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アクイレギアの楽園  作者: エノキスルメ
第二章 覚悟、矜持、思惑
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第48話 犬とクローバー

 迅速に情報を伝達する手段を持つことは、為政者にとって極めて重要。ヴィルヘルムの知る前世の歴史では、様々な時代、様々な地域の為政者たちが、より速く情報を伝えるために苦心した記録があった。

 為政者たちの情報伝達に対する認識は、今世でも変わらない。だからこそ、皇帝家は帝国全土に早馬による伝令網を敷き、皇帝セザール二世は己の威信をかけてこの伝令網を維持していた。セザール二世亡き後、皇帝一家の国葬の日程を伝えることを最後の務めとし、伝令網を支えていた帝国軍騎士たちは中央に引き上げたというが。

 貴族たちも、皇帝家ほど徹底はできないとしても、情報伝達には各々が可能な限り力を入れている。貴族が騎士を従えるのは、軍事力としてはもちろん、伝令役として使うためでもある。


 ヴィルヘルムはこの先勢力を拡大し、ゆくゆくは建国を成す上で、独自の情報伝達手段を手に入れたいと考えていた。

 今のところは、領都であるユトレヒトから、領内の大抵の場所には一日で報せを送ることができる。その逆に受け取ることができる。

 しかし、このまま支配域を広げれば、いずれはユトレヒトと支配域の端で情報のやり取りをするのに、片道だけで何日も要するようになる。

 もし、前世の知識を利用し、高速での情報伝達手段を確立することができれば、他の勢力に対して大きな有利を得られる。

 そう考えたヴィルヘルムが目をつけたのが――犬だった。


「犬を伝令に、ですか……」


 十月末。フルーネフェルト家の屋敷の一室で、ヴィルヘルムを前に言ったのはジョエルという騎士だった。

 祖父の代からフルーネフェルト家に仕える譜代の騎士の彼は、軍人としての能力は平凡。そして無類の犬好きとして知られている。家では三匹の犬を飼っており、どの犬もよく躾けられているという。その三匹は様々な芸をできるだけでなく、都市内でちょっとしたお使いをこなすことさえあると、ヴィルヘルムも噂に聞いたことがあった。


「話を聞くに、犬を教育する君の能力は特筆すべきものだ。そして犬という生き物は、長距離を走り続けることについては、人間や騎馬に速度で勝る。そこで、犬を揃えて君に訓練してもらい、重要地点を結ぶ伝令役にできないかと考えたんだ」


 ヴィルヘルムが説明すると、ジョエルも伝令犬の概要について理解し始めたのか、幾らか納得した様子で頷く。

 ヴィルヘルムの前世において、犬は様々な場面で人間の仕事を助けていた。ヴィルヘルムの生きていた時代でも、軍事や治安維持や人命救助、生活の介助などで。通信手段が未発達だった時代においては、伝令として活躍したこともあったという。前世の故国である日本にも、犬を伝令に用いた武将の逸話が残っていた。

 その話を覚えていたヴィルヘルムは、犬の教育を得意とするジョエルの話を聞いていたこともあり、犬による伝令網を整備することを思いついた。


「犬たちを、まずはユトレヒトとランツに、そして今後フルーネフェルト伯爵家の傘下に入った貴族領の主要都市に配置する。そして、隣り合う都市との道を覚えさせる。命令を受けたら伝令として走り、書簡を届けるよう訓練する。そうすれば、人や騎馬が伝令を担うよりも迅速に書簡を届けることができる……口頭での細かい説明を要する伝令任務には使えないけれど、書簡で事足りる場面での伝令役や、詳細の説明を後にして急ぎ届ける第一報の運び役としては使える。伝令犬が実現すれば、有用性は極めて大きい。ちなみに犬種は、今のところベレネ犬を考えているよ」


 例えばユトレヒトからランツまで、およそ二十キロメートルほどの距離を伝令が走るとして、馬を使った場合でも片道に何時間もかかる。午前にユトレヒトを発った騎士が、帰還するのは夕方。ランツに何か一言指示を出すだけでも、騎士一人の一日を潰してしまう。

 しかし、犬ならば往復二時間程度でこの伝令任務をこなせる。

 この世界の犬にも様々な種類があるが、番犬や狩りの共として人気のある大型犬の一種――見た目は前世のシェパードに似ているが、全身が単色の毛で覆われている個体が多い――であるベレネ犬ならば、書物によると時速二十キロほどで数時間は走り続けられるという。ジョエルが飼っているうちの一匹も、このベレネ犬だとヴィルヘルムは聞いている。

