第1幕「いつか、あなたと」
いつかワルツをあなたと
埃まみれでかび臭い一室。送電塔のように高いこの部屋は中心がぽっかり空いており、壁にはらせん階段がぐるりと渦を巻いていた。そのため、天井の見えない一階建て建造物と言っても過言ではないかもしれない。各階にも床があるが、面積は中央の穴よりも小さいため鳥やリスにとっての大木の枝のようなものだ。
そんな縦長の部屋の天井にある小さな窓からわずかに差し込む光が、まだ日は沈んでいないということを知るための唯一の手掛かりだ。当然、窓はしまっており、他に換気をしているように見えるものもない。
この、決して衛生的とは言えない一室の主人は一階の奥の方で無駄に大きいデスクに突っ伏し、ぶつぶつと唸り声とも聞こえる独り言を言っている。寝ているのか寝ていないのかは不明である。大きいデスクと言ってもその8割は論文と辞書の分勢が占拠している。仮に彼の寝相が悪かったらたちまち雪崩が起き、そこらじゅうで身を潜めている埃たちの暴動が始まるだろう。
そんな中、部屋の一角からはこの部屋に全く似合わない嬉々とした笑い声と共に、一機の紙飛行機が飛んできた。
6歳くらいのその少女は器用なことに、ボロボロの紙だというのによく飛ぶ一品を作り上げた。彼女自身もそれを自覚しているのか、サーカスでも見ているかのように興奮している。
彼女にとっては部屋が汚いこと、衛生的ではないことなんかは問題ではなかった。
重要なのは十分な広さがあるか、知らないものがたくさんあるか、好奇心を刺激するものがあるか、それらを好き勝手にして良いという自由があるかということである。加えて、彼女にはそれらすべてが与えられている。それを思う存分謳歌している。
「う、んぁ、寝てた、っぽいな」
寝ていたのか気を失っていたのか。とにもかくにも彼は少女の歓声に引っ張り出され、仕事の進捗を眠気眼で確認した。が、5秒もかからなかった。進捗はゼロだ。
昨日から、一昨日からといったレベルではない。2年前から進捗はゼロなんだ。それは彼の目を見れば素人でも容易にわかるだろう。医者が見れば、実年齢よりも10歳は上だと勘違いして薬を多めに処方してしまうだろう。
「あ、メルク!おはよう!」
メルク・リーダス。孤高の科学者。現在25歳。未婚。今日も失敗するであろう研究を始める前に、研究対象に挨拶を。
「おはようナトリ。素敵な飛行機だね、材料は何だい」
「あれ!」
ナトリと呼ばれた少女はボロボロの紙があったところを指さした。
「あー、あれか……」
そこには国中の科学者が全財産を投資してでも欲しがると言っても過言ではない歴史書や誰もが憧れる賞を獲得した際の賞状なんかが溜まった洗濯物のようにかさばっていた。恐らく彼女が今飛ばしているのも博物館とかに飾るようなものだろう。
まぁ、幼い彼女には新聞紙と区別がつかないだろう。床に放っておいたメルクが悪い。
そもそもメルクにとっては、床に放っておこうと、踏まれようと、誤ってゴミに出されようと、紙飛行機にされようと関係ない。欲しくて手に入れたものでもない。とにかく、今行っている研究にだけ集中したい。彼にそう思わせるほど、ナトリ・アンバーという少女は難題で、難解で、難儀な研究対象だった。
「ナトリ」
メルクは腰を下ろし、彼女と目線の高さを合わせ、そっと言った。
「もう少しで、空を飛べるようになるからね」
「うん、早くメルクと一緒に飛びたい!」
そう言って、彼女は華奢な腕をパタパタと上下に振ってみせた。
そう、彼女の背中にはそこにあるはずの翼が生えていないのだ。
二年前のことだった。その日は雨が降っていた。天気予報を見忘れたから雨具は一切持ってこなかった。家を出るときは降るような感じはなかったんだが。
そんなことを今更考えたって仕方がないと、メルクは駆け足で家に帰っていた。手には買ったばかりの研究道具が紙袋に密集していた。ほとんどがガラス製のため大丈夫ではあるが、なるべく買ったものが濡れないように前屈みで走った。
しかし、引きこもり研究者のメルクに持久力なんてものはほとんど残っていなかった。ただでさえ研究室から出てこないうえに、移動手段はほとんど翼。当然走力は衰えるはずだ。普通の人間なら定期的にトレーニングするし、学園側もそれを定期的に促してはいる。つまり、身から出た錆である。
息を切らしながら路地裏に入り、小さな屋根のあるところで雨宿りをすることにした。雨脚も強まり、ちょうどよかったのかもしれない。
