エピローグ ふつうの人
早朝の5時、すでに明るい日差しには真夏の熱気がふくまれていた。飛騨山脈の青おとした稜線が、高山盆地をおおっている。
搾乳場では、青いつなぎの航平が牝牛にミルカーをつけてまわっていた。それを手伝う好美から、ときおり鼻歌がもれる。搾乳がはじまると、その場を作業員にまかせ、航平と好美は牛舎に向かった。
牝牛が出はからっているあいだに、舎内の清掃、しきわらの交換、糞の除去を行なう。航平は柵にそった通路を掃ききよめる。昔は苦手だったこの作業にも、だいぶ慣れてきた。このあとは牝牛のえさやりだ。
作業員と働く若夫婦の姿を、航平の両親が牛舎の出入り口から見守っている。
「実家の仕事を手伝わなかったわりには手慣れているじゃないか」
父親の幸吉は感心した口ぶりだ。
「東京でバンドをやっていたころ、牧場の仕事をやらされたそうですよ」
母親の澄江はそうこたえる。
「東京行きも、まんざら役に立たなかったわけじゃないか。航平が1千万円の詐欺容疑で逮捕されたと聞いたときにはおどろいた。逮捕期間中に、詐欺の張本人が出頭して、航平の容疑がはれたからよかった」
「わたしは信じていましたよ。航平は他人をだませる人柄じゃありませんから」
「変人ではあるがな。東京に出て、どれほどエキセントリックになって戻ってくるかと心配していた。実家では、牛相手に厩舎でコンサートをやっていたあいつが、いまではふつうに牧場の仕事をしているじゃねえか」
「好美さんがいてくれたおかげですよ」
牛舎から出てきた好美が、出入り口の舅姑にあいさつした。単純なメロディらしきものを口ずさみながら、はずむ足どりの好美が飼育所に向かう。搾乳を終えた牛のえさの準備にかかるのだろう。
「好美さんは航平にはすぎた嫁だが、ときおり口にする、調子っぱずれのあれはなんだ? 歌か? あれだけはやめてほしいな」
「東京の有名な音楽学校で歌唱レッスンをうけていたそうですよ」
「本当か。たいした学校じゃねえな。東京ではああいう歌がはやっているのか」
「知りませんよ。それでも、わたしの言ったとおりじゃないですか。好美さんと結婚すれば、航平も実家に落ち着いてくれるって」
「そうだな。これで、あいつもようやく――」
牛舎で、牛のしきわらを交換している息子を見やり、
ふつうの人になってくれた。
了
長いあいだ読んでいただき、ありがとうございました。執筆を開始してから、全編公開までに7年もかかってしまいました。その間に、音楽取材に協力してくれたミュージシャンが亡くなりました。物語にも同じ展開があるので、ひどくおどろき、信じられない気持ちになりました。他にも執筆を応援してくれたミュージシャンに、ここであらためて感謝します。本当にありがとうございました。




