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ふつうの人  作者: 佐久間ユウ
第3部 再生
29/30

8 たった5音のプロポーズ

 6月に入り、コンサートまであと5日とせまった。


 『昔の知り合い』との話はついたという鷺下の言葉どおり、あれから花柳プロダクションには、なにも事件が起らなかった。航平は不安をふりはらい、コンサートの準備に集中できた。


 セットリストには、アマデウス・リベレーションズの曲以外に、ホルスタイン時代の楽曲もまぜだ。ホルスタインの曲の著作権は、すでにミューズクリエートへの移動が完了していた。


 コンサートで披露する曲は、バンドのメンバーとともに念入りに仕上げた。ミューズクリエートの用意した彼らとは、これが最後の共演になるだろう。ジーニアス・レコードと契約して、アメリカでデビューするかもしれないとメンバーに話すと、「すげえな」とおどろかれた。


 その日、ボイストレーニングを終えた航平は、同じ音楽スクールの〈音痴克服コース〉でレッスンを受けた好美と、教室の外の廊下で待ちあわせた。


 教室から出てきた好美は、ベージュのうすでのジャケットに白いブラウス、かかとの低いピンクのパンプスだった。好美はいつも花柳プロの仕事帰りに、そのまま音楽教室に通っていた。


「どう?」と航平はきいた。「ちゃんと歌えるようになった?」


「うーん、なんとか。『ドレミの歌』にはなっているみたい」


「だったら、1オクターブはカバーしているよ。レッスンのおかげだね」


「それが、『ラシドレミ』の部分はいいんだけれど、それより1音上がったり、下がったりすると、声がかすれたり、くぐもったりしてしまうの」


「それじゃあ、好美の声域にあった曲を選ばないといけないね」


「お見合いのとき、わたしの歌える曲を作ってほしいって航平くんに依頼したのを覚えてる? そのときは、返事のかわりに苦笑いされただけだったけれど」


 好美は昔をなつかしむ顔つきだ。


「好美の出せる『ラシドレミ』だけじゃ、作曲できそうになかったからね」


「1オクターブの音域を完全にマスターしたら、どうかしら?」


「それなら簡単な曲をいくらでも作れるよ」


「じゃあ努力する。なんだかレッスンにやりがいが出てきた」


 そうこたえる好美の声は、はつらつと弾んでいた。


 音楽スクールの前の交差点を渡り、駅舎に入った。花柳プロダクションの最寄り駅までは、好美と同じ電車だ。車内はすいていて、航平と好美は並んで座った。


「鶴野さん。このところ忙しいみたいね」


 好美はなにか気がかりがある様子だ。


「コンサートの最終調整をミューズクリエートとしているんじゃないかな」


「違うのよ。電話のやりとりをしているのはウォン・ミンさんなの」


「だったら、ジーニアス・レコードとの業務提携の打ち合わせかもしれないね」


「そうかしら」好美が黙りこんだ。


「どうしたの? 鶴野さんの行動でなにかおかしなところでもある?」


「態度がなんとなく。そわそわしていたり、うわの空だったり。花柳プロの看板が壊されたのと、鶴野さんとはなにか関係があるんじゃないかしら」


「そんなわけないよ」と航平はとぼけた。


 デパートで柄の悪い2人組に追いかけられ、発砲されたと話せば、いっそう好美をおびえさせるだろう。黙っていて正解だった。


「――鷺下さん」と好美がつぶやき、


「えっ」と航平は彼女をふりむいた。


「鶴野さんを、航平くんがそう呼ぶのを聞いたおぼえがあるの」


「鶴野さんが〈バー・ヘロン〉を経営していたころ、そう呼ばれていたから。英語のヘロンは、鷺の意味なんだ」鷺下はあだ名だと航平はごまかした。


「先月、鶴野さん、昔の知り合いだという男の電話で、あわてて花柳プロを出ていったでしょう。その相手は、バーを経営していたころの知人だったのかもしれない。鶴野さんはなにか隠し事をしているんじゃないかしら」