空を見上げると、文字通り果てしなく空に向かってそびえたつ無数の建物が並んでいた。
そんな無機物たちに見下ろされているからか、メルクは少しこちら側の暗さに不気味さを感じていた。滅多に来ないうえに土砂降り。無理もないだろう。
「さっさと止んでくれたらいいんだけどな」
叶いそうもない独り言をつぶやき、長時間待つかずぶぬれで帰宅するかという楽しさのかけらもない葛藤をしていた。
そんな時、奥の方から小さな物音が聞こえた。ネズミとかならまだマシだ。とっても苦手だが、頑張れば追い払える。ただ、それがネズミではなく怪異的なものだと非常に困る。科学者であるメルクは基本的には怪異的なものは信じないが、こんな薄暗い場所で不気味な物音が聞こえたら、信じる信じない関係なく変な想像をしてしまうだろう。非科学的なものと言われているものの多くは単に現在の化学の力では証明できないため、勝手にそういわれているわけだし。
メルクはできる限り物音を立てずにゆっくりと左の腰に携えている拳銃に手を添えた。
奇妙な音は徐々に大きくなっている。何かがこちらに近づいているのがわかる。
ペチ…ペチ…ペチ…と、恐らく水たまりを踏んだのだろう。ということは、人なのだろうか。
そしてついにそれはメルクが視認できるまでの位置にやってきた。何かしらの建物の、裏口の小さな屋根から下がった切れかけのランタンがその姿を照らしたとき、メルクは戦慄した。ショックで落とした研究道具や拳銃のことなんか気にもならなかった。
その少女がボロボロだったからではなく、翼を持っていなかったからだ。
正面からだと見えないほどに小さいものなのかと思ったが、その予想は次の一言で砕け散った。
「それ、なに?」
彼女はメルクの小指よりも小さな人差し指で彼の翼を指して言った。
そこからのことはよく覚えていない。ただ、彼女を保護するべきだと本能的にそう思い、動いたんだと思う。衰弱しきった少女を抱きかかえ、豪雨の中走った。
道中、頭の中はぐちゃぐちゃで自分がどこに向かっているのかも分からなくなるほどだった。雨粒が激しくぶつかる音、水たまりを踏み潰す音、荒い呼吸、心臓の鼓動などは果たして聞こえていたのだろうか。
とにかく、この子の弱った体を温めて、それから栄養のある食事を与えて、それから……。それから……?
分からなかった。今まで、分からないことは勉強したことをもとに解決してきた。でも、この世界に一人でもいるだろうか。翼の生えていない少女の助け方を教わったことのある人間が。
とりあえず、自宅にある資料をいちから読み漁ることから始めるべきなのか。幸い、彼の一族もまた研究者ぞろいのため何かヒントになる文書があるかもしれない。
だが、そんなものは当然なかった。
名前のない少女にナトリ・アンバーという名前を与えてからの進捗はゼロ。
翼がないという現象。一切、前例がない。
かといって、我々との違いは翼の有無以外見当たらない。
つまりどういうことか。
彼女の存在が公になると、数多くの研究者が血眼になって好き勝手する。もしくは過激派が淘汰しようとするかのどちらかだろう。
だからメルクは一人でナトリの翼を作る方法をずっと考え続けてきた。しかし、彼の努力は笑ってしまうほどに実らなかった。こんなにうまくいかないのは正直初めてのことだ。
彼は二年前と比べ、体重は減り、目の隈は増え、不健康そのものとなった。こんな不健康な男が成長期真っただ中の少女を育てることなんてできるはずがない。
「くははは、相変わらずってとこだな」
びっしりとしたスーツ姿の男が豪快に笑いながら、古びれた部屋に入ってきた。
少し茶色がかった生地は大人の色気を引き立て、真っ黒な翼は彼の逞しさを強調していちゃ。また、顎に生えた髭からはどことなく貫録を感じる。たとえ実年齢が高かったとしても、明らかに同年代のものよりも若々しいはずだ。
黙っていたら周りからはマフィアの幹部なんかと勘違いされるのではないだろうか。
しかしそんなことはなく、彼は部屋で遊ぶナトリに話しかけた。
「はーらナトリ、お昼ご飯を買ってきたぞー」
男は満面の笑みで焼き立てのパンを取り出した。ナトリも笑いながら駆け寄ってきた。
「パンだ!パン!」
「今日はサンドイッチを作ろうか。手伝ってくれるかい?」
相変わらず子供の扱いに慣れている。メルクにはできそうにない。
