天啓ある組み直し
これは、とある人から聞いた物語。
その語り部と、内容についての記録の一編。
あなたもともに、この場に居合わせて、耳を傾けているかのように読んでいただければ、幸いである。
よう、つぶらや。やっと復帰してきたか。
さすがにインフルだと、外に出られないから、だいぶ暇していたんじゃないか? いいネタは練れたかよ?
ここのところ冬だけでなく、夏場も流行するインフルが姿を現しているそうだぜ。世界じゃ毎年、数十万人の人がインフルで亡くなっているんだとよ。殺人者って本当に身体の大きさを問わないな。
だが考えてみると、この大きさを問わないというのは、世界レベルで見ても重要な事実じゃないか? 雨だれ石をうがつという言葉があるように、一滴一滴をクローズアップしたら、ほとんど無のように思えても、きちんと役目を果たしているわけだ。
不謹慎だが人間だって、この小さい図体がわらわら群がって、地球という星に大きなダメージを与えている。地球全体で見たら、恐ろしく短い時間ではあるがな。
結果が出ない不平不満はどこでも耳にする。枕詞の「俺、私の手で」というのが省かれたもんがな。
誰だって石をうがつ、その瞬間の戦力になりてえと思うもんさ。本当は数えきれねえほどの、「お膳立て」の一つに過ぎないかも、などと信じたくはねえ。
特別な存在でありたい。これも世にいう「中二病」とやらの一種か? 物書きさんよ。
だとしたら、この話も持っていきな。歴史の影へと葬られた、穴を開けたかも知れねえ「雨だれ」の一つをよ。
今から200年近く前になる、明治初期のころ。
現在の消防団の前身にあたる、消防組が姿を現し始めた。こいつは警察機関の一部に組み込まれた団体もあれば、私設で用意されることもあったという。予算が十分に割かれた組では、海外から輸入した腕用ポンプや蒸気ポンプによる、消火の効率化が図られたが、地域では今だ、家屋の破壊による延焼予防をこそ、消防と見なしていたところもあったらしい。
そして壊す現場で活躍するのが、建設業務に精通した、高所で作業をする職人。「鳶職」だ。今でも消防の出初め式ではしご乗りの演技がされるのも、かつて火消として活躍した鳶職への、リスペクトらしい。
そうなると鳶職の中にも、いくつかのノウハウや奥義が生まれ、息づいていったとのことだ。紹介するのは、そのうちのひとつ。
その老人は長年、鳶職として働いていた、後進の育成が済んだ50半ば。仕事中に足を踏み外し、高所より落下。何日も生死の境をさまよったが、奇跡的な生還を果たした。そして、大工仕事より身を引くことを宣言したんだ。
しかし、働くこと自体を止めたわけではなかった。彼が次に志したのは医療だったという。
正直、医療の携わる者からしたら「なめるな、ジジイ」という気持ちでいっぱいだったらしい。先の死に瀕する体験をきっかけに、他の者も死から遠ざけたくなったと、言葉面だけなら美談に聞こえる。
しかし、彼はすでに老体。今から学ぶにしては、あまりに時間がかかり過ぎる。下手な診察をして被害を出されてはことだし、使い物になる前に自分がおっちぬ可能性さえあった。
周囲からの懇願もあって、彼は結局、マッサージを専門とする「按摩」になったとのこと。その勉強についても楽なものではなかったが、薬を調合させるよりはよっぽどましと判断されたらしい。
店は持たず、按摩であることを示す小笛を持ちながら各地を巡る彼だが、その手技を受けた者に、強い印象を残すことになった。
まず彼は、マッサージを始める前にお香を焚く。ただ、その香りというのが嗅ぎ慣れない匂いをしている。伽羅に似ていたが、決して混じり合わず、自分の存在を主張する硫黄の臭いが混じっている。
次に彼は、布団の上に寝転がったお客に対し、前職時代に使っていたものと同じ形の、小さな木づちを持って、その身体中を柔らかくなでたり、優しくぽんぽんと叩いたりした。彼曰く、診察の一環なのだという。
最後に彼は自らの手で持って、先ほど木づちで診たところを、同じようになでたり叩いたりする。それは一部分だけの時もあるし、全身をくまなく行う時もあった。