 早馬、すなわち人を乗せた馬の場合、優秀な乗り手が馬を替えながら走っても、一日十時間で踏破できるのはせいぜい八十キロメートルほど。ベレネ犬が都市ごとに交代しながら書簡を運べば、単純に計算しても、同じ所要時間で二百キロメートルを駆け抜けられる。

 また、夜目の利く犬は夜明け前や日没後でも走ることができるため、伝令犬ならば時間を選ばずに緊急報告の書簡を運べる。何匹もの犬を交代で駆けさせることで、この帝国東部の南端からユトレヒトまで丸一日もかからずに書簡を届けることさえ叶う。理論上は。


「そして、犬による伝令網は、早馬による伝令網よりも遥かに少ない費用で整備し、維持できる。将来的に、僕が治める国の全都市に数匹ずつの伝令犬を常駐させたとしても、一定距離ごとに騎士と馬を常駐させることと比べれば、費用はたかがしれている。犬たちは馬と比べれば食べる量も少ないし、馬ほど世話の手間はかからない……それに、彼らは人と違って給金を欲しがったりもしない」

「はははっ、間違いないですね。あいつらに限ってそれはない」


 後半は冗談めかしてヴィルヘルムが言うと、ジョエルは給金を要求する自分の犬たちの姿でも想像したのか、可笑しそうに笑った。

 わざわざフルーネフェルト家が用意せずとも、各都市には元よりある程度の馬と乗り手が常駐している。普段の伝令はそれで事足りる。しかし、非常時の連絡のために、そこからさらに細かい間隔で騎馬を配置し、早馬による伝令網を構築し維持しようとすれば、凄まじい費用がかかる。

 一定距離ごとに狼煙などを設置しても、費用がかかるのは同じこと。狼煙の設備を維持し、そこに信頼できる監視要員を二十四時間置き続けるのは容易なことではない。

 それらと比べれば、都市ごとに犬を置き続ける費用は格段に少なく済む。


「とはいえ、これはあくまで僕の思いつき、素人考えだ。だから、この伝令犬という構想を実用化できるものなのか、君に試してもらいたい。犬集めに関しては、ハルカや御用商人のカルメンにも協力させる。健康で性格の穏やかなベレネ犬を何匹か選別して、まずはユトレヒトとランツを伝令犬で繋いでみせてほしい」

「他の仕事は全て免除する。お前にはしばらく、伝令犬の実用化に専念してもらいたい」


 ヴィルヘルムに続いて、この場に同席しているエルヴィンも語る。


「……分かりました。自分で言うのも何ですが、俺以上の適任者はいない仕事でしょうね。犬の扱いは誰よりも得意なつもりですし、毎日犬を訓練して世話するなんて、夢みたいな話です」


 表情をほころばせるジョエルに、ヴィルヘルムも笑顔を向ける。


「上手くいくようなら、君には騎士身分に加えて新たに役職を与え、部下も与える。フルーネフェルト家の重臣の一人として、伝令犬訓練の方法論を確立してもらう。僕が建国を成した暁には、君の名前は我が国の歴史書に残るよ。情報伝達に革命を起こした偉人としてね」


 この世界のどこかでは、伝令犬を用いている者がいるかもしれない。ロベリア帝国でも、過去に同じような試みをした者、実用化を成した者もいるかもしれない。しかし、少なくとも現在の帝国東部には、ヴィルヘルムの構想ほど組織的に伝令犬を運用している者は存在しない。

 ジョエルがヴィルヘルムから与えられた任務を成し遂げれば、彼は将来、偉人伝の中で永遠に生き続けることになる。


「ははは、そう考えるとやる気も一層湧いてきますね。ご期待に応えられるよう、全身全霊で頑張ります」

「いい報告を聞けることを願っているよ。頑張って」


 意気揚々と退室していくジョエルを笑顔のまま見送り、そしてヴィルヘルムはエルヴィンの方を向く。


「彼、期待できそうだったね」

「騎士としての能力は平凡ですが、真面目さとフルーネフェルト家への忠誠心は疑いようがありません。あいつならやってくれるでしょう」


 エルヴィンがこのように評するのであれば、ジョエルに任せて間違いない。そう思いながら、ヴィルヘルムはこの試みの成功を願う。


・・・・・・


 別の日。ヴィルヘルムは旧リシュリュー伯爵領の農業に関する報告を受けていた。


「先にご報告していた通り、ランツ周辺の休耕地のうち、なんとか半分には撒き終わりました。来年には、家畜の頭数と、春撒きの麦の収穫量が増えるかたちで効果が見えてくるはずです」


