ないものねだり
現状に満足することもたいせつ
眩しい。それに、草の色がとってもきれいだ。どんな太陽の当たり方をしたらこんなに綺麗に陰影が着くのだろう。
腰までに伸びた雑草は、意志を持っているようにそよそよと動いていて、捲りあげたシャツの袖から覗く素肌に擦れて少しくすぐったかった。一生懸命生きている植物に対して雑草という呼び名は彼女にとって気に食わないらしい。目の前を駆ける少女は、それはそれは嬉しそうだった。顔さえ見えないが、跳ねるバネのようなその声と、時々くるっとまわってまた駆けだす様子を見たら、喜んでいるのは明らかだ。演技かと疑うくらいのテンションを保ったまま、彼女は草花をかき分けて小川に出た。
「ねえ、不思議だと思わない?」
この、何とも明るい少女が言った。川沿いに出っ張った岩に座り、足で水をパシャパシャさせている。実はこれは三度目の試みだ。一回目はまだ水についてもいないのに悲鳴をあげながら足を引っ込め、二回目は親指を入れた途端「キャ!」と短く叫んだ。
「聞こえるでしょう!これ!」
蝉の声が辺りに響いていた。何も特別なことは無いし、不思議なことも無かった。しかし、彼女曰く、辺りに響く音こそが大事にすべきもので、今まで体験出来なかった青春を味わわせてくれるらしい。何とも素晴らしい。自分の学校の先生なら、「感性」の授業でA+をくれるだろう。もちろんそんな授業はないのだが。
青の絵の具で塗られたような空。なんとも綺麗だ。そんな空を静かに見上げて、彼女はまた口を開いた。
「私、初めてなの!全部!こんなに虫の音がうるさくて、というか、これってなんの虫?」
どうやら彼女は蝉のことも知らないようだ。いいところのお嬢様にも程がある。こんなにミンミン聞こえてくるのは、自分達がいる小川の反対側に立派な木が何本も生い茂っているからだ。その先は草原が広がっている。草原はかなり急な坂道になっていて、ダンボールなんかで滑るのに丁度よさそうだった。ダンボールも知らない彼女に言わせれば、「何それ、変なボールね」だそうだ。
夏の生暖かい風がビューっと拭いて、彼女の被っていた麦わら帽子が飛んでいきそうになった。彼女は漆黒のワンピースをひらひらせて帽子を捕まえた。伸ばされた腕の細いこと、同じ歳の女の子には到底見えなかった。
ふと、ためていた宿題を早く終わらせないといけないと思った。今年の夏は、かなりの量だった記憶がある。読書に、問題集に、芸術鑑賞なんかもあった気がする。そう、気がする。八月も終わりに近づいてきたというのに、何一つ手をつけていない。自分らしい、宿題放任主義スタイルだ。
「ねえ、貴方には『音』ってどういう風に聞こえる?」
どういう風にって。蝉の音は蝉の音だし、川が流れる音は川が流れる音にすぎない。人がすぐ側で怒鳴ればそれは煩いし、シャイな女の子が先生からの伝言を自分に伝えようとして、ごにょごにょ話せば、逆にもどかしくて少しイライラする。
「『歌』みたいに聞こえたりしない?私はそうよ!特に『風』なんて、『子守唄』とかいうやつみたいじゃない。よくお母さんが唄ってくれそうな。私はすごく好き!それでね、空を流れる雲からも音がするの。風みたいな音よ。とっても嬉しそうな音!」
考えたこともなかった。音に対して思考を巡らしたことなど、今の今まで一度もなかった。確かに、風が子守唄なのは納得出来る。昼寝をしている時に頬を撫でる心地いい風は、音がしなくとも眠りを促進してくれる無音の子守唄に成りうる。雲からも音がするというのはどうもしっくり来ないが。流れる雲から風の音がするなら、それは最早風じゃないか?
