3. 図書館での手がかり
深夜の図書館は、昼間とは違う空気に満ちていた。古書の香りが濃厚に漂い、鼻腔を刺激する。魔法の灯りだけが静かに揺らめき、影が生き物のように壁を這う。灯花は奥の一角に陣取り、美羽から送られてきた父の魔法書と、自分が持っていた羊皮紙の解読に奮闘していた。指先はインクで黒く染まり、肩が凝り固まって鈍い痛みを訴えていた。
「これは……」
灯花はペンを走らせながら、父の魔法書の一節を自分のノートに写し取った。指が震え、文字が歪む。記号のような古い文字の意味を理解しようと、彼女は何度も同じページを読み返す。瞼が重く、視界がぼやけては瞬きで焦点を合わせ直した。
三週間、毎晩図書館に通い詰めた成果はまだ乏しい。胸の奥で焦燥感が黒く渦巻き、胃がきりきりと痛む。わかっているのは、この文字が通常の魔法記述とは異なる古代文字だということだけ。舌打ちしたい衝動を必死に抑えた。
「もう……」
灯花は疲れた目をこすり、背筋を伸ばした。関節がぽきりと音を立て、首筋に走る痛みに顔をしかめる。時計を見れば午前二時を回っている。諦めの溜息が喉元まで上がってきたその時、背後から声がかけられた。
「随分と遅くまで頑張っていますね」
振り返ると、そこには図書館の主任司書エレノア・グリーンウッドが立っていた。心臓が跳ね上がり、椅子から転げ落ちそうになる。銀灰色の髪をきちんとまとめ上げた年配の女性は、穏やかな微笑みを浮かべていた。その優しい眼差しに、灯花の緊張した肩がわずかに下がった。
「申し訳ありません。もう少ししたら帰ります」
灯花は慌てて立ち上がろうとしたが、疲労で足がもつれる。机に手をついて体を支えた。エレノアは手を振って制し、その動作に灯花は安堵の息を漏らした。
「いいえ、気にしないで。私は夜勤の時もありますから」
エレノアは灯花のテーブルに視線を落とした。広げられた父の魔法書と、灯花自身の羊皮紙の上に描かれた術式に、彼女の目が光る。その瞬間、エレノアの表情が微かに変わり、眉がわずかに上がった。
「これは……高位の秘術に使われる古代ルーン文字の変種ですね」
灯花の心臓が早鐘のように打つ。喉が急に渇き、声がかすれた。「わかるんですか?」
エレノアは微笑みながら頷き、灯花の隣に腰を下ろした。椅子が軋む音に、灯花は身を固くする。エレノアから漂う古書とラベンダーの香りが鼻腔をくすぐった。
「昔、私も研究していました。今では古典文献学の一環として扱われていますが……」
彼女は灯花の古文書を丁寧にめくりながら、説明を続けた。
「これらの象形文字は、おそらく大陸東部の古代魔法文明に由来するものでしょう。結界の術式を表しているようですね」
エレノアの説明に、灯花は息を呑んだ。全身の血が頭に昇るような感覚で、めまいがする。三週間かかっても解読できなかった文字が、エレノアの口から自然と解説されていく。手が震え、ペンを取り落としそうになった。
「待って……この記号」
灯花は突然、羊皮紙の一点を指差した。それは炎のような形をした複雑な記号だった。
「これ、私の魔法と同じ形をしている!」
灯花は手のひらに小さな紅蓮の炎を灯した。その形は、まさに古代文字の記号と完璧に一致していた。エレノアの目が大きく見開かれる。
「まさか……あなたの魔法は、この古代術式と関連があるのかもしれません」
二人は顔を見合わせた。偶然の一致にしては、あまりにも完璧すぎる符合だった。
「グリーンウッド先生、これを解読する方法を教えていただけないでしょうか」
灯花は真剣な眼差しで司書を見つめた。両手を膝の上で握りしめ、爪が掌に食い込む。エレノアはしばらく考え込むようにしていたが、やがて決心したように頷いた。その瞬間、エレノアの瞳に温かな光が宿った。
「あなたの努力する姿勢に感銘を受けました。毎晩、誰よりも遅くまで勉強している姿を見てきましたから」
エレノアの言葉に、灯花の目頭が熱くなる。認められた喜びで胸が震え、涙がこぼれそうになった。
彼女は立ち上がり、書架から古い参考書を数冊取り出してきた。
「これらを使えば、基礎的な解読はできるでしょう。週に一度、私の空き時間にレッスンもしましょうか」
灯花の顔が熱くなり、頬が紅潮する。胸の奥から温かいものが込み上げ、全身に広がっていく。「本当ですか?ありがとうございます!」声が上ずり、喜びで手が小刻みに震えた。
エレノアは笑いながら、「熱心な学生を手助けするのは司書の務めですよ」と言った。
その後、エレノアは灯花に古代ルーン文字の基本的な読み方を教え始めた。灯花は身を乗り出し、エレノアの指が示す文字を食い入るように見つめる。線の角度や接続の仕方で意味が変わること、複合文字の組み合わせ方などを、彼女は丁寧に説明した。灯花の瞳がきらきらと輝き、頬が上気していた。
図書館を出る頃には、空が白み始めていた。冷たい朝の空気が肺に流れ込み、頭がすっきりする。灯花は新たな希望で胸が熱くなるのを感じながら、寮への道を急いだ。足取りは疲労で重いが、心は軽い。窓の外を見ると、貴族寮の霧島の部屋にも明かりが灯っていた。
「彼もきっと、必死に努力しているんだ」
灯花は立ち止まり、貴族寮を見上げた。胸の奥で何かがちくりと痛む。いつも余裕のある様子を見せる霧島だが、彼もまた自分の立場を守るために努力しているのかもしれない。その気づきに、喉の奥が締め付けられるような感覚を覚えた。複雑な感情が胸の中で渦巻く。
部屋に戻った灯花は、エレノアから借りた参考書を開き、早速解読を始めた。指が震えるほどの興奮を抑えきれない。頁をめくる手がはやり、心臓が高鳴る。父の遺した魔法書に秘められた結界術の奥義を解明する道が、ようやく開けたのだ。瞳の奥に決意の炎が宿り、疲労も忘れて文字を追った。