最終話 坂戸南駅北口商店街 大切なあなたのために ④
◇◇
市長との面会を終えた帰り道。
どんよりとした曇り空のもと、私とお兄ちゃんは商店街のサブストリートに立ち寄った。
錆びたアーケードをくぐると、ずらりと並んでいるのは灰色のシャッターの列。
曜日どころか時間の感覚すら忘れさせるほどに、しめっぽい静寂が支配している。
十年前。私がまだお兄ちゃんに手をつながれてここを通った時は、すくなくとも今よりは『彩り』があったと記憶している。
しかし今は……。
「なあ、サトばあちゃんのコロッケ。食べていかないか?」
ふと、お兄ちゃんの声が鼓膜を震わせる。
感傷にひたったまま私は、コクリとうなずいた。
サトおばあちゃんは、このサブストリートでお総菜屋さんを営んでいる。
先代であるおばあちゃんの亡き夫が創業してからおよそ六〇年。
ほぼ休みなく、煮物や焼き物など、おふくろの味を毎日店頭に並べてきた。
そのサトおばあちゃんも、今年で八五歳。
今や並んでいるお総菜は三品程度となってしまったが、『野菜コロッケ』だけは六〇年、一日とて欠かすことなく出し続けているらしい。
灰色のコンクリートの商店街の中を歩いていくと、ポツンと橙色の明かりが道を照らしているのが見える。サトおばあちゃんのお店だ。
ここに来るのは、およそ三年ぶり。おばあちゃんは私のことを覚えていてくれているかしら?
私は近くに自転車を止めると、たったと店頭へ駆けていった。
そして、重々しい空気を振り払うように元気な声をあげた。
「おばあちゃん! こんにちは!!」
うつらうつらしていたのだろうか。
総菜が並ぶカウンターの奥で静かに座っていたおばあちゃんは、ぱっと顔を上げると、目を丸くした。
「おやまあ、若葉ちゃんかね? それに吾朗くんも。久しぶりだねぇ」
私たちのことをちゃんと覚えてくれてたのが、嬉しくて私は満面の笑顔になる。
すると私の隣までやってきたお兄ちゃんが、おばあちゃんへ声をかけた。
「お久しぶりです! 野菜コロッケありますか?」
「うんうん、もちろんあるよ」
「じゃあ、二枚お願いします!」
「はいよー」
懐かしいテンポ。
耳の裏に残る、お兄ちゃんとおばあちゃんのやり取りだ。
お兄ちゃんが一二〇円を差し出すと、おばあちゃんは別々の紙に包んだコロッケを私たちに手渡す。
紙の上からでも伝わるコロッケの温もりに、鼻の奥にツンとした痛みが走った。
「いただきます」
お兄ちゃんが言うと、私もそれにならって「いただきます」と口にする。
そしてコロッケを一口かじった。
サクッ!
という乾いた音がしたかと思うと、ホクホクのじゃがいもと人参などの野菜の甘みが、口いっぱいに広がる。
「美味しい……」
私の口からため息のように言葉が漏れると、おばあちゃんが嬉しそうに顔をほころばせる。
「美味しいかい。それはよかった。よかった」
私が物心ついた時からなんら変わることのない光景だ。
私がいて、お兄ちゃんがいて、おばあちゃんがいて、そしてコロッケがある――
この光景を失いたくないだろ!? 若葉!
私が守らなきゃいけないんだ! そうだろ!? 若葉!
心が叫ぶ。
同時に熱い決意が口をついて出てきた。
「おばあちゃん、私、絶対にここを守ってみせるから! だから安心して!」
それまで少し眠そうだったおばあちゃんの目が、少しだけ見開かれる。
それも束の間、すぐに目を細めて微笑んだ。
「ふふふ。若葉ちゃんはいつも一生懸命だねぇ。おばあちゃん、そんな若葉ちゃんが好きよ」
「ああ、俺も大好きなんすよ」
「もうっ! お兄ちゃんは恥ずかしいこと言わないで!」
兄妹の様子を愛おしそうに見つめるおばあちゃん。
時代はどんどん変わっていく。
取り残されてしまったものは、容赦なく淘汰されてしまっていく。
それでも守らなくちゃならないものはあるはず。
それを私が絶対に守ってみせるんだ!