「メルク、BLTで構わんな」
「あぁ、でもキュウリは少なめで頼む」
徹夜常習犯ならわかるのではないだろうか。寝不足が続くとキュウリの味のない食感だけが脳に直接伝わるような感覚。
あれは健康な時に食べるものだと思っている。
「わかっているさ」
そう言って、気さくな紳士、リーズ・アンバーはナトリを抱えキッチンに向かった。
リーズはメルクの古くからの知り合いで、年はかなり離れているが関係としては友人という言葉が最もよく似合う。親族がいないメルクが唯一頼れる人物だ。
だから二年前のあの夜も、彼になら相談しても大丈夫だろうと思い連絡をとった。それこそ、縋るような思いで。
初めてその少女を見たとき、さすがの楽観主義者も驚きを隠せずにいた。
しかし、そこは大人というべきか、一言。
「このお嬢ちゃんの…名前を決めなければな」
そう言って、彼の一族のアンバーの名前を与えた。
「お前さんの名前を与えるといろいろ面倒なことになるだろう。私の姪ってことにすればいいさ」
緊張した空気を和ませながら、生活するうえで必要なことをしっかりと決めていく。
そのときにようやく、メルクは落ち着いて深呼吸をすることができた。
「メルク、できた!」
ナトリが運んできたお皿にはBLTサンドのほかにブルーベリージャムの甘いやつがいくつかのせてあった。具材がはみ出ているものと綺麗に整っているものがあった。見ると、彼女の指には少しばかりジャムが付いたままだった。
「お、上手じゃないか。少し待っててくれ、軽く片付けるから」
折角ナトリが頑張って作ったんだ。食事の環境くらいは整えなくては。
そう思い、メルクは天井の窓を開けようと、飛んだ。
およそ20メートル弱、彼の大きな翼をもってすれば大した高さではない。
そして、久しく開けていなかった窓を開けた。
途端、新鮮な空気が出番を待ちきれなかったと言わんばかりに部屋に押し寄せてきた。当然書類やら埃やらが舞う。先ほどの飛翔の衝撃ですでに舞っていたものも多い。
差し込む光が、メルクがいかに部屋の掃除を怠っていたのかを明確にしている。
「やっちゃった………」
彼の善意は裏目に出た。一度に二つの失敗を犯してしまったのだ。
こうなるのだったら、ナトリが来る前にあらかじめ開けとくべきだった。いや、そもそも常日頃から部屋の掃除をしておくべきだった。
せめて降りるときはなるべく埃を立てないようにゆっくりと羽ばたいた。
「す、すまない、ナトリ…。埃、吸ってないか…?」
メルクはおびえたように彼女に近寄った。サンドイッチは幸いなことに無傷だったからよかったものの、寝不足な頭を使って行動する際は本当に慎重にならなければならない。
ナトリはというと、気にしている様子ではなかった。それはなぜか。
「かっ…こいい……」
彼女の憧れが光に照らされている最高の光景を目にしていたからである。
「くははは、良かったなぁナトリ、メルクの大きな翼が見られて」
「うん、リーズの翼も好きだけどメルクの翼はもっと好き!」
ナトリは感動を分かち合うようにリーズに語った。
リーズは放心状態のメルクのそばに来て肩をぽんぽんと叩いた。そして、ナトリに聞こえない程度の小さい声で囁いた。
「うっかりしていたのは分かる。当然わざとでないこともな。だが、注意しなければならないことは確かだ。一旦顔を洗ってこい、その間にコーヒーでも淹れといてやる」
いつもの豪快で朗らかな声でなく、低く芯のある声でそう言った。
「あぁ、すまない…」
ナトリはまだ幼い。だからこそ、翼を使っているところを見たら、興奮する。しかし同時に、より一層翼への憧れは自身を苦しめることになる。ないものは欲しくなるものだ。
少女の努力でどうにかなるレベルではない。だからリーズとメルクは彼女の前では極力使わないように決めたのだ。
「さぁお嬢様。こちらは食事をするにはよろしくなさそうだ。二階まで運びましょうか」
そう言ってリーズはナトリを連れて螺旋階段をのぼった。
メルクは言われた通り、顔を洗いに洗面台へと向かった。
その後の食事は明るく楽しいものだった。
ブルーベリージャムのサンドイッチはナトリが彼のために作ったものだったようで、糖分が体に染み渡った。
空腹を満たし、またいつものように研究を再開しようとした。ナトリは二階でリーズから勉強を教わっている。
研究の続きと言っても課題は山積み。そもそも我々人類はまだ、自身の背中にあるこの翼について何もと言っていいほどわかっていないのだ。