ただお客に共通しているのが、断続的に――一回、一回はまばたきのような短さとはいえ――意識を失っているような気がする、と話すのだ。しかし、それらが済むと、体内の不調はすっかり治っていたとのことだ。
「木組みと同じだ。はためにはシンプルに見えるが、中は門外漢が舌を巻くほどに、精緻な継ぎ方をされているもんさ。体も同じだ。継ぎ目を見て、足りないものを補い、壊れているものを直し、阻むものは壊せばいいんだ。環境すら整えて」
老人はそう語っていた。従来の按摩のスタイルに囚われない彼の姿だが、おおっぴらに語られることは、当時許されなかったという。伝統的な技術の歴史が、ぽっと出の素人上がりの技術に劣るなどと、思われてはならなかったからだ。
彼はお金を求めず、そして追われることをよしとせず、本来の自分を捨てて、ただの按摩として人々の治療にあたっていたらしいが、やがて本格的に彼の存在を許さぬ事件が起こった。
初めて彼の按摩を受けたのは、当時ニ十歳前半の女性だったが、十数年後。夫と二人の子供を残して、世を去ることになる。彼女が特に手技を受けたのは右腕全体で、さすられるたびに、じんわりとした暖かみが湧いて全身に広がり、溜まった疲れがすっかり取れた、と話していたのを、覚えている人がいた。
しかし、亡くなる半年前から、彼女は右腕の異状を訴え始めたという。夜中になると急に熱を持ったり、けいれんを起こしたりすることが多くなったとか。あらゆる医者に診てもらったものの、成果をあげられたことはなかった。
彼女は治療を施してくれた彼の行方を探そうとしたが、先に述べたように彼の話題は、すでにタブー化が進んでおり、情報は得られずじまい。そして今、彼女は自分の寝床で息を引き取っていることが確認されたんだ。
右腕に関しては、一見、外傷の類はなかったものの、許可のもとに検死を行ったところ、立ち会ったものは顔をしかめた。
筋繊維一本一本が複雑にねじれて、骨に絡みついていた。骨は骨でひびが何ヶ所か入っていたが、外してみると中には木組みもかくやという、精緻な継ぎ目が姿を現した。
どうやってこのようなつなぎ方になったか見当もつかない。まともに動かせる状態ではなかったはずだ、との結論がくだされたそうだ。
だが家族によると、彼女が亡くなる前日までは、重いものを持ち上げることができていた。そのようなことは信じられないと、言わんばかりだったという。
彼に対する追及は、いっそう厳しいものとなった。
かつて診察を受けた者を洗ってみたところ、すでに半数以上がこの世を去っていること。生き残った者には秘かに監視がつけられたが、なんの前触れもなく、ある日突然、息を引き取ってしまうこと。許可を得て検死に臨むと、彼から重点的にマッサージを受けた箇所の臓器や筋繊維といったものが、直前まで活動できていたなど、あり得ない歪み方をしていたことなどが分かった。
彼については、各地に捕り手が放たれたらしいけど、十数年経っても足取りを掴むことはできず、戦争の気運が高まってきたこともあって、捜査は打ち切られることになったらしい。
そして太平洋戦争を終えるまでの数十年の間にも、同じように納得のつかない奇妙な死を遂げるものが、少数ながら現れた。彼らは余さず流しの按摩による手技を受けていたらしいんだ。
彼の登場から実に80年近い時が流れていたが、その技は絶えていなかったんだな。
戦後。日本にやって来たGHQは、按摩を非科学的な技として全面的に禁止しようとした。ある意味で、「彼」を全面的に封ずる手にはなり得たが、按摩を生業としている者はすでに大勢いて、猛抗議が行われる。
結果、按摩というマッサージ業は、免許が必要という法律が作られた。公には「彼」の技が入り込む余地がなくなったわけ。
だが、一部の人は、彼が建築と人体の共通点を見つけた傑物だと考えていて、その遺した技と成果を受け継ごうとする者が今でもいるらしい、というもっぱらの言い伝えなのさ。