サブストリートを残すことは、私にとって人生で初めての大勝負であった。
◇◇
それからの数週間は本当にあっという間に過ぎていった。
私たちはおよそ二ヶ月後に迫った夏祭りに向けて、出来る限りの準備を始めたのである。
私は夏祭りを宣伝する役割を、パパたちは飾り付けや舞台の準備、そしてお兄ちゃんはパソコンを駆使して、準備の進捗管理やイベントへの参加依頼、ホームページの作成などを行っている。
しかし準備が進んでいく中で、どうしても決まらないことが一つだけあった。
それは夏祭りスタートからよさこいが始まるまでのつなぎだった。
夏祭りは午後三時から始まり、よさこいが始まるのは夕方の五時頃から。
この間の二時間で祭りの来場した人々を引きつけておき、よさこいを最大限盛り上げようと作戦を練っていたのだ。
そこで『りゅっしーのステージ』ともう一つ、目玉のプログラムをずっと模索し続けてきたのだが、まったく目星がつかなかったのだ。
だが……。
とある日曜の夜。商店会のメンバーが集まっていた時のこと……。
「よっしゃああああ!! きたぁぁぁ!!」
突然、お兄ちゃんの喜びが爆発した。
「どうした!? 急に!?」
パパが目を丸くしてお兄ちゃんに問いただした。
すると珍しく顔を真っ赤にして興奮したお兄ちゃんが私の手をとって叫んだ。
「決まったんだよ! 『ぽよぽよ騎士団』がやってくるぞ!! 夏祭りに!!」
なんとお兄ちゃんの交渉によって、ちまたで人気のお笑いコンビ『ぽよぽよ騎士団』がゲストで登場してくれることになったのだ。
「すっごぉぉぉい!! お兄ちゃん! すごいよ!!」
「あはは! 若葉!! お兄ちゃんをもっと褒めてもいいんだぞ!」
『ぽよぽよ騎士団』の所属する事務所との交渉がまとまったという報せは、私たちに勇気と希望を与えるものだった。
「さあ、あとは走るだけだぜ!! みんな!! もうひと踏ん張り! 頑張ろうぜ!!」
パパが号令をかけると、みなが一斉に「おうっ!!」と掛け声をかける。
いよいよだ!
いよいよ私たちの大勝負は始まるんだ!!
◇◇
期末テストが終わると、マユやたまちゃんもバイトの合間をぬって手伝ってくれた。
ビラを作って配ったり、店頭に置いてくれるお店を探して回ったり……。
一緒に汗水垂らしながら、笑いあった高校一年の夏のことを、私は一生涯忘れないだろう。
そして同時に、パパたちは少しずつりゅっしーの出番を増やしてくれた。
お祭り前に、ちょっとでもりゅっしーと商店街の知名度をあげようと、商店会の人々がお金を出し合って、私のアルバイト代を捻出してくれたのだ。
それでもそれまでよりも半分かそれ以下の時間とお給料。
でも、私はいっこうに構わなかった。むしろ「タダ」でもよいと訴えたのだが、パパが頑としてそれは許さなかった。
――遊びじゃねえんだ。ちゃんと責任をもってやって欲しいから、給料は出す。それが仕事ってもんだ。
だそうだ。
元から手を抜くつもりはなかったけど、お給料がもらえるとなれば、さらに気合いを入れないわけにはいかない。
私は商店街の様々なお店のために頑張って働き続けた。
そして、決まって最後には夏祭りへの参加を呼びかけたビラを配る。
真夏のさんさんと輝く太陽が、私たちを応援してくれているように思えてならなかった。
空は高く、白い入道雲がもくもくと浮かぶ毎日。
遥か遠くに臨む秩父連山も、永源寺の大きな鐘も、けたたましい蝉の声も、「頑張れ! 頑張れ!」と、暑さに負けそうになる私の背中を叩いた。
だから私は一生懸命に走り抜いたの。
この先に、守るべきものを守る希望が待っていると信じて――
でも……。
いよいよ残り二週間を切った時のことだった。
私たちの間に衝撃が走ったのは――
「おいおいっ! まじかよ!!」
夕方、居酒屋『だいご』で、夏祭りの段取りの最終調整をしていたお兄ちゃんが顔を真っ青にして叫んだのだ。
この日の仕事を既に終えていた私は、アイスキャンディーを口に入れながら、お兄ちゃんの顔をちらりと覗く。
どうせまた私の画像を間違って消しちゃったとか、そんなくだらないことだろうと、軽く考えていたのだ。
しかし次にお兄ちゃんの口から飛び出した言葉は、そんな私の脳天をガツンと殴りつけるようなものだった……。
「くっそ……。『ぽむぽむ騎士団』がドタキャンだと……」
「うえええええっ!!?」
それは夏祭りを盛り上げる目玉の一つが、するりと目の前から消えてしまった瞬間だった――