同じように翼を持ち、空を飛ぶ生物がいる。鳥だ。
哺乳類、鳥類、魚類、爬虫類、両声類には共通の祖先から受け継いだと考えられている相同器官というものがある。クジラの胸鰭はコウモリの翼と似ており、同時にカエルやワニの前足にも当てはまる。
では、それを応用すればよいのではないかと思うが、鳥類の翼はヒトで言うところの腕に相当する。そのため、我々の翼が他の動物のどの器官に相当するのかというところには様々な論争が繰り広げられている。
中には人類の叡智の証拠、他の生物に勝る勲章だと唱える者たちもいる。政府の過激派なんかがそうだ。正直、面倒くさい。
こんな中、翼が二対ある鳥が発見されたのなら我々の直径の祖先である可能性がかなり期待できるというわけだが、今のところそんな天変地異級のニュースは流れてきていない。
一方こちらの天変地異は3の段の掛け算を覚えている。
この翼についてさらに厄介なことがある。義手や義足のように義翼が作れないのだ。
なぜか。答えは単純。
またしても前例がないのだ。
これまでどの文献、論文、歴史書、参考書、新聞を読んでも、「翼を失った」「動けなくなった」「使えなくなった」というような話が見つからなかった。
試しにメルクも二年前に、自身の翼に大きな鉈を振りかざしてみた。
研究がうまくいかないことからの自暴自棄、自傷行為の一種、数日連続徹夜したことによる思考回路のバグ。それらが積もり積もってやってしまった。(どうか、マネしなきよう)
しかし、それは偶然にも良いデータとなった。
傷どころか痛みすら感じなかった。
あまりの衝撃に、重々しかった瞼が一気に開いた。それと同時に義翼が作れないことを理解した。
失った者がいないのなら、当然翼がどの神経に繋がっているのかなど研究しようとする者もいないわけだ。ただ、手段は限られている。
いや、待てよ……。
「リーズ」
「んぁ、なんだ?」
リーズは掛け算の授業を一旦中止にし、メルクのそばに移動する。
「あんたの知り合いに、牧師や僧侶はいないか」
その一言でリーズはすべてを理解した。
「やめておけ、お前さん資格持ってないだろう。法に触れるぞ」
顔は緩んでいて、笑顔と言ってもいい。だが、その声色は違った。
「そもそもお前さん、葬式に出たことはあるか?」
「両親のになら」
「そうか」
咳払い。
「この国では、火葬が主流だ。そして追い打ちをかけるようで申し訳ないが、我々のこの翼は死すると、削れる」
「削れる……?」
「そう言われている。誰も棺桶の中の観察なんてできないからな。ただ、その箱を開いてみると、ないんだよ。ある牧師がある遺体から鱗のようなものを見つけて、それが翼だったものだと言われている。だから、削れるという表現が使われているんだよ」
リーズは机の上にあるメルクの飲み残しのコーヒーを啜る。
「いや、なら疑問点がある。この翼は炎に弱いということなら、火事の被害者はどうやって生活するんだ」
流石、優秀な科学者様だ。火事を知っているのか、と言いリーズの解説が続いた。
「今の時代、火事を知らずにこの世を去る者がいても何ら不思議はないほど防火設備などが完備されている。ただ、お前さんが生まれる前までは火事ってのは頻繁に起きていた。それでも被害者たちの翼だけは無事だったんだよ、不思議なことにね。中には自身の翼で身を覆って無傷で生還した者もいるほどだ。が、これが言えるのは生者だけだ。逃げ切れなかった者からは翼が見つからなかった。言いたいことは分かるか?」
「つまり、翼ってのは生きている限り無敵。死と同時にその構造は崩壊する、ということか」
ご明察と言って、コーヒーを飲み切った。
この世の真理と言ってもいいような課題に手を出したことを少し後悔した。
「何かヒントはないのか」
「くはは、何千万年も前に、とある少年が蝋で固めた翼で大空を飛翔したらしいぞ」
「それは神話だろうが!」
リーズはいつものように豪快に笑いながらナトリの元へ戻った。
そこからメルクは、長時間文献調査と計算を繰り返した。
コバンザメのように空を飛ぶメルクにぶら下がる案。体に取り付け、そこから空気を噴射して飛ぶ案。靴底に強力なバネを取り付け飛ぶ、というよりは跳ぶ案。
いろいろ考えてはみたものの、不自然でああったり派手であったりと様々な理由で実現できそうにない。
そんな夢も希望もない思考をただ延々と続けている。
