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ふつうの人  作者: 佐久間ユウ
第1部 上京
5/30

5 マナー違反の客を撃退する

 華に水割りを浴びせられた男の赤ら顔が、みるみるレンガ色に染まっていく。内心、激しく怒っているのは間違いなかった。


「スナックに行って、ママにデュエットの相手をしてもらえよ」


 華が出口を指さし、さらに怒りをあおることを言う。


「この女はなんなんだ。どういう教育をしている? この店で雇っているんだろ。店長を呼べ。客に対する無礼な態度を説明してもらうぞ」


 まわらない舌で、重役ふうの男がわめきだした。


 華は胸をそらして立ちはだかり、バカにしたような表情を向けている。


 同じテーブルの3人の仲間は、ともに怒るでもなく、なだめるでもなく、成りゆきにまかせている。


 周囲がざわめきはじめた。ホールに鷺下の姿は見当たらない。従業員のひとりが店の奧に走った。どら猫とウッディは、われ関せずといった態度で目をそむけている。


 なんとかしないと――航平はあせった。


「これは大変、失礼いたしました」


 鷺下が現われた。愛想笑いを浮かべ、手にマイクを持っている。


「彼女は今日が初めてのステージでしてね。あとでよく言い聞かせておきますから。本当にすいませんね。おい、華。1曲、お相手するんだ」


「やなこった。さぎさんが歌えばいいだろ」


 華は両腕を組み、完全にへそを曲げている。


「デュエットするのか、しないのか。どっちなんだ」


 重役ふうの男が鷺下に怒りをぶつける。華はふてくされた態度でそっぽを向く。両者のあいだに立って、鷺下がマイクを客に向けたり、華に向けたりしている。


「おい」ついにはマイクを航平に差し出した。


 それを受け取ったところで、航平にはどうしようもない。なっ、と鷺下がすがった目つきをする。航平にできるのはキーボードの演奏だけだ。


 航平は『男と女のラブゲーム』のイントロを弾いた。故郷のスナックでリクエストされたことのある曲なので、そらで演奏できた。


 静まり返ったホールに、キーボードの音が流れる。


 重役風の男はむすっとして、華は冷めた顔つきのままでいる。


 しかたない態度で、鷺下が歌いはじめた。あまり上手とは言えないし、必死さだけは伝わるが、ワンコーラスを終えても拍手はなかった。他の客はあからさまに無視している。


 航平は間奏に入った。雰囲気の悪さは気にせず、キーボードに気持ちを集中するよう努めた。


 『男と女のラブゲーム』のフレーズをアレンジして即興演奏をする。しだいにリラックスしてきた。リズムに身をゆだね、メロディーにたゆたう。航平の指がスピードを増していく。2倍のテンポでツーコーラス目に突入した。


「早いって」鷺下が慌てて歌いだす。伴奏を追うのがやっとのようだ。


 女性パートでは、航平はメロディーと伴奏を同時に弾いた。どう、ぼくについてこれる? 航平は華に挑戦的な目を向ける。華は、はっとした様子だ。


 航平は再び最初のフレーズに戻った。


「もうやめよう。充分だろ」鷺下が文句をつける。


 それは無視して、航平は華を見つめながら演奏を続けた。


 華が唇の端を曲げて、にやりと笑う。航平の挑発に気づいたようだ。大またにステージに戻ってきた。


 華がマイクに手をかけ、女性パートを歌いだした。


 その歌唱はさすがに鷺下とは大違いだ。ピッチが正確なだけではなく、いっそう早いテンポを航平に要求する。鷺下は対応できずにデュエットから弾きだされた。


 航平は男性パートをキーボードで応える。変幻自在に応じる華との掛け合いはスリリングだ。そこにベースとドラムが参加した。自然に手拍子がわきおこり、客がのってきたのを感じた。


 重役ふうの男が、所在なく突っ立っている。鷺下がその男の肩を叩き、マイクを差し出した。続きを歌うように勧めている。


「歌えるわけないだろ。こんなの歌謡曲なもんか」と、わめいた。ろれつの怪しい男に、華の相手は無理だ。


「うちはジャズバーですから」


 鷺下が、バンド演奏に負けない声で宣言した。


 それに応えるように、客席から大きな拍手があがった。テーブルのひとつでグループ客が立ち上がる。それに呼応して、つぎつぎに客が立ち上がる。

 

 逆に重役ふうは腰かけた。その席の4人だけ、肩身が狭そうに孤立した。


 華が客に手拍子を示し、リズムを伝えた。それにドラムが合わせ、ベースが応じる。航平は、ホール全体がひとつになるのを感じた。


 ピアノの間奏に入った。航平はいっそう調子が上がり、いっきにアッチェレラントをかける。航平のアドリブに華が声を合わせ、「もっと早く」とバンドをあおる。客の手拍子もいっそう早くなる。


