3 航平はキーボードの代役を引きうける
航平は、東京に向かう高山本線の始発に乗り込むと、楽器収納ケースを棚に上げ、キャリーバッグを立てかけてシートに座った。
まだ夜明け前で、車窓を流れる故郷の景色は闇にぬりつぶされていた。足もとが暖かい。航平はいつのまにか眠り込んでいた。
電車を乗り継いで東京駅に着いたのは、午前10時過ぎだった。
上京したのは修学旅行以来だ。東京駅構内にあふれる人の数に驚いた。乗降客がめまぐるしく行き来する。出口がわからず突っ立っている航平は、通行人のさまたげになったと気づいた。
人波に押されるように歩きだす。東京は決して止まれない場所だと悟った。立ち止まったときが、自分の音楽活動の終わりだと言い聞かせる。
いつしか地下街に迷いこんでいた。
そこもまた人だらけだ。似たような店舗が並び、狭い通路が入り組み、航平はまたたくまに方向をうしなった。
あちこち迷い歩き、ようやく地図の表示板を見つけた。とにかく外に出よう、と手近な出口を確認してそこに向かった。
地上に出たとたん、いっきに空間が広がった。
六車線もある道路が伸びて多くの車両が行きかっている。高層ビルが立ち並んで空を圧倒している。東京駅に着いたはずなのに、赤レンガの駅舎はどこにも見当たらない。道行く人の数が多いぶん、逆に見知らぬ場所にいる孤独さがいっそう強まった。
あてどもなく歩いても疲れるだけだ。航平は通行人に東京駅の場所をたずね、ターミナルビルまで戻った。近くのファーストフード店に入り、腹ごしらえをする。これからどうしようかと迷った。
結局、自分にできるのは音楽だけだ。
駅前の道路を横断すると、高層商業施設へ延びる広い歩道にぶつかる。航平はその隅に荷物を置いた。ケースからキーボードを取り出して路上ライブの準備をはじめた。
ちょうど昼休みどきで、会社員らしき通行人が目立つ。スタンドを組み立てキーボードを載せる航平の様子には、誰もが無関心だった。ちらりと視線を向ける人はいても、立ち止まらずに行き過ぎる。
故郷では、路上で演奏を始めれば、少しは通行人の興味をひく。実家の牛たちなら、口を動かしながらも熱い眼差しをそそいでくる。東京の人は、航平の姿を風景の一部にしか感じていないようだ。
演奏を開始しても、その状況はほとんど変わらなかった。遠巻きに立ち止まる歩行者はいる。それでも1曲終わる前に立ち去った。航平に拍手をしたり、声をかけたり、近づいたりする人は誰もいない。行きかう人の多くは、航平の周囲を迂回して通るので、通行をさまたげている気にさえなった。
客の無反応は気にしないことにした。航平は演奏に集中し、自分の楽曲に没頭した。そうしているあいだは孤独や不安から解放された。
「いい気分で弾いているときに悪いんだけどね」
航平は、はっと我に返った。
目の前に厳しい表情の警官が立っている。
「ここでのライブは禁止されている。すぐに楽器を片付けなさい」
警官が注意した。
「すみません。知らなかったものですから。どこならいいんですか」
全身から冷や汗がふきでていた。
「ふつうはどの路上でもだめだ。東京の人じゃないね。どこから来たの? 名前は? 職業は? ちょっと署まで来て、質問をさせてくれないか」
「ごめんなさい。怪しい者じゃありません。すぐに楽器は片付けますから」
航平は慌ててキーボードを持ち上げようとして、スタンドを倒した。楽器の重みによろめき、路上に膝をつく。不安と焦りで心臓が破裂しそうだ。
「それくらいで勘弁してやってくださいよ。そのぼうやはうちの抱え人なんだ」
初老の男が警官に話しかけている。
えっ? 航平は恐るおそる顔を上げた。
男は銀髪を襟足まで伸ばし、ヤギひげを生やして、コーデュロイの上着に、すりきれたジーンズだ。猫背のせいで、しょぼくれた印象を受けた。60歳近くに見えるが、実際はもっと若いかもしれない。
「ぼうやは東京に出て来たばかりで、なんにも知らないんです。あとでよく言って聞かせますから、今回はあたしの顔に免じて許してくださいよ」
「おれは、あんたの顔は知らない」
「そんな、つれないなあ。ぼうやの腕が確かなのは聴いてわかったでしょう。音楽を夢見て上京したんですよ。その出ばなから脅かしっこはなしにしましょう」
「東京に慣れていないのは確かそうだな。今日のところはあんたの言う通りにしよう。もともと説諭ぐらいで済まそうとは思っていたんだ」
警官が立ち去り、航平は、ほっと安堵した。
「東京に出て来たばかりだと適当に説明したが、あんがい当たっていたんじゃないか」
銀髪の男が、倒れたスタンドを起こすのを手伝いながらきいた。
「ありがとうございます。実は午前中に東京に着いたばかりなんです」
「それでさっそく路上ライブか。東京駅の周辺でやったなんて話は聞いたことないぞ。川崎や大宮あたりなら、わりと大目に見てくれるんだ。あのあたりの路上からビッグアーティストが出ているからだろうな」
