第4章
1
「…………ふぅ」
講堂の地下のトイレの中、文夏はため息をついた。
ここは教室から遠く、滅多に人がこない。
――堕ろすのかなぁ……
先ほどのマユミの言葉が頭の中をリフレインしていく。
息が苦しくなって、いやな汗が身体からわきだしてくる。
(まだ、うちはあの頃のままなんやな……)
文夏の脳裏にあの日の記憶が蘇ってきた。
*** *** ***
――うちなぁ、学校の近くに池あるやろ?
文夏は鼻の穴をふくらましてそう言った。
――あの池の蓮の花から生まれてん!
自慢げに話す文夏には、気づかなかった。
周りのクラスメイトが、しらけた目で彼女を見ていることを。
確かあれは、小学校4年生だったと思う。
担任の先生から、自分が生まれたころのはなしをお母さんに聞いてきなさいと言われたのだった。
家に帰った文夏は、店の方に走っていった。
――なぁ、ママ! こんな宿題が出てん。あの話、してええ!?
鼻息も荒く、凛子に学校からもらってきたプリントを見せる。
――あ、あんた、ちょっと待ちなさい……なに言うつもりや?
――きまってるやん、うち、あの池の蓮の花から生まれたんやろ?
文夏の言葉に、凛子の顔色はみるみる青くなっていく。
――あほか! そんなん、言うたらあかん。
思わず強い口調になる凛子に、文夏はふくれっ面で抗議した。
――あほってなんや。ママがそう言うたやんか。ママのあほ!
文夏の言葉に、凛子は息を呑んだ。何かを言おうとするまえに、文夏はドタドタと自分の部屋に戻ってしまった。
乱暴に閉められる子ども部屋のドアの音に、凛子は頭を抱えた。
そして、数日後――。
「おかえりなさい。……文夏?」
いつになく静かに帰ってきた文夏に、凛子は声をかけた。
お気に入りの黄緑色のスカートは、泥に汚れてよれよれになっている。今朝、凛子に結んでもらった編み込みは無残にぐしゃぐしゃになっていて、
「あ、あんた、それ、どないしたん?」と、凛子は息を呑んだ。
文夏は問いに答えず、俯いたまま凛子の前を横切った。
自分の部屋に戻って、ベッドの上にうずくまると、我慢していたものが一気に溢れ出してきた。
「うちは……うちは、化けもんやない……」
ボロボロと熱い涙が流れては、布団にしみ込んでいく。
2
「文夏! いる!? いるんだったら返事して!」
切羽詰まったような声に、ゆるゆると頭を上げた。
マユミの声だ。
「マユミ……?」
トイレの中から声をかけると、
「大丈夫?」
マユミがドアに近寄って、小声で囁いた。
「ん……多分……」
曖昧な返事を返して、心配かけてゴメンな、と謝ると、
「保健室、行くか?」と、マユミが尋ねる。
マユミの言葉に慌てて、
「だ、大丈夫だから! それは」
そう言ってトイレから出た。
文夏の様子に心配そうな表情を浮かべて、
「そう、だったらいいんやけど……」と、マユミは文夏に寄り添って、背中をさする。
(マユミ……お母さんみたいやな)
気恥ずかしいような、くすぐったいような気分になって、文夏はちょっと微笑んだ。
なおも心配げに背中をさすってくれるマユミの気遣いに、
(そういや、うち、小学校ん時の話、なんも言うてへん)
チクリと心が痛んだ。
教室に戻ると、大澤先生の授業中だった。迷惑にならないように、文夏は自分の席に着く。
「先生、連れてきたで。保健室行かんで大丈夫やって」
マユミが先生にそう言うと、先生はそうか、と答え、授業を再開した。