「そうかな。本人ははなにも言わないからわからないよ。〈バー・ヘロン〉が閉店したのはもう3年近く前なんだ。それとは関係ないと思うよ」


「だったら、いいんだけれど」


「アマデウス・リベレーションズの人気が高まったせいだよ。世間に広く知られれば、それをねたんで、ぼくらの邪魔をする人だってあらわれる。警察には花柳プロ周辺の巡回を強化してもらっているから、なにも心配しなくていいよ」


「そうね」と、こたえた好美の不安は消えていないらしい。


 航平のおりる駅がアナウンスされた。乗降扉が開き、5、6人の乗客がおりる。腰をうかしかけた航平はまた座った。


「もう遅いから、好美の自宅までおくるよ」


「うん」好美がうなずき、電車が動きだした。


 好美のマンションの最寄り駅に着いたのは午後10時20分だった。航平と好美は改札をぬけ、宵闇の街路に歩きだす。自宅まで15分の距離だという。


 好美の住んでいるのは、オートロック付きの8階建てのマンションだった。花柳プロダクションの給料では住めそうにない物件だ。親から仕送りがあるのだろう。航平は、エントランスの前まで好美をおくった。


「コンサートまであと少し。いっしょにがんばろう」


「うん。航平くんがたくさんのお客さんの前でステージに立つ姿を、中学生のころからずっと夢見てきたの。ついにそれがかなうのね」


「そうだよ。2人の夢がかなうんだ」


 航平はこの場を立ち去りがたい気持ちだった。好美の眼鏡の奥の目がすわっている。彼女も同じ想いなんだとわかった。


「航平くんが東京で成功したら、わたしを迎えにくる約束をした――そんなわたしの嘘が、現実になる日はくるのかしら?」


 ふいに視線をそらした好美の言葉に、航平は胸をつかれた。


「好美」航平は彼女の手をとった。


「お熱いねえ――」


 植え込みの陰からエントランスの明かりのなかに、小柄な男があらわれた。パンチパーマをかけ、派手な柄シャツにブランドものの上着をまとう。


「人気者になったモーツァルトのだんなは、もててしかたないんだろ」


「あんたは……」航平には見覚えがあった。


「デパートのトイレでは、よくもおれの顔にスッポンを吸いつけてくれたな」


 男が両手をポケットにつっこみ、靴音を高く響かせてせまる。目じりは笑い、口もとはだらしなく、異様に興奮した顔つきだ。


 好美の自宅マンションで、この男が待ちかまえていたのはどうしてなのか。鷺下の行方をおって花柳プロダクションにたどりつき、好美に目をつけたのか。


「乱暴はするな。警察を呼ぶぞ」


 航平は、好美を背後にかばった。


「色男だねえ。おれにも女を1人、おすそわけしてくれよ」


「近づくな」航平はポケットの携帯電話をさぐる。


「鷺下は元気か。この3年間で借金の利子はたっぷりついてんだ。こんど返済期限を破りやがったら、目のまわりのあざじゃすまないと伝えるんだ。あんたらの大事なコンサートをぶちこわしてやるからってな」


 男がうすら笑いを浮かべ、上半身をゆらゆら動かしている。


 ――やっぱり、鷺下さんは、〈バー・ヘロン〉の負債を踏みたおしていた。債権者との話し合いもついていなかった。この男は借金の返済をうながすため、鷺下さんだけでなく、花柳プロの関係者もおどすつもりなんだ。


 航平はポケットの携帯を握りしめ、好美を安心させようと目顔でうなずいた。そのそばを通行人が足早に通り過ぎる。関わり合いになりたくないんだ。


 ふいに男が動いた。航平はポケットから手を引きだされ、そのいきおいのまま路面に引きたおされた。突き飛ばされた好美が悲鳴をあげる。


 航平は逆手をとられ、ねじふせられた。その力は尋常じゃない。ホルスタインの義男が、かつて覚せい剤で凶暴になった記憶がひるがえった。


「あんたはピアノ弾きだってなあ。この5本の指を折ってやってもいいんだぜ。片手じゃ、まんぞくに弾けねえだろ。そうなったらコンサートだってままならねえ。それが嫌だったら、鷺下を説得してくれよな」


