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1. 演習の日々

  王立魔法学院に入学して三ヶ月が過ぎた春の日、灯花は演習室で汗を流していた。朝は誰よりも早く、夜は閉館間際まで、彼女の姿はいつも同じ場所にあった。結界術の習得に情熱を注ぎ、手の皮が剥けても構わず練習を重ねる日々。指先はひりひりと痛み、掌には水ぶくれが潰れた跡が幾つも残っていたが、それすら彼女の勲章のように感じられた。


 「灯花、もう十時よ。そろそろ休んだら?」


  親友の天音が心配そうに声をかけてきた。彼女の手には軽い夜食が包まれている。


 「ありがとう」灯花は一瞬だけ手を止めて微笑んだ。頬の筋肉が引きつるのを感じながら、必死に笑顔を作る。「でも、もう少しだけ続けるわ。この術式、もう少しで完成するの」


  天音はため息をつき、演習室の隅に腰を下ろした。


 「無理はしないで。この三ヶ月、あなたはほとんど休んでいないじゃない」


  確かにそうだった。灯花の顔は少しやつれ、目の下には深い隈が刻まれている。頬もこけ、首筋の血管が浮き出るほど痩せていた。しかし、彼女の瞳は以前より鋭く輝いていた。内側から何かが燃えているような、執念にも似た光が宿っている。


  天音が言葉を続けようとした時、演習室のドアが開き、数人の学生が入ってきた。先頭を歩くのは、同期最強の魔法使いと称される霧島遼だった。彼の存在感に、空気が一瞬で冷たく張り詰める。灯花の背筋に緊張が走った。


 「またお前か」


  霧島の冷たい視線が灯花に向けられる。その視線を受けて、灯花の胃がきゅっと縮こまる。名家の嫡男である彼は、平民出身の灯花たちを眼中に置いていなかった。


 「邪魔はしない。好きにすればいい」


  灯花は淡々と答え、自分の作業に戻った。しかし、彼女の耳には霧島の魔法詠唱が届いていた。その流れるような音律と完璧な魔力制御を聞くたび、劣等感が胸の奥で黒く渦巻く。手が微かに震え、術式の線が歪んだ。


  霧島は片手を翳すだけで、複雑な防壁結界を展開した。その技術に灯花は圧倒され、思わず手を止めて見入ってしまう。喉が渇き、唾を飲み込むのも苦しい。彼我の差があまりにも大きく、膝から力が抜けそうになる。


 「見とれているところ悪いが、そんな眼で見られるのは不快だ」


  霧島の冷笑に、天音が立ち上がろうとしたが、灯花は友人の肩を軽く押さえた。触れた手が小刻みに震えているのを、必死に隠す。


 「いいの。彼の言う通りよ」


  灯花は自分の術式に戻り、さらに集中した。歯を食いしばり、屈辱を飲み込む。霧島のような洗練された魔法。「あんな風になれるだろうか」と自問しつつも、彼女は父の遺した古い羊皮紙に描かれた術式を頼りに、自分なりの結界術を磨き続けた。悔しさで目頭が熱くなるが、涙は決して見せない。


  その時、異変が起きた。


  灯花が展開していた小さな結界が、突然赤い光を放ち始めたのだ。霧島の完璧な防壁結界と共鳴するように、紅蓮の炎が結界の中で渦を巻く。


 「なっ……!」


  霧島が初めて驚きの表情を見せた。彼の結界が、灯花の未熟な術式に反応して揺らいでいる。


 「これは……」


  灯花自身も戸惑った。しかし次の瞬間、彼女は本能的に理解した。父の遺した術式には、他者の魔力と共鳴する特殊な性質があったのだ。それは欠点ではなく、独自の強みになり得る。


 「面白い」


  霧島が初めて灯花を真っ直ぐに見た。その瞳に宿るのは、もはや侮蔑ではなく、かすかな興味だった。


  深夜、二人だけになった演習室で、天音が尋ねた。


 「どうして、そこまで頑張るの?」


  灯花は手を止め、窓から見える月を見上げた。月光が疲れた顔を照らし、深い隈をより濃く見せる。


 「美羽と母を守るという約束があるの。幼い頃、父さんが亡くなった時、私が決めたことだから」


  その言葉に天音は何も言い返せなかった。灯花の瞳に映る決意の強さを見れば、それ以上の説明は不要だった。天音は、親友の瞳の奥で何かが燃えているのを見た。それは単なる決意を超えた、もっと危険な何かだった。背筋に冷たいものが走り、天音は思わず一歩後ずさった。


 「帰りましょう」と天音が言い、二人は並んで演習室を後にした。灯花の足取りは重く、階段を上るたびに筋肉が悲鳴を上げる。


  灯花の部屋に戻ると、机の上には美羽からの絵手紙が置かれていた。病床からの明るい文面を読むたび、胸が締め付けられるように痛む。灯花は拳を握りしめ、爪が掌に食い込むまで力を込めた。その痛みで自分を奮い立たせ、背筋を伸ばし、父の遺した古い魔法書とノートを開く。


 「もう少し、もう少しだけ……」


  彼女の指先が羊皮紙をなぞる。震える手で文字を追い、瞼が重くなるのを必死にこらえる。最新の医学書によれば、美羽の病は高度な浄化結界で治療できる可能性があるという。それには、彼女自身が一流の結界術師にならなければならない。焦燥感で胃が焼けるように熱い。


  灯花の瞳に決意の光が宿る。その光は異様な強さで輝き、見る者を不安にさせる何かを孕んでいた。霧島のような生まれついての才能はなくとも、努力で補える道があるはずだ。そう信じたい。信じなければ、自分が壊れてしまいそうだった。手が震え、呼吸が浅くなる。それでも、彼女は深夜まで魔法書の解読と魔法の修練に打ち込む決意を新たにした。


 「必ず、成し遂げてみせる」


  彼女の静かな誓いは、月明かりだけが照らす小さな部屋に響いた。窓に映る自分の顔を見て、一瞬ぞっとする。頬はこけ、目は異様に輝き、唇は血の気を失っていた。鏡の中の自分が、まるで他人のように見えた。慌てて視線を逸らし、震える手で顔を覆った。


  その時、部屋の隅で何かが動いた。


  灯花は振り返ったが、そこには何もない。ただ、机の上に置いた父の羊皮紙が、風もないのにかすかに揺れていた。


 「気のせい……よね」


  灯花は首を振り、再び魔法書に向かった。しかし背中に感じる視線の重さは、決して消えることはなかった。


  翌朝、天音が灯花の部屋を訪ねた時、彼女は机に突っ伏して眠っていた。その周りには、無数の術式が描かれた紙が散乱し、その全てに紅蓮の炎の痕跡が残されていた。


 「灯花……あなた、一体何をしようとしているの?」


  天音の不安げな呟きは、静寂な朝の空気に溶けていった。

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