ガリガリとペン先の金属が削れそうになる音がやたらと大きく響き渡る。紙とインクの無駄であるのは間違いないのだが、そうせずにはいられない。
「本当、一体何から始めればいいんだよ…」
例えるなら今彼がおかれている状況は、上下左右が分からない水中で息継ぎをするために水面を探そうとするが、結局自分がどこに泳いでいるのか分からずにもがき苦しんでいるようなものなのだろう。
泳いでいるが止まっているかもしれない。それどころか、深く潜っているのかもしれない。
ただ、息はそう長く続かない。
せめて、光が差し込んでくれたらそこが水面だとわかるのに。
「メルク、見て!」
頭を抱えた彼のもとに、ナトリが駆け寄ってきた。手には一枚の紙が握られている。
「大したものだよ、5の段までは完璧だ。褒めてやれ、メルク」
その紙を見ると5の段までの掛け算の問題が20問以上並んであった。どうやらリーズが適当に選んで出してくれたみたいだ。
最後の1問は6×4と、6の段の計算に分類されるがしっかりと24と回答されている。
リーズもなかなかいい教え方をする。
「すごいな、ナトリ。頑張ったね」
メルクはそっとナトリの頭を撫でた。
実際の彼女の年齢は分からないが、仮に6歳としてここまでできるのは素直にすごいと言っていいと思う。そもそも、拾ったときは読み書きも当然できなかったのだから、当時からすればかなりの成長を遂げたと言える。
メルクはそれが嬉しかった。
まだ20代前半で独身だが、父親の感覚っていうのはこんな感じなんだろうと思った。
「リーズも、助かってる」
「何をいまさら改まって。私も子供がいないからな、楽しくて仕方ないよ。それに、この子は純粋に理解力が十分に発達している。ひょっとしたら、今後の成長次第ではお前さんといい勝負になるかもしれないぞ」
親ばかにも聞こえるその言葉は案外、本当なのかもしれないと。そう思ってしまうメルクも親バカなのかもしれない。
「そうだな、そのためにも……」
そのためにも、彼女に翼を与えてあげなければならない。
言わずとも二人にはそれがわかっていた。
少しだけ、ナトリの頭をなでる手に力がこもった気がした。
「メルク…、リーズ…、あのさ」
おどおどと、恥ずかしがりながらナトリは二人に向かって口を開いた。
「どうした、ナトリ」
「わたし、頑張った?」
「当然だとも、こんなにも頑張ったんだ、胸を張っていいぞ」
「じゃ、じゃあさ……。ご褒美、欲しいな」
ご褒美。
この年の少女ならもっと堂々と、はっきりと頂戴と言ってもいいだろう。
だが、彼女はこの年で自分の状態を頭のどこかで理解しているのかもしれない。恥ずかしがりながら、遠慮しながら、申し訳なさそうにそう言った。
そして、メルクもリーズもそのご褒美の内容を分かっていた。
「確かに、もう随分外出していないな。ごめんなナトリ、気づけなくって」
「あぁ、私も失念していた。たまには出かけなくてはな」
彼女の勇気ある一言がなかったらきっと二人は忘れたままだったかもしれない。
結局のところ、二人は育児のド素人なんだ。そこは変わらない。
「じゃあ、次に雨が降ったときにでも出かけようか。それでもいいかい、ナトリ?」
ナトリが外出するためには、雨が降らなければならない。
雨が降れば空を飛ぶものどころか外に出るもの自体少なくなる。それにレインコートを着れば翼の有無も気にならなくなる。だからこんな時にしか出られないのだ。
「うん、楽しみ!早く雨降らないかな。ね、リーズ!」
「くは、そうだな。予報では今日の夕方にも降るみたいだからな、期待しておこう」
この純粋な目で、雨を楽しみにしている少女を見て、メルクはいたたまれない気持ちになった。
本当なら、晴天と共にはしゃぎ、曇天と共に落ち込む。そんな無邪気な少女であるはずなのだろう。
この笑顔が、彼の無力さを刺激するんだ。
それから3時間が経った。
リーズの言った通り、雨が降った。
土砂降りとまではいかない程よい雨。辺りはいっぺんに暗くなり、出かけるにはもってこいだろう。
「くはははは、では出かけるとしよう。帰りにディナーの材料も買うとしようか」
意気揚々とリーズは出かける準備をし始めた。
ナトリもクローゼットから彼女のレインコートと小さい傘をとってきた。
「お前さんも早いところ準備をしろ、おいていくぞ」
リーズにせかされ、メルクも玄関に急いだ。
第一幕 閉幕