序章
1
図書館のテラスへ出ると、風が吹いてきた。
「うわぁ、いい風」そう呟いて、文夏は目を細める。
テラスのすぐそばは池になっている。ふと、文夏の目に鮮やかなピンク色が飛び込んできた。
蓮の花が、咲きはじめている。
文夏は顔を輝かせて、池のそばまで近づいた。借りた本でも読もうと思っていたが、もうそれどころじゃなかった。
(……もう、そんな時期なんや……)
風にそよぐ蓮の花を見つめながら、文夏はそんな風に思う。
先週の日曜日に来た時は、まだ咲いてはいなかった。高校に行っている一週間のうちに、咲いたのだろう。
ふと遠くを見やると、池の向こう側の桟橋に誰かが立っているのが見えた。どうやら女の人のようだ。
(あの人も、蓮の花見てるんかな?)そう思うと、心の底から親しみがわいてくる。
その時、女の人がふらりとくずおれた。
「うそやんっ!?」
文夏は一声叫んで、かけ出した。まるで発射された弾丸のように図書館から飛び出して、女の人がいた桟橋に向かう。容赦のない七月の太陽が、文夏の身体をじりじりとやいていく。
桟橋にたどり着いた文夏の目に、倒れた女の人が飛び込んできた。荒い息を整えることもせず、女の人の下へかけ寄る。ぎぎっと桟橋が音をたてて傾いだ。
「ちょっと、大丈夫ですか!? しっかりして!」
文夏はしゃがみ込んで、女の人の様子をうかがった。ちらっと文夏のほうを見て、
「ごめんなさい……急に目まいがして……」と、言った。
(熱中症……やろうか)
取りあえず女の人を、屋根のあるところに運ばなくては、一刻も早く。小柄な文夏では、彼女を持ちあげることすらできそうになかった。気ばかりが焦る。
こんな時に限って、携帯電話も家に置いてきてしまった。
(……家。カフェ・メリーテイル。マスターがいる!)
頭の中に浮かんだあるひらめきを、文夏はすぐに実行に移した。
2
仁科 和十は、食器をみがいていた。
「……暇やな」
ぼそっと呟いた声に、テーブルを拭いていた凛子が顔を上げた。
「しかたないよ、こんな暑いのにわざわざ外出して、お茶飲みに来る人あんまりおらんもん」
なぐさめるように言う凛子の言葉に和十はがっくり肩をおとして、
「凛ちゃん、それ、なぐさめにならん」と、言った。凛子は茶目っ気のあるしぐさで、口を押さえる。
ここはカフェ・メリーテイル。小さなブックカフェである。自慢は、和十が入れる紅茶と、凛子お手製のケーキ。そして、店の奥に作られたブックコーナー。本棚には、もう一人の店員の集めた、絵本や児童文学の数々が置かれていた。
不意に乱暴にドアが開いた。がらんがらんと、ドアについたベルが激しく鳴る。
「なんやビックリした、文夏か……もうちょっと静かに入ってきなさいよ」凛子は一人娘の姿を認め、少し咎めるように言った。
文夏は開いたドアにもたれかかり、荒い息を整えてから叫んだ。
「大変やねん、池で人が倒れとる!」