8. 深夜の再挑戦
母の手紙から二日後、灯花は深夜の学院を足早に歩いていた。外は吹雪だったが、校舎内の廊下は不気味なほど静まり返っている。松明の灯りが彼女の影を壁に映し、その影はまるで追いかけてくるかのようだった。足音が石床に響くたび、心臓が早鐘のように打ち、呼吸が浅くなる。
「まだ間に合う」
灯花はその言葉を何度も自分に言い聞かせていた。母の手紙を思うたび胸の奥で焦燥がくすぶり、胃が熱く焼けるような感覚に襲われる。美羽の笑顔、母の心配そうな表情、そして自分の無力さ。すべてが彼女を突き動かし、足を速めさせた。喉の奥が渇き、唾を飲み込むのも苦しい。
演習室に着くと、灯花は素早く魔法鍵を解除した。震える指先で術式を描くのに手間取り、苛立ちで奥歯を噛みしめる。本来なら深夜の使用は禁止されているが、もはやそんな規則に従っている余裕はなかった。
「今日こそ、必ず」
彼女は部屋の中央に立ち、高等結界術の構築を始めた。一度、二度、失敗を繰り返すたび、掌に汗が滲み、こめかみがずきずきと脈打つ。それでも彼女は諦めずに魔力を注ぎ込んだ。
三時間が経過した頃、灯花の体は極限まで疲労していた。額から流れる汗が目に入り、塩辛い味が口の中に広がる。膝が笑い、立っているのがやっとの状態。手足は小刻みに震え、指先の感覚が麻痺してきた。魔力は底をつきかけ、胸の奥が空洞のようにぽっかりと空いた感覚がする。だが、彼女は立ち止まらなかった。
「もう一度……最後に」
灯花は残された魔力をすべて集中させた。血管を魔力が駆け巡る感覚が、焼けるような痛みとなって全身を貫く。術式の一本一本を丁寧に、しかし素早く描き出す。最後の詠唱が終わり、魔力が放出される瞬間——
これまでとは明らかに違う感覚だった。全身の毛穴から魔力が溢れ出すような、今まで感じたことのない解放感。術式が青白い光を放ち、彼女の周囲に完璧な結界が形成される。今まで何度も失敗してきた高位の結界術が、ついに成功したのだ。
「できた……!」
歓喜の声が演習室に響く。達成感で胸が熱くなり、目頭が熱くなる。しかし喜びと共に、どこか虚しさも感じていた。喉の奥に何か冷たいものが詰まったような違和感。これで満足していいのか、まだ足りないのではないか、という不安が蛇のように心を這い回る。
その時、背後に気配を感じた。首筋の産毛が逆立ち、背筋に氷を流し込まれたような悪寒が走る。振り返ると、暗がりに人の形をした影が佇んでいるのが見えた。
「影法師……」
恐怖で心臓が跳ね上がり、全身から冷や汗が噴き出す。しかし同時に、胸の奥で何かが熱く疼くような、奇妙な引力も感じる。相反する感情に引き裂かれそうになりながら、灯花は警戒しながらも、一歩も退かなかった。
「力が欲しいか?」
影からの問いかけは、低く響く灯花自身の声のようでもあった。その声を聞くたび、鼓膜が震え、頭蓋骨の内側に直接響いてくるような感覚に襲われる。
「私を受け入れれば、お前の望む力を与えよう。貴族どもを見返す力、家族を救う力、すべてを手に入れることができる」
その誘惑に灯花の心が揺らいだ。甘い蜜のような言葉が耳朶を撫で、理性が溶けていくような感覚。強大な力を得られれば首席になれるかもしれない。美羽を救えるかもしれない。貧民街の子供たちを守れるかもしれない。期待で胸が高鳴り、指先がじんじんと熱くなる。
しかし、すぐに彼女は首を振った。頭を振るたび、何か重いものが脳内で揺れるような眩暈を覚える。
「私は……私の意志で、努力で這い上がる」
灯花の声は震えていたが、決意は固かった。唇が乾き、声がかすれる。しかし、拳を握りしめた手から伝わる痛みが、意志を強固にした。影法師は静かに笑い、その姿はますます灯花に似てきているように思えた。鏡を見ているような違和感で、胃がむかむかする。
「いつでも呼べばいい。お前の心が決まったときに」
そう言い残し、影法師は闇の中に溶け込むように消えていった。その場に残された空気が妙に冷たく、肌を刺すような感覚がしばらく続いた。
灯花は深く息を吸い、肺に冷たい空気を取り込んで気持ちを落ち着けた。再び結界に集中する。一度成功した術式はもう迷いなく再現できる。最後の魔力を叩き込むと、血管が熱く脈打ち、再び完璧な結界が演習室を包み込んだ。
「これでいい……はず」
喜びと共に妙な空虚感も覚える灯花。達成感があるはずなのに、胸の奥にぽっかりと穴が開いたような虚しさ。窓から差し込む月明かりの中、彼女は思った。これで満足していいのか。家族を守れるのか。まだ足りない何かがあるのではないか。不安が喉元を締め上げるように苦しい。
灯花は月を見上げ、静かに誓った。月の冷たい光が瞳に突き刺さるようだった。
「私はもっと強くなる。どんな手段を使ってでも」
その言葉は、数分前の自分が影法師に言った言葉と矛盾していた。矛盾に気づいた瞬間、頭の中で何かがきしむような音がした。それでも、灯花は自分の決意を曲げなかった。歯を食いしばり、違和感を飲み込む。
月光に照らされた彼女の影は、わずかに彼女の動きと異なる動きをしているように見えた。だがそれに気づくことなく、灯花は疲れた体を引きずりながら演習室を後にした。足取りは重く、一歩踏み出すたびに筋肉が悲鳴を上げる。
影だけが、そこに残された。