 男の手が、航平の指にかかる。恐ろしい力だ。


 がつん、と固い音がして、航平は解放された。男が口汚くののしり、頭をおさえて立ち上がった。その前には、手にパンプスをかまえる好美がいた。


「わたしと航平くんの夢の邪魔はさせないわ」


「おれを殴りやがったな。いい度胸だ。許しゃしねえから」


 男が動きだす直前、航平は相手の腰に飛びかかった。


「離せよ」振り切ろうとする力を、航平は全体重をかけて抑えこむ。


「好美、オートロックのなかに逃げるんだ」


 好美はストッキングの片足を脱いだまま、ためらっている。


「ぼくにはかまうな。こいつは薬で狂っている。警察に助けをもとめるんだ」


 小さくうなずいた好美がきびすを返した。


「ちくしょう。そうはさせるかよ」


 相手のひじが顔にあたり、航平は突き飛ばされた。男の上着から拳銃が取りだされる。こいつは、街中でも本当に撃ちかねない。航平はすぐさま起きあがった。


 エントランスの段に片足をかけた好美がふりむいている。


「速くマンションのなかに逃げるんだ」


 好美がエントランスに向かう。片足だけ履いたヒールでバランスをくずした。つぎの瞬間、銃声がして、オートロックのガラスドアにひびが走った。


「やめろ」相手の腕に飛びつくや、拳銃が音をたてた。


 立ち上がりかけた好美が、その場にくずおれる。航平はそれをまぼろしのように見つめていた。硝煙の刺激臭が鼻につく。その匂いは本物だった。


「……ああ」うめいた男の腕から力が抜け、どさりと拳銃が落ちた。


「好美!」航平は彼女に駆けよった。


 エントランスの明かりのなかに、好美が体をくの字に曲げて横たわり、ぴくりとも動かない。そのスーツの肩が赤くにじんでいる。


「好美、好美」航平は、血の気のうせた好美の横顔に何度も呼びかける。反応は返ってこなかった。路面の血だまりが広がっていく。


「あにき、おれは撃つつもりなかった。こいつが腕を抑えるから、つい引き金を引いちまった。おれは殺しちゃいないよ。本当なんだ。あにき、信じてくれよ」


 星のない夜空をあおいで、男がおいおい泣きはじめた。


 パトカーのサイレンの音が近づいてきた。その音を聞きながら、航平は呼びかけつづける。好美が死ぬわけない。死ぬわけないんだ――。


 駆けつけた4人の警官に、男は逮捕された。道を通りかかった人が通報してくれたらしい。パトカーに乗せられながら、男は子供のように泣きつづけていた。


 好美は、ほどなく到着した救急車で救急搬送された。


 ストレッチャーが運びこまれ、集中治療室のドアが閉まった。手術中の赤ランプを見つめながら、航平は廊下のソファにかけていた。


 華が事故にあった日の出来事が、いやでも思い出される。


 コンサート開演の1時間前だった。華は出血多量ですぐにも輸血を必要とした。航平は自分の血液を提供すると申し出た。それは病院側に断わられた。コンサートの開演時間が過ぎても、航平は救急病院にとどまっていた。華の容態が心配で、ライブどころではなかった。そのときも集中治療室の前のソファで、進みつづける時計の針を見つめていた。


 手術中のランプが消え、治療室のドアが開いた。すでに午前3時をまわっていた。あらわれた執刀医の表情は、手術帽とマスクにおおわれてよみとれなかった。


「好美は無事なんでしょうね」航平はたずねた。


「いまのところは。しかし、予断を許しません。意識不明の状態は続いています。あとは患者の意識が戻るのを待つだけです」


「そう、ですか」航平は体の力が抜け、ソファにしずみこんだ。


 航平は病院の椅子で一夜を過ごした。うつらうつらしていると肩に手がかかった。まぶしさに目をすがめる。廊下には朝日があふれていた。


「大変だったな。警察から花柳プロに連絡があった」


 鷺下の顔がのぞきこんでいる。


 航平は反射的に、鷺下の手をふりはらった。


「あんたのせいだ。あんたが借金を踏みたおしたから、好美は撃たれたんだ」


「すまん。その借金なんだが……」


「もう遅い。あんたと組んだのが間違いだった。アマデウス・リベレーションズを結成するんじゃなかった。いますぐやめてやる。コンサートなんかするもんか。ミューズクリエートもジーニアス・レコードも、どうなったってかまうもんか」