 航平は楽しくてしかたない。リフレインを駆け抜け、『男と女のラブゲーム』は最高の盛り上がりで終わった。


 拍手が爆発し、ホールを揺るがした。


「ありがとう」華が片手を振り上げると、さらに歓声が高まった。


 拍手は鳴りやまない。客はなかなか座ろうとはせず、賞賛をおしまなかった。いつのまにか、重役ふうの席は誰もいなくなっていた。


 盛大な拍手に送られて、バンドメンバーは退場した。華が客席を振り返って、手を振っている。航平と目が合うと、にっと笑って見せた。


 午後9時をまわり、ツーステージ目の開演となった。航平たちはホールに出て行った。


 最初のステージとのあいだに1時間あったが、その間に客が入れ替わることはなく、ほとんどの人が残っていたようだ。航平に声をかけるグループもいる。新しい客もいて、ホールは満席だった。


 のりは1曲目から良かった。テーブル客は自然に立ち上がり、手拍子が始まる。ライブのあいだにも立ち見が増え、ホールをうめつくす。


 すべての演目を終えるとアンコールを求められたが、さすがに用意していなかった。航平たちは『男と女のラブゲーム』をもう一度やり、これも喝采を浴びた。ライブはスタンディングオベーションで終演した。


「こんなに盛り上がったステージは久しぶりだよ。打ち上げで祝杯をあげよう」


 ホールを出て楽屋に向かいながら、華が言った。


「ぼくもこんな拍手喝采を浴びたのは初めてだよ」


 航平は興奮さめやらなかった。


「牝牛が相手じゃこうはいかないだろ。四足で足踏みがいいところだ」


 そのとき気のない拍手があがった。


 階段の上がり口がある壁に、痩せて背の高い長髪の男が寄りかかっていた。黒い革のジャンバーに、すりきれたジーンズだ。トランクとともに立てかけてあるのはキーボードケースだ。


 航平は、はっと気づいた。


「今日中には戻れないんじゃなかったのかよ」


 華が声をかけた。キーボーディストの義男だと、航平に紹介する。


 義男が、けだるそうな目を向ける。目の下にくまができ、頬骨がとびだし、とがったあごに不精ひげが生えている。


 航平は名乗ったが、無視された。


「6時半を過ぎて、ようやく那覇空港を飛び立ったんだ。開演には間に合わないとわかっていたけどね。どうせ東京に戻るつもりだったから」


 義男の声は低く、だるそうだった。


「航平が代役をつとめてくれて、今夜のライブは今までにない大成功だった」


 華が、屈託なく弾んだ調子で報告した。


 その演奏に義男はかかわっていない。今夜の成功を義男がどう思っているか、と航平は気になった。華はまるで気にかけていない様子だ。


「そうみたいだね」義男が応える。「おれが店についたとき、ホールは満員でなかに入れなかった。演奏はここで聴かせてもらった。おれは必要なかったみたいだ」


「いじけるなって。いっしょに祝杯をあげようぜ」


「やめておくよ。きょうの成功におれは関係ないからね」


 義男がキーボードケースをかつぎ、トランクを持ち上げる。長身をひるがえし、地上に出る階段を上がりだした。航平はなんだか気がとがめた。


「待てよ」華が呼びかけた。


 義男は答えず、彼の長い影が壁をなめるように上がっていく。


「なんだよ。あのやろう。ライブの盛況をねたんでやがら。勝手にすればいいよ。あたしらだけで盛大に打ち上げようぜ」


 なっ、と華が航平の肩を叩く。


 ホールの扉が開いて、そこから出てきた男とすれちがった。


 男は50才くらい、浅黒い顔はいかつく、頭髪は一本もない。すれちがいざま、鋭い目で航平を流し見て、地上に出る階段を上がっていった。


「あのおっさん、こんどは航平のピアノに目をつけたんじゃないか」


 華が聞えよがしに言った。


「こんどはって? 知っている人なの?」


「知らない。たまにライブで見かけるけど、無愛想なおっさんで、話しかけてもうるさそうに無視するんだ。義男のプレイに興味があるみたいだったから、音楽関係者かもしれない。そのうち航平に声をかけてくるんじゃないか」


 そう言って、にっと笑った。


 だったらいいんだけれど――。航平は、男の目つきにあまりいい印象を受けなかった


 楽屋では、バンドメンバーが飲み会の話で盛り上がっていた。華だけでなく、ドラ猫もウッディも、義男とのやりとりをなんとも思っていないようだ。サポートメンバーの参加はめずらしい事態ではないのだろう。


 航平は義男の代役をつとめただけで、彼のパートを奪ったわけじゃない。だが、このバンドでプレイしたい気持ちがあるのも事実だ。それが航平にうしろめたさを感じさせていた。



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