 そう語るのは、フルーネフェルト家に仕える文官の一人。

 フレドという名のこの文官は主に農業を統括しており、年齢的にはハルカよりも一回り上だが、彼女のかつての仕事を受け継いだかたちとなっている。

 少しばかり神経質な性格だが、文官としての能力は確か。行政実務を統括する立場となったハルカに代わり、旧フルーネフェルト男爵領内においてクローバーを使った農法を完全に普及させた立役者だった。

 そして現在、彼は旧リシュリュー伯爵領においてもクローバーの農法を普及させる務めを負っている。


「この短期間でランツの自作農の半数を説得してくれただけでも、十分すぎるほどの成果だよ。ありがとう……クローバーの効果を目の当たりにすれば、残り半数の自作農たちもこの農法を取り入れてくれるはずだ。ランツで普及すれば、旧リシュリュー伯爵領の各地にも広まっていく。第一歩としては最上だと思うよ」


 ヴィルヘルムは笑みを浮かべ、フレドに語る。

 内政においてヴィルヘルムが重視していることのひとつが、農業生産力の増強だった。

 現状のフルーネフェルト伯爵領には、独自の農法という武器がある。今後は自身の支配域でこの農法を普及させていき、建国を成した暁には、農業を自国の基幹産業とするつもりでいた。

 前世と比べればまだまだ飢饉などが現実の脅威として存在するこの世界では、農業生産力は軍事力と並んで国力に直結する。より効率よく食料を生産できるようになれば、少ない農業人口で社会を支えられるようになり、余剰人口を軍事や工業に充てることで国力を高めることもできる。

 効率よく生産された大量の食料は、蓄えて飢饉や戦争への備えとすることができる。それでも余るようであれば、他国に売って外貨を稼ぐこともできる。

 フルーネフェルト伯爵領の全体にクローバーの農法を普及させることは、将来的に強国を築くための重要な第一歩。フレドのおかげで、叶う限り最も良いかたちで一歩を成すことができた。

 ヴィルヘルムとしては、いずれは農法をさらに発展させ、輪裁式農業を実現させたいと考えている。自身の知識が曖昧なこともあり、それにはより長い時間を要するが。


「ハルカもよくやってくれた。君が旧リシュリュー伯爵領の行政面の掌握を見事に果たして、フルーネフェルト伯爵領をひとつの貴族領として統括してくれているからこそ実現した結果だよ」

「いえいえ、私は自分の仕事をしてるだけですよぉ」


 領主の称賛に、ハルカはいつものように照れた笑顔で謙遜する。

 実際のところ、ハルカは素晴らしい、もとい凄まじい働きぶりを見せている。元より優秀な文官だったが、最近の有能さはずば抜けている。彼女は軍事を司るエルヴィンと並び、フルーネフェルト家の治世を支える両輪となっている。

 将来は宰相になるようヴィルヘルムが彼女に打診しているのは、何らの冗談ではない。

 彼女ならばきっと、一国の行政の統括さえ卒なくこなす。加えて、彼女は絶対に裏切らない臣下の一人であるという確信がヴィルヘルムにはある。

 なので、ヴィルヘルムは今後も、建国を成した後も、最側近の一人として彼女を重用する。


「焦らずとも成果は出てくるだろうから、今後も堅実に普及を進めてほしい。旧リシュリュー伯爵領民たちの反発が起こらないように」

「承知しました。では、次の報告に移らせていただきます。旧フルーネフェルト男爵領の冬麦の作付けについて――」


 その後も、ヴィルヘルムはハルカとフレドから農業に関する報告を受けていく。

 軍事だけではない。内政についても、フルーネフェルト伯爵領は順調に前進を続けている。ヴィルヘルムは領主として、そのことに満足していた。

 後は、冬の前に西の小貴族領群を征服し、冬の間にじっくりと掌握し、来年のさらなる躍進に向けて準備を成す。

 西への侵攻を成すために、まずは理由付けを行わなければならない。難癖をつけるようなかたちとなるのは少々心苦しいが、野望を実現する以上は仕方がない。来週にも策を実行に移すべき。


 そう考えていたヴィルヘルムだったが、いざ策を実行するよりも早く、西の小貴族領群の方が行動を起こしてきた。

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