第三話 居酒屋『だいご』 若葉の初任給 終幕
◇◇
午後七時――
すでにお店の中に入った私たち。
今夜は他にお客はおらず、貸し切り状態だか、柔らかな調子の音楽と、暖かな色調の明かりのおかげで、寂しさを感じさせない。
「そろそろお料理出し始めましょうか?」
というオーナーシェフの奥さんの問いかけに、私はブンブンと首を横に振った。
お兄ちゃんは顔をそっぽに向けて舌打ちをしている。
「……いくら待ってもこねえよ。あのバカ親父……」
「まあまあ、今日は若葉ちゃんにお呼ばれしたんだもの。若葉ちゃんの好きなようにさせてあげましょ」
ママがニコリと私に笑いかけてくれたことで、すっと気持ちがやわらいだ。
でも予約していた時間を迎えてしまったのだ。
これ以上、お料理を出すのを待たせてしまうと、このお店の人が困っちゃうはず……。
だからあまり長くは待てないのは、じゅうぶんに分かっている。
それでも私は信じたいのだ。
だって、親友の二人が「おまかせあれ!」って胸を叩いたのよ!
私が信じてあげなくて、誰が信じてあげられるの!
それに……。
きっとパパだって、本当は……。
……と、その時だった。
ガチャッ!
という大きな音とともに転がるようにしてお店に入ってきたのは……。
パパだった――
パパはいつも居酒屋『だいご』で働いている時の格好のままだ。
おめかしをしている私たちと比べれば、さながら月とすっぽんのよう。
でも、すっごく眩しくて、思わず目が細くなる。
そして、ばつが悪そうにこちらへ近づいてくるパパを見て私は無意識のうちに叫んでいた。
「パパ!!」
体が勝手に動くと、席を飛び出していく。
目の前のテーブルとテーブルの合間をぬって駆けていくと、全てがスローモーションのようにゆっくりと過ぎていった。
店内にかけられたクラッシックの名曲がクライマックスを迎えたその時……。
ガシッ!
と、パパの分厚い胸に思いっきり飛び込んだ。
「ごめんな、若葉。少し遅れちまってよ」
パパの優しい言葉が耳に届き、汗のにおいが鼻をついた。
小さい頃、ママにせがんでは開店前の居酒屋『だいご』へ遊びにいっていた頃が記憶によみがえってくる。
忙しい時間にも関わらず、嫌な顔ひとつ見せずに「高い、高い」をしてくれたパパ。
あの時と何も変わらない声とにおいだ。
感情の波が一気に押し寄せてくると、ついにこらえきれなくなってしまった。
「ぱぱぁぁぁ」
自然と涙が出てきて止まらない。
せっかく化粧室でママに整えてもらったメイクもだいなしだ。
でも、今は何も気にならないくらいに嬉しくて仕方ないのだ。
家族で単に外食しにきただけ――
他人から見れば、まったく大それたことではないかもしれない。
けど、私たち家族にとっては何にも代えがたい貴重な時間なのだ。
だから、今ならヤスコさんの言ってたことが分かる気がする。
家族全員でかけがえのない時間を過ごすこと。
それが何よりのプレゼントなんだって――
◇◇
初めてのおしゃれなレストランでの食事は、本当に夢のような時間だった。
出てくるお料理はどれも宝石みたいに見た目も綺麗で、もちろん味も最高に美味しかったし、四人で他愛もない話をしながら過ごす時間は、お料理と同じくらいにすっごく温かった。
笑いあっているうちに、あっという間に時間は過ぎ、気付けばデザートと食後のコーヒーを残すばかり。
たしかデザートはミニケーキとシャーベットの盛り合わせだったはずだ。
ふと時計を見れば、午後九時を回っている。
もうすぐ食事の時間が終わってしまうと思うと、少し寂しい気もする。
だって次に四人で同じ食卓を囲めるのは、きっと年末までお預けだろうから……。
……と、その時だった。
「ちょっと俺、トイレ行ってくるわ」
「ふふ、私も行ってきますね」
と、お兄ちゃんとママがほとんど同時に席を立ったのだ。
後から考えればあまりにも不自然だが、この時は特に何も感じずに「いってらっしゃい」と声をかけて二人を送りだした。
そうして私はパパと二人きりになった。
気まずい沈黙が流れる前に口を開いたのはパパだった。
「若葉。今日のこと。冷たく断っちまって、本当にすまなかったな」
私は首を横に振ると、「私の方こそ、パパはお仕事だって分かっていながら無理に誘ってしまってごめんなさい」と返した。
パパはふっと口元を緩めると目を細める。
そして聞いたこともないくらいに、重い口調で言ったのだった。
「パパは勘違いしてたんだ。本当に守らなきゃなんねえのは、なんなのかってことを。今こうして、世界一の娘と一緒に、世界一うまい飯を食ってる。これほどの幸せは他にねえよ。それを初めから知ってれば、迷うことなんてなかったのにな」
「パパ……」
言葉を失ってしまった私に、パパはニコリと微笑んで続けた。
「それと……。若葉はいい友達を持ったな。大事にするんだぜ」
「う、うん! ありがと!」
きっとマユとたまちゃんのことだ。
あの二人が褒められると、自分が褒められているように嬉しくなって、思わず顔がほころんだ。
そして、次の瞬間だった――
ぱっと店内が暗くなったかと思うと、なんとキッチンの奥からママとお兄ちゃんがこちらに向かって、ゆっくりと歩いてきたのだ。
「えっ!? なに? どういうこと??」
にわかに混乱する私をよそに、ママとお兄ちゃんは大きな何かを慎重に運んでくると、テーブルにそっと置いた。
まだ何が起こったのか、全く理解できずにいるうちに、再び店内が明るくなる。
すると目に飛び込んできたのは、テーブルの上に置かれた大きなケーキだ。
四角い形をした生クリームたっぷりの白いケーキの上には、チョコレートのペンで大きな字が書いてある。
その字を見た瞬間に私は固まってしまった。
そこにはこう書かれていたのだ。
『若葉 ありがとう』
と……。
その字は何度も何度も目にしたことのある字。
『若葉』の部分はママで、『ありがとう』の部分はお兄ちゃんだ。
まるでそれらの字が、ケーキから飛び出してきて、私の周りでダンスをしているような、興奮と感動に包まれていく。
そこに、ママとお兄ちゃんがニコリと微笑みかけてきた。
「若葉、今日はありがとな。お兄ちゃん、すごく嬉しかったぜ」
「若葉ちゃん。本当にありがとう! ママ、感動しちゃった」
二人の感謝の言葉は耳に入ってきたものの、予想外過ぎる展開にまったく思考がついていかない。
そんな私に今度はパパが声をかけてきた。
「若葉。ありがとな。みんな若葉のおかげで幸せなんだぜ」
その言葉が胸に響き渡った直後……。
ぐわっと腹の底からマグマのように熱い何かが頭のてっぺんまでのぼってきた。
一度乾いたはずの涙が、再び両目からぽろぽろとこぼれ始める。
「そ……そんなことないよぉ……。ありがとうを言うのは私の方だもん。うええぇん……」
ついに泣き始めた私の背中を、ママは優しくなでてくれると、耳元でささやいた。
「若葉ちゃん、昔からイチゴのケーキ好きでしょ。中にいっぱいイチゴ入れてもらったから。早く食べましょ。ねっ」
「うん……。イチゴだいすき」
ママが私をあやしているうちに、お兄ちゃんがみんなの分を取り分けている。
私はママからフォークを受け取ると、一口ケーキを口に入れた。
生クリームの甘さと、イチゴのすっぱさが綺麗に折り重なって、すっごく美味しい。
「若葉ちゃん。どう? 美味しい?」
と、ママが私の顔を覗き込んでくる。
一度深呼吸をして、溢れてくる涙を止めるた私は、精一杯の笑顔を作ってみせた。
「うん! 美味しい!」
「よかったぁ。このケーキね。お兄ちゃんとママが作ったのよぉ。ふふふ」
ぱっとお兄ちゃんへ視線を向けると、お兄ちゃんは顔を赤くして横を向いてしまった。
今度は無理をしなくても自然と笑みがこぼれると、つられるように言葉が出てきたのだった。
「私……。パパも、ママも、お兄ちゃんも、イチゴのケーキも、みんなだいしゅき!!」
また肝心なところで『噛んで』しまった私。
店内は温かな笑いに包まれた。
「もう! みんなして、笑いすぎ!」
と頬を膨らませながらも、胸の中は幸せと感謝の気持ちでいっぱいだった。
「若葉、ほっぺにクリームがついてるよ」
「あっ! お兄ちゃん! なにしてんのよ! 私のほっぺのクリームなめたでしょ!」
「あはははっ! 若葉に隙があったのがいけねえな!」
「ふふ、吾朗ちゃん。ママのほっぺにもクリームついてるんだけどなぁ」
「はい、紙ナプキン。母さんは自分で拭いてくれ」
「ええー! そんなぁ、若葉ばっかりずるい!」
「あははははっ!!」
こうして初めてのお給料は、私の家族みんなに笑顔をもたらしてくれた。
そして、私に大事な人と共に過ごすことの大切さを教えてくれたのだ。
『家族』を意味する『ウナ・ファミーリャ』。
今夜は店じまいまで、柔らかで心地の良い時間が、ゆっくりと過ぎていった――
第三話 居酒屋『だいご』 若葉の初任給 完
本日は「こどもの日」です。
私は「こどもの日」とは、すなわち「家族の日」なのではないかと思うのです。
なぜなら子どもに感謝することは、すなわち家族であることへの賛美であるからです。
今すぐに親孝行できずとも、本作を通じて、家族を慈しむ瞬間を共有できたら幸いです。
では、これからもよろしくお願いいたします。