「そうなんですか。じゃあ、川崎にでも行ってみます」
航平は楽器を収納ケースに片付け始めた。
「まあ、待て。川崎に出たところで、そのあとはどうする。行くあてはあるのか」
「きのう、思い立って出発したので、とくに考えていません。こっちに知り合いがいるわけでもないし、どうしようか迷っていたところです」
「行き当たりばったりなやつだな。おれは上野でジャズバーを経営しているんだが、そこで演奏してみないか。余興にライブを提供しているんだ」
「本当ですか。けど、ジャズはあまりわかりません」
「そんな心配はいらない。うちに来る客だってジャズをわかっちゃいないよ。おまけに相手は酔客だ、かまうもんか。さっき弾いていたのはオリジナルかい? アドリブ風に演奏していたが、ずいぶん複雑な曲だな」
「新曲なんですけど、東京の人は興味ないみたいです」
上京を決めたときの高揚感は薄れていた。
「そうめげるなって。どこの出身だ? 故郷では女性のファンが多かったんじゃないか。ぼうやみたいな優男はいまどきの女にもてそうだ」
「出身は岐阜高山です。ぼくのファンはみんな女性で、さっき演奏した曲を披露したときには、その全員が興奮して歓声をあげていました」
「やるねえ。なかには、いい胸をした娘もいたかい。何人のファンに手をつけた?」
「乳房はみんな発達しています。ぼくは週2回ほどしか、手をつけませんでした。それでもぼくの音楽を聴くと、原乳の出がよくなると評判なんです」
航平の言葉に、男の顔が一瞬、ぽかんとなる。
「ぼうやの実家は牧場らしいな。その女性ファンの乳房はひょっとして6個ないか?」
男が真面目な表情できいた。
「よっつですよ。それから、ぼうやはやめてください」
「そうか。牝牛に音楽を聴かせていたのか。面白いやつだな。年はいくつだ?」
「22歳です」
「もっと若いかと思ったよ。気に入った。あんたの面倒はおれがみてやる。おれは鷺下だ。まずは店に来いよ。少し御徒町よりにあるんだ」
航平は礼を言って名乗った。
こっちだ、と鷺下が駅舎に向かい、先に立って歩きだした。航平は楽器収納ケースを背負い、キャリーバッグを引いて、そのあとに従った。
「実を言うと、あんたは渡りに船なんだ」
今夜出演するバンドのキーボード担当がいないという。沖縄で台風にあい、飛行機が飛ばないと、その男から連絡があったそうだ。東京駅の近くにサポートメンバーの心当たりがあったが、そいつと電話がつながらない。
「そこでわざわざ東京駅まで足を運び、あんたの路上ライブにぶつかった。そいつのサポートはもう必要なさそうだ。ライブの開演は午後7時で、リハーサルに費やせるのは6時間ほどだろう。いまからスコアを覚えられるか」
演奏は6曲ずつ、ツーステージだという。
「いいですよ。大丈夫だと思います」航平は請け合った。
「たのもしいね」鷺下が金歯を見せて、にっと笑った。
JRで上野駅に出た。そこから御徒町方面に5分ほど歩くという。
鷺下の経営するジャズバーは、大通りから2ブロック離れた、細い通りに面した雑居ビルのなかにあった。出入口に〈バー・ヘロン〉と書かれた看板が立っている。そこから狭い階段が下っていて、店は地下1階だった。
店内は薄暗く、椅子を逆さに載せたテーブルが、壁際に押しやられている。バーカウンターの内側にひと気はなく、ホールは閑散としている。
バーの反対側には楽器が並べられていた。ドラムセットに、やせた男が座っている。その隣では、小太りの男がウッドベースを抱えている。2人のあいだを小柄な女が苛立たしげに往復する。
「さぎさん。義男と連絡はついたかい?」
女が、きつい眼差しを向けた。
派手な化粧のせいで年齢は推測しにくいが、航平と同じくらいだろう。ぼさぼさの髪をショートにして、マスカラをつけ、頬紅を塗っている。大胆に肌を露出させた赤いドレスをまとっているが、胸は平たく、少年のような身体つきだ。
「今日じゅうには着けないそうだ」鷺下が答えた。
義男というのがキーボーディストなのだろう。
女は、航平が背負っている楽器ケースにすぐさま気づいたようだ。ヒールの音を響かせて近づいてくる。濃い香水の匂いがした。
「なんだい、このぼうやは? こいつに代わりをやらせるつもりじゃないだろうな。うちらのオリジナル曲を、あと6時間足らずで弾きこなせるわけないだろ」
頭から決めつけられた。
「まあ、リハーサルをやってみようじゃないか。それから、ぼうやはよせ。こう見えてもあんたと同じ年だよ。牧場のせがれで、いつも牝牛に自分の曲を聴かせていたそうだ。キーボードの腕はおれが保障する」
鷺下にうながされ、航平は自己紹介をした。
ふーん、と女が目を近づけ、うさんくさげにじろじろ見る。
「あたしはジャズシンガーの奥村華っていうんだ。とりあえず、よろしくな」
華が横柄な態度で言った。
続