4 〈バー・ヘロン〉での初セッション
航平は〈バー・ヘロン〉でバンドのメンバーに紹介された。
「あたしはジャズシンガーの奥村華っていうんだ。とりあえず、よろしくな」
「ハナ? ぼくにはハナという知り合いがいるよ」
華のあいさつに、航平はそう応えた。
「こいつは面白え」鷺下が口をそえた。「うちの華みたいに、その女も相当のじゃじゃ馬だろうな。男を上にのせたら、きっと激しいに違いねえ」
他のメンバー2人が顔を見合わせ、下卑た笑いをもらす。
「ちゃかすんじゃないよ」
華がヒールで強く床を叩いた。両腕を組み、頭をそらして、メンバーをにらみつける。すぐに笑いはやんだ。鷺下が銀髪をかきあげている。
「ぼくの知っているハナは、ふだんはおとなしいんです。先週の朝、吉蔵じいさんを上にのせたときは別で、すごい声を出して暴れたそうです」
航平は、演奏会での出来事を語った。
「朝っぱらから、じいさんとか」
鷺下が目をむいた。
「明け方に吉蔵さんと散歩に出たとき、牛舎からぼくの演奏が響きました。その音に驚いて、ハナは吉蔵さんを落として逃げたんです」
航平の説明に、メンバーの全員がぽかんとした顔を向ける。なにか変なことを言ったかな、と航平は不思議に思った。
ふいにけたたましい笑いがおきた。華が腹を抱えて笑っている。
そうか。そういうことか、と1人で納得し、目に涙まで浮かべている。
「そのハナって女はさ、ひひん、と鳴かないか」と華がきいた。
「ハナを知っているの?」
「知るもんか。牧場のせがれだって言うから、ぴんときたんだ」
「それからハナは男だよ」
「どっちでもいいや、そんなこと」
「なっ、面白いやつだろ」鷺下が口を挟む。「場がなごんだところでリハーサルといこうじゃないか。開演までに仕上げなくちゃな」
「なんだか丸め込まれたみたいだな。あんたの腕前を拝見しようか」
華がにやりと笑い、航平にウインクした。
華たちのバンドは、『ウォークインジグザグ(千鳥足)』だという。
鷺下が、バンドの他のメンバーを紹介した。2人は通称で呼ばれていて、ドラムの『どら猫』とウッドベースの『ウッディ』といった。華とは高校の軽音楽部でいっしょだったという。
ウッディやドラ猫は華の先輩だというが、当時から華には頭が上がらなかったらしい。いまでも華に振りまわされているそうだ。
航平は収納ケースを下ろしてキーボードの準備を始めた。華がバンドスコアを持ってくる。航平はそのスコアに目を通すと、音符を素早く頭に記憶していった。
バンドのメンバーがスタンバイについた。航平はキーボードの前に座り、ペダルに足をおいた。鷺下がホールの真ん中からステージをうかがっている。
ふと、鷺下とこのバンドとはどういう関係なんだろう、と航平は思った。
キーボードの隣で、スタンドマイクに手をかけた華が目配せする。航平はうなずいた。ドラムがカウントをとり、演奏が始まった。
譜面の複雑な音符の配列を、航平は正確に音にしていく。スコアのところどころにはコードとリズムしか書かれてなく、アドリブと明記していた。航平は自由に短いフレーズを挿入して演奏した。両手の指が走りだす。
「ストップ、ストップ」華が両手を叩いて止めた。
航平は、なにか間違えたかな、と鍵盤から顔を上げた。
「速いって。あんたひとりでスイングしてんじゃないんだからさ」華が文句をつけた。「うちら、いつもどのくらいでやってたっけ」と、どら猫を振り返った。
「こんなもんじゃない」ドラマーがリズムを刻む。
「航平、このテンポだ。インストルメンタルじゃないんだから、ボーカルがいるってのを忘れないでくれよな。大切なのはバンドのチームワークだ」
ごめんなさい、と航平は素直にあやまった。
演奏が再開すると、航平は華に合わせるように努めた。
いままではDTMで打ち込んだパートと合奏してきた。生身の人間とバンドを組んだ経験はない。自分勝手に弾いていると指摘されれば、その通りだ。
ワンコーラスを終えて間奏に入った。
航平は、メンバーを統括しているのは華だと気づいた。歌声はときに走り、ときにため、めまぐるしくテンポを変えた。チームワークが大切だと言いながら、華が誰よりも自由奔放だった。他のメンバーがそれに合わせているのだ。鷺下が、じゃじゃ馬だとからかった意味がわかった。
しかし、その歌唱は抜群の安定感があった。低い音から高い音まで少しもゆるぎがない。高音のファルセットでも、まったく声量がおちなかった。
航平のソロパートになった。音の渦に巻き込まれ、翻弄されながらも、そのなかを自由に泳ぐ。航平はバンドで演奏する楽しさを知った。これこそが自分の求めていた音楽だと興奮した。
DTMで打ち込んだ音はその通りに再現される。すでに出来上がった音楽だ。それとは違い、それぞれがパートの一部となり、楽曲を作り上げていく。今まさに新しい曲が生まれている。そのあふれる生命感に胸がおどった。
「ブラーボー」1曲を演奏し終わり、鷺下が手を叩いた。
航平は一息ついた。拍手の音がホールに反響する。ここに、たった5人しかいないのが信じられなかった。もっとたくさんの聴衆がホールをうずめ、熱狂していたように錯覚した。それほど演奏にのめりこんでいた。