「悲しい音もあったわ。ほら!今!私が座ってる岩に水が当たるときよ。何かが尽きてしまう感じがする。阻まれてしまうような」
『麦わら帽子の感性ちゃん』の「悲しい音」は、自分が思うものとは違うようだった。雨の音や、人が泣いている声の方がよっぽど悲しい。悲劇的だ。岩にぶつかる水の音なんて、どっちかというと「嬉しい音」だと思う。爽やかだし、新鮮だ。個人的には、風鈴の音と扇風機の涼し気な音に並ぶ夏の風物詩だと思う。
「貴方の音は、難しいわね」
不思議ちゃんが言った。
「いろんな音が交じってると思うわ。私が経験したこと無いような音。本当に羨ましい」
彼女の目には、青色の涙が溜まっていた。「ごめんなさい、私ったら」と、少女は真っ白い手で涙を拭った。
ここは、こんなに綺麗な色で溢れているのに、音に固執するなんて、「鋭い感性ちゃん」にしては損しているな、と思った。近くに咲いている花なんて、うっとりするほど綺麗だ。茎の繊維までが洗礼されていて美しい。
「あなたはやっぱり『音』より『色』の方がいいのね」
彼女が言った。
「ねえ、本当に、私たち。」
恐れるような、期待するような、不思議な声だった。
「色ってまだまだ沢山あるのよ。この「灰色」の曇り空だって、晴れている時なら、夕方になればオレンジになるし、どっちにしても夜になったら黒くなるわ。小川の水だって、実際は透明よ!」
彼女は僕の腕を引っ張って、生い茂る木の裏へ連れ出した。またあの草原が見える。広大で、鮮やかで、綺麗な場所。
「いい?草の色は、緑だけじゃない。枯れてるところがあれば、黄色っぽくなるし、茶色がかったりもするの」
彼女は、少し必死そうだった。
「貴方が綺麗だと思ったこの花はね、『ヒヤシンス』って言うのよ。赤いヒヤシンス」
茎を折って、彼女は僕にヒヤシンスを握らせた。
「とってもいいでしょ?面白いでしょ?」
面白かった。魅力的だった。「ミス・感性」の言うことが、初めてまともに思えた。もっと知りたいと思った。空の色は青だけでは無いのか。この少しくすんだような色は灰色って言うんだ。僕は知らなかった。
「私、『色』には飽きたの。もっと『音』を知りたいのよ、ねえ。お願いよ。貴方だってそれを望んでいるでしょう?」
僕は分かっていた。今僕がいる場所は現実ではない、と。でも、心の何処でそれを否定し続けた。彼女は何も言わない僕に、ついにしびれを切らしたらしい。
「ずっとここにいればいいのよ。私はもう何も見えなくたっていいわ。三十年間もここに居たんですもの。音が聞こえて、自由に動けさえすればそれでいい」
僕だって、『音』にはもう飽きた。もっと『色』を知りたい。ずっとここにいれば、知らない色を知ることが出来る。例え、もう流れる水が岩に当たる音が聞こえなくても、夏の風物詩の風鈴の音が聞こえなくても、夏のはじまりを伝えてくれる蝉の声が聞こえなくても、人が悲しんでいる声や、喜んでいる声が聞こえなくても、
雲が流れる音が、聞こえなくても……
「あなたが一言、言ってくれればいいのよ。私はあなたに、あなたは私になるわ」
彼女は笑った。ぞっとするような笑みだった。
「もう充分生きたでしょ?」
僕は、口を開いた。
「やっぱり、戻るよ」
最後の顔を私は一生忘れないだろう。憎しみに満ちた瞳。これからずっと色の中に閉じ込められるという絶望。しかし、今や「彼」の顔は見えない。顔どころか、何も見えない。真っ暗だ。
うっすらと、全身に汗をかいていた。運動をする機会なんかもないから、私にとって珍しい経験だった。
「全く!どうして湊斗を美術館に連れて来たのよ」
「だって湊斗が来たいって言うからさ。宿題に芸術鑑賞があったんだと。雰囲気だけでも味わいたかったんだよきっと」
「芸術鑑賞なんて、音楽とかでもいいだろうに」
「それにしても、奏斗はほとんど宿題を残してる。点字の問題集なんか、一ページも手をつけてないぞ?」
杖を持っていた手が痺れてきていた。お母さんとお父さんの声と、ゆっくり動く人の足音がした。今手を掴んだのは、きっとお母さんの方だ。
「この絵が気に行ったの?湊斗、何か感じた?」
お母さんの声がした。
「別に」
私の声は、少しかすれていた。
今起きたことをお母さんに話すつもりはさらさら無かった。もちろん、お父さんにもだ。
「なんか、この絵は不気味ね」お母さんが言った。
「いったいどんな絵なの?」私が聞いた。
「だだっ広い草原の真ん中に男の子がたってるの。こっちを睨んでる。呪われそうだわ」
「へえ」
私は素っ気ない返事をしたが、心の中は、今までに経験したことのないくらい晴れ模様だった。
運命を受け入れることも必要なのかもね