「まあ、待て」


 鷺下の話なんか聞くつもりはない。どうせ得意の口車で説き伏せられるだけだ。あいつの顔なんか二度と見たくない。花柳プロにだって帰るもんか――。


 航平は早朝の廊下を足早に歩きだした。


 救急病院を出て、ドライブウェイにそった歩道を歩く。頭上で木漏れ日がきらめき、石畳に落ちた樹々のシルエットが揺れる。ずっと晴天が続いていた。6月に入ったばかりだが、梅雨入りする気配はなかった。


 航平の思考は3年8か月前にさかのぼる。


 実家の牧場を手伝わず音楽にばかり打ちこんでいた。そんな航平に、両親は好美との見合いをすすめた。あのとき好美と結婚していれば、彼女をこんな目にあわせずにすんだ。東京に出る機会もなかった。鷺下とも華とも出会わなかった。家業をついで、好美と平和な家庭をきづいていたはずだ。


 中途半端な音楽の才能なんていらなかった。


 ぼくがふつうの人だったら、坂井にスカウトされなかっただろう。ホルスタインでメジャーデビューもしなかった。2000人を動員するコンサートも計画されなかった。華が不慮の事故にあうこともなかったんだ。鷺下はぼくに目をつけなかっただろう。アマデウス・リベレーションズとしてデビューもしなかった。好美が撃たれることだってなかったんだ。


 病院の敷地を出て、航平はふりかえる。


 並んだ窓のどれが好美の病室のものかは、わからなかった。


 それからの毎日を、航平はネットカフェで過ごした。花柳プロダクションにも、ミューズクリエートにも、いっさい足を向けなかった。かかってくる電話はすべて無視した。音楽ビジネスから完全にしりぞく決意だ。


 6月10日のコンサート開催日は日に日にせまる。


 スタッフは慌てているだろう。鷺下はぼくを探しまわっているはずだ。ぼくは今度もステージを投げだす。佐伯社長は、プロ意識のないミュージシャンだと軽蔑するだろう。ぼくはそういう人間なんだ。人は3年8か月じゃ変わらない。それを見抜けなかった社長の見識があまいんだ。


 コンサートの前日も、航平はネットカフェにいた。


 パソコンの画面をながめていると、机の上の携帯電話にメールがきた。――どうせライブの関係者だろう。何気なく受信ボックスを開く。鷺下からだ。件名に『岩井好美の意識が戻った』とあった。


 航平はハッと本文を読もうとし、思いなおして携帯を放った。


 きっと鷺下の策略だ。病院に駆けつけたところを捕まえるつもりなんだ。その手にはのるもんか。メールは読まない。言葉たくみに誘う文句が並べてあるに決まっている。好美の意識が戻ったなんて嘘だ。だまされるもんか。


 でも、本当に戻っていたら――。


 午後6時50分、面会時間の終了まぎわに航平は入院病棟に入った。


 病院内にミューズクリエートの関係者はいないようだ。メールをしてきた鷺下の姿もなかった。受付で好美の病室をきき、彼女のもとに急いだ。


 病室のドアを引き開けるとすぐ、大きな背中があった。好美のおじの小野寺だ。


「おっ、婚約者の登場だ。好美はもう大丈夫だぞ」と顔をほころばせた。


 なかには好美の両親もいて、安堵の表情をうかべていた。好美は危険な状態から脱したらしい。小野寺と両親の様子から、航平が婚約者を捨てたというネットの噂が知られていないらしいとわかった。


「航平くん? 航平くんなの?」


 両親が囲むベッドに、好美は上半身を起こしていた。眼鏡をかけていないので、よく見えていないのだろう。航平はベッドに歩みよった。


「意識が戻ってよかった。ずっと心配していたんだ」


「わたしのことはいいの。明日はコンサート当日よね。目覚めてすぐ日付をたずねたの。そのときは鶴野さんもいて、航平くんが行方不明だって聞かされた。わたしのほうが心配していたのよ」