「やるじゃん」華が航平の背中を叩いた。「よくあれだけ複雑怪奇な音符を弾きこなしたな。ほとんど暗譜していたし、初見には思えない」
「それほどでもないよ。複雑そうに見えるけれど、繰り返されるパターンにはすぐ気づいた。アドリブが多く、ぜんぶ譜面にしていないぶん弾くのは楽だったよ」
「だってさ」華が鷺下の方を振り返った。
「見かけだけだと言われれば、その通りだ。作曲につまるとアドリブを指定するのは、悪いくせだと思うよ。そもそも音楽の才能があったら、こんなバーを経営しちゃいない」
「ごめんなさい。鷺下さんの曲だったんですか」
「そうだよ。おれはどっちかというとマネージメントのほうが得意なんだ」
「そう、いじけるなって」
華がドレスのすそを引きずって進み、鷺下の肩に手をおいた。
「おれの才能のなさはどうでもいい。リハーサルを続けよう。航平の腕前は確かだと太鼓判を押したのは間違いなかっただろ」
「芋判じゃなかった。充分すぎるほどだよ。義男のやつはくびだな」
現キーボーディストをくびにするというのは冗談だろうが、航平は自分が受け入れられ、ほっと安堵した。このまま、このバンドで演奏したいと強く望んだ。
リハーサルが再開した。とちゅうで従業員が入って来て、開店準備が始まる。厨房やバーカウンターが騒がしくなり、新顔の航平に興味をもつ店員もいた。あわただしい雰囲気のなか、航平は演目をおぼえるのに集中した。
リハーサルを終えたのは開店の30分前だった。航平たちはホールに楽器や機材を残したまま、控え室に下がった。航平は携帯電話を確認した。思ったとおり、両親からの着信とメールがたくさん届いていた。
「とるものもとりあえずって感じだな。東京に着いたばかりなんだって」
華が隣に来て、話しかけてきた。荷物が楽器しかないのを言っているのだろう。
「そうだよ」航平は携帯を閉じた。
「故郷を逃げ出さなといけない事情でもあったんじゃないのか」
「東京で自分の音楽を試したいとずっと思っていた。ただそれだけだよ」
航平はそう答えておいた。見合いから逃げて来たと説明する必要はない。
「ふーん。まあ、いいや。義男をくびにすると言ったのは、まんざら冗談でもないんだ。あいつはいろいろわけありでさ。とにかく、あたしはあんたを気に入った。いいパートナーになれると確信しているんだ」
華が片目をつぶって見せ、控え室を出て行った。
午後7時を少しまわったところで、航平たちはホールに出た。楽屋からすぐステージに通じていないので、メンバーはテーブル席のあいだを抜け、準備してある楽器のもとに進んだ。
客はすでに飲食していて、いい気分で酔っているようだ。ステージに近い席では、会社帰りらしき4人の中年男が陽気に騒いでいた。
バンドがスタンバイすると客席からまばらに拍手があがった。会社員のテーブルから下卑たやじが飛ぶ。華は鼻先をつんとそらして無視していた。
最初のナンバーはアップテンポの曲だ。航平は短いフレーズを演奏し、それにベースとドラムが合わせる。航平が伴奏にまわると、華が入ってきた。
客は最初こそ熱心に聴いていたようだ。しだいに興味がうしなわれていくのを航平は感じた。ほとんどの客が会話や飲食に集中していて、曲が終わると、気づいたように拍手をする。バンド演奏をBGMにしか感じていないのだろう。
『うちに来る客だってジャズをわかっちゃいないよ』
鷺下の言葉がよみがえった。航平はそれでもかまわなかった。メンバーと一体になって演奏するだけで楽しかった。
照明が変わり、ピンスポットが華に当たる。最初のステージの最後はミディアムナンバーだ。航平は静かにイントロを弾きはじめた。
恋人をうしなった悲しみを、鼻にかかった甘い声で、華が歌い上げる。今回、ベースとドラムの出番はない。
華の歌唱は思いきりがよく、アップテンポの曲にはよく合う。ブルースでは歌声を変えてきた。Aメロの平板なメロディがつぎつぎに表情を変化させる。華の多彩な音色とそのニュアンスの使い分けに、航平は舌を巻いた。
「そんな辛気臭い歌は、やめろ、やめろ」
ステージに近い席から声があがった。
文句をつけたのは会社員グループのひとりだ。赤ら顔の貫録のある男で、取り巻きの様子から、部長クラスではと想像できた。
航平はキーボードを弾く手を止めた。
「ねえちゃん、いい声しているじゃないか。おれとデュエットしようぜ」
男が立ち上がった。ろれつはまわらず、身体はふらつき、完全な酔っ払いだ。
ホールは一瞬、静まりかえり、すぐに小声のざわめきが広がった。
「そこのピアノ。『男と女のラブゲーム』のカラオケ演奏をしろ」
命令され、航平は驚きあわてた。
マナー知らずでも客は客だ。むげに断るわけにはいかないだろう。リクエストされた曲なら、地元のスナックで弾いた経験があり、応えられなくはない。どうしようか、とメンバーの様子をうかがった。
華が足早に男のテーブルに向かった。
「ここはカラオケスナックじゃないんだよ」
水割りのグラスを取り上げ、ためらわず男の顔に中身をぶちまけた。
続