が熱くなり、思わず視線を逸らした。本のページをめくる手が止まり、呼吸が浅くなる。確かに彼女にも覚えがある。あの頃の自分は、魔法そのものの美しさに魅了され、家族や友人のために力を求めていた。
「灯花、何があったの?何か悩みがあるなら、話して」
天音が彼女の手を取った。その瞬間、灯花の喉が締め付けられるように熱くなった。全てを打ち明けたい衝動に駆られた。鏡の中の自分との会話、日に日に強まる承認への渇望、そして右手の薬指に現れた赤い痕……
だが、言葉にする勇気が出なかった。
「私、あなたを信じてる。何があっても味方だから」と天音は続けた。
その言葉に、灯花は思わず口を開いた。
「私が必要なのは"信頼"じゃなく"称賛"かもしれないわ」
言った瞬間、自分でも驚いた。口から出た言葉が、まるで別人のもののように感じられた。心臓が早鐘を打ち、耳が熱くなった。
天音の目が大きく開かれ、唇がわずかに震えた。
「え……?」
灯花は慌てて取り繕った。
「冗談よ。真剣な顔しないで」
彼女は無理に笑ったが、空気は変わってしまった。天音の目に宿った不安と悲しみを見て、灯花は自分の言葉を後悔した。
「ごめん、最近少し疲れてるの。あなたの信頼は私にとって大切よ」
灯花は天音の肩を抱き、話題を変えようとした。しかし、先ほどの言葉は二人の間に目に見えない壁を作ってしまった。
図書館を出ると、雨は上がり、中庭には水たまりがいくつもできていた。灯花の胸は締め付けられるように重く、手のひらに汗が滲んでいた。なぜあんな言葉を口にしてしまったのか。なぜ称賛を求める気持ちを隠せなかったのか。
中庭を歩きながら、灯花は水面に自分の姿が映るのを見た。その反射像は動きに合わせて動くが、表情だけは違っていた。水面の灯花はより暗く渇いた表情をしていた。
灯花が水面に触れると波紋と共にその姿は消えた。手が震え、背筋に冷たい汗が流れた。
「私はどうなってしまったの?」
灯花は自問した。天音の優しさが胸に棘のように刺さる。胃がキリキリと痛み、喉の奥が苦い。拳を握る手に力が入り、爪が掌に食い込む。
誰にも打ち明けられない孤独感が、灯花の心を覆い始めていた。
寮に戻る途中、彼女は貴族寮の窓を見上げた。霧島の部屋の明かりがついている。彼もまた、自分の立場を守るために懸命に努力しているのだろう。
「彼と私は、そう違わないのかもしれない」
灯花の唇が皆肉を浮かべた。二人とも認められるために、異なる道を歩んでいる。ただ彼には生まれながらの特権があり、彼女には平民という枷があるだけで。
部屋に戻った灯花は、窓際に立ち、暗い空を見上げた。
「このままじゃ足りない」
灯花の右手の薬指の赤い痕が、月明かりに照らされて鮮やかに浮かび上がっていた。