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ふつうの人  作者: 佐久間ユウ
第1部 上京
6/30

6 新宿でのストリートライブ

 閉店後の〈バー・ヘロン〉のホールで、バンドのメンバーは祝杯をあげた。


 今夜はかつてない儲けが出たらしく、鷺下は上機嫌だった。打ち上げが始まると、なんでも飲み放題だと気前がいい。航平はアルコールが飲めないので、ぼくは牛乳でいいですと言うと、みんなに笑われた。


「華。おまえのミルクを出してやんな」鷺下がちゃかした。


「出るわけないだろ」華が唇をとがらせる。


 すると鷺下が航平に、


「オリジナル曲をやってくれないか。あんたの曲を聴くと乳の出がよくなるって話だろ。華も牛乳をしぼりだすに違いない」


「母乳だろ。はらんだって牛乳なんか出るもんか」


 グラス片手に、華が薄い胸をそらせる。


「ぼくは牛のミルクでいいよ」航平は遠慮した。


 華が厨房に入り、コップを手に戻って来た。


「あたしのミルクだ」


 航平はコップを受け取り、一口飲んでむせかえる。日本酒がまざっていたようだ。その姿に、みんなは爆笑した。こうして打ち上げは明け方まで続いた。


 バンド仲間と店の前で別れた航平は、鷺下と彼のマンションに向かった。


 鷺下は妻と別居中で、一人息子はすでに独立しているという。おれひとりで住むには広すぎるんだ、と航平を居候させてくれた。


 午後5時から午前2時まで、航平は鷺下のバーで働くことになった。資金のめどがついたら、アパートを探すつもりだ。


 航平は下働きとして慣れない仕事をこなす日々を送った。洗いものをしたり、掃除をしたり、たまにはホールに食事を運んだりもした。


 それでも、毎晩、厨房から様々なバンドの演奏を聴ける。まだ売れないミュージシャンがメジャーデビューを目指して頑張っている。その姿を見ていると大きな励みになった。自分もバンドにくわわって演奏したい、と指がうずうずした。


「航平。いるか」


 グラスを洗っていると、華が厨房に顔をのぞかせた。


「きょうはうちのステージじゃないよね。めずらしく、どうしたの」


 航平は洗いものの手を止めてきいた。


「そろそろ音楽に飢えてるころだと思ってさ。明日、身体あいてる? 暇だったら、あたしと2人でストリートライブをやろう」


 翌日、仕事は休みで、とくに予定はない。華の嗅覚は鋭かった。航平が演奏したくて我慢できなくなる頃合いを狙ってきたらしい。


「どこでやるの? ぼくは東京のストリート事情にはくわしくないんだ」


「新宿でやろうかなって考えている」


「そこだったら警察の取り締まりはゆるいのかな。上京してすぐ、東京駅の近くでライブをしたときは、すぐさま警察に止められたんだ」


「新宿は厳しいよ。いつ、警官に捕まるか、って緊張感がたまらないんだよね。だから逃げ足だけはきたえておけよ。じゃあな」


 華は要件だけ言って、立ち去った。


 冗談のつもりだろうか、と航平は首をひねった。スリルを求めて規制の厳重な路上で、あえてライブをするなんて――と華の性格を考える。


 きっと本気に違いない。航平は不安になったが、それより演奏したい気持ちのほうが大きかった。


 翌日、新宿駅の南口で午後5時に華と合流した。


 航平は、キーボードの入ったケースを背中にかつぎ、楽器スタンドと小型のアンプを台車に乗せていた。華は手ぶらであらわれた。真っ赤なドレスに、スニーカーを合わせていた。逃げる気まんまんだ。


 航平は大きな楽器と重い機材を持っている。警官に追われると逃げきれるとは思えない。いざとなったら華に見捨てられるんじゃないか――。


 ちらりと華をうかがった。


「なんだ心配そうな顔して。あたしも昔は路上で歌っていた。ストリートライブに関してはベテランだから、あたしにまかせておけば大丈夫だ」


 頼もしげにいい、片目をつぶって見せた。


 ここは華にまかせるしかない。航平は彼女について歩きだした。


 駅周辺は混雑していて、台車を転がす航平は通行のさまたげになった。交差点を渡ると、行きかう人の波にのまれる。なかには水商売らしき女性も混じっている。赤いドレスにスニーカーの華を、奇妙に思う人はいないようだ。


 地下街への降り口の壁ぎわで、航平はライブの準備をはじめた。


 キーボードをケースから取り出し、スタンドを立ててその上に載せる。アンプを台車から降ろして、キーボードとつなぐ。このアンプは、鷺下のバーから借りたものだ。その隣で華が発声練習をする。