 好美が真剣な目を向けてくる。


 ぼくを気にかけてくれていたんだ。けれど――。


「もう音楽はやめる。コンサートもキャンセルする。そう決めたんだ」


「だめよ。せっかくここまでがんばってきたんじゃない」


「音楽をつづけていたって、ろくなことはなかった。3年前にはコンサートの日に華が不慮の事故にあった。こんどは好美が重態になった」


「わたしは無事だったのよ。わたしのせいで音楽をあきらめないで。航平くんの目標は、わたしの夢でもあるのよ。華さんだって、そう望んだはずよ。ビックアーティストになる、そう彼女と約束したんでしょ」


 好美の手がのびてくる。


「お願い。華さんのためにも、わたしのためにもコンサートをキャンセルしないで」


 好美の裸眼の瞳が、真剣な色合いで見つめてくる。


「わかったよ」航平は好美の手をとった。「東京で成功したら好美をむかえにいく、そうぼくは約束したからね」


 好美の表情がハッとなったようだ。


「見合いのとき、好美が歌える曲をつくってほしいって言われたよね。その依頼はうけるよ。好美のための歌を、一生ぼくに作曲させてくれないか」


 好美の瞳に涙がにじんだ。熱いしずくが航平の手の甲に落ちた。


「――はい。お願いします」


 航平の手に、好美が自分の手のひらを重ねてきた。その様子を見守る小野寺と、好美の両親からあたたかい雰囲気がつたわってきた。


 6月10日のライブ当日、会場のコンサートホールに航平が入ったのは、最終リハーサル直前の午後5過ぎだった。


 会場入りの前に、外付けハードディスクなどの必要品を取りに、花柳プロダクションに寄った。楽器や機材、衣装はすでにコンサートホールに搬入されていた。ビル内には柳司郎しかいなかった。


 柳によると、ここ何日か、鷺下を見てないという。かわりに、目つきの悪い男が、花柳プロをおとずれたらしい。鷺下はいまだに債権者から逃げまわっているのだろう。


 航平は、コンサートホールの観客席のあいだを抜けていく。ステージには、キーボード、ギター、ベース、シンセサイザーが配置されていた。音響設備の準備も終わり、いまは照明の調整が行なわれている。航平の1週間の不在にかかわらず、いつでも開演できる状態になっていた。


 航平に最初に気づいたのは、ハシゴにのぼっていた照明係だった。


「航平さん」と呼びかけられ、ホールの視線が集中した。


 スタッフのおどろきの表情はあらわだった。コンサートの準備は予定どおり進めてきたものの、航平がまたステージ放棄をすると予想していたのだろう。なにしろ前科がある。半ばあきらめていたかもしれない。


 ステージの下に、宮廷音楽家の衣装を着たバンドメンバーの4人が集まっていた。口ぐちに声がかかる。「待っていたよ」「心配したんだぞ」「おれは来ると信じていた」「プロがステージを投げだすわけないもんな」


 航平は仲間たちに歩みよった。


「心配をかけて、ごめん。もう大丈夫だから」


 3年あれば人は変われる。あのころのぼくを好美が変えてくれたんだ。


 時間どおりの午後7時からコンサートが始まった。航平はモーツァルトの衣装でキーボードに進む。歓声があがり、拍手の波は大きくうねりを増した。4人のメンバーもそれぞれの楽器の位置についた。


 照明が客席に切りかわった。


 そこには、3年前には見られなかった光景が広がっていた。1階と2階の席をうめる2400人の客が、航平の音楽を待ちのぞんでいる。このコンサートはネットでもライブ配信される。病室の好美も、スマホの画面で見ているはずだ。華もきっと応援してくれている。


 ――さあ、コンサートの開演だ。


 航平はメンバーと目配せを交わし、イントロを弾きはじめた。オープニングナンバーは、ホルスタイン時代と同じ曲を選んでいた。


 航平は、華がリードボーカルをつとめていたメロディを歌いだした。華の歌唱にはとてもおよばないけれど、彼女が背中を押してくれている気がした。ウォークインジグザクの華とのセッションの数かずが脳裏によみがえった。