 リハーサルなしのぶっつけ本番だ。華のバンド『ウォークインジグザグ』の曲をもとに、適当にアレンジして演奏する。あとは華の歌唱しだい、それに合わせてアドリブで対応する。


 はじめから出来上がった楽曲ではなく、その場で生み出される音楽――そんな創造の楽しみに、航平の胸は高鳴りだした。


 発声練習を終えた華が、ペットボトルの水を飲む。そろそろライブ開始だ。航平は鍵盤の前に立ち、短いフレーズを弾いて指ならしをした。


 華が準備運動をはじめた。両腕を大きく横に伸ばし、腰から上を回転させる。足を前後に開き、アキレス腱を伸ばす。さらにその場で軽くジャンプする。


 航平の視線に気づき、華が自分の胸を力強く叩いた。


 逃走する自信はあるらしい。


 1曲目はさすがに緊張した。いつ警察ストップが入るかはわからない。東京駅で巡査に脅かされた記憶がよみがえった。キーボードに指を走らせながらも、目は周囲をうかがう。通行人のなかに警官の姿はないか――。


 華が警察を気にした様子はまるでなかった。ふだんのライブステージと変わらない、思いきりのいい歌声を披露する。調子が出て来たのだろう、じゃじゃ馬ぶりを発揮してきた。そんな華に合わせるのに航平の指は忙しくなった。


 会社員ふうの1人が足を止めた。すると2人3人と足を止めはじめた。航平たちを遠巻きにして、ライブ演奏を聴いている。しだいに聴衆の群れがふくらんでいくなか、航平の不安は消え、いつしか音楽に熱中しだした。


 演奏を終えると拍手があがった。


 周囲の歩道には、会社員や学生や水商売ふうの女性など雑多な人だかりができていた。その表情から、反応のよさがうかがえた。


 航平は華と顔を見合わせる。自分の顔がほころぶのを感じた。立ち去る客は少なく、つぎの曲を待っているのは明らかだ。


 華と目配せを交わし、航平はイントロを開始した。


 そのとき人垣の向こうを、2人連れの男が通り過ぎた。そのうちの1人が、キーボード担当の義男に似ていた。もう1人は目つきの鋭い、柄の悪そうな男だ。


 華が歌いだし、航平は鍵盤に目を戻す。


 義男の姿が気になったが、いまは頭から振り払った。聴衆から手拍子がおき、ライブは盛り上がりを見せていた。航平は演奏に集中する。


「誰の許可を得て、ここでライブをやっているんだ」


 ドスのきいた声に、航平の指は止まった。聴衆がさっと左右に分かれ、その場を離れてちりぢりになる。


 ヤクザらしき男3人が残った。


 真ん中の男は30才半ばで、メタルフレームの眼鏡をかけ、ブランドスーツをきめる。その態度は穏やかだが、威圧感があった。組の若頭なのかもしれない。


 若頭の両側の2人はまだ20才代だ。


 1人はずいぶん背が高く、見くだす目つきでにらみつけてくる。もう1人は背が低く太っていて、ガムをくちゃくちゃ噛んでいる。両者ともあからさまに凄みをきかせていた。


 さきほどドスのきいた声でライブを止めたのは、そのうち背の高いほうだ。


「新宿のルールを知らないみたいですね。このあたりの土地はうちの会社が管理をしていて、ライブをするにも利用料が必要なんですよ」


 若頭が組員を従え、ゆったりと落ち着きはらって近づいてくる。


「やべえ。航平、逃げよう」


 華がドレスのすそをたくしあげ、走りだした。


 背の高い組員が追いかけようとして、若頭が「かまうな」と鋭く止めた。眼鏡の奥から冷ややかな目を、航平だけに向けてくる。


 航平は、とどまるべきかどうか迷った。


 楽器や機材を持ったままでは逃げられない。アンプは店からの借り物だが、キーボードは航平にとって大切な存在だ。ショバ代を払えば、それで済むだろうか。いくら請求されるだろうか。


 航平は鍵盤に手を置いたまま、その場に突っ立っていた。


「キーボードなんて置いて逃げろ。楽器なんていくらでもあるだろ」


 30メートルほど距離をとって、華が叫ぶ。


 航平が長年、使ってきたキーボードだ。牝牛に何百回もライブ演奏を聴かせ、たくさんの楽曲を生み出してきた。そんなかけがえのない楽器だった。そう簡単には見捨てられない。彼らに壊されでもしたら大変だ。


 それでも航平は、足がぶるぶる震えているのを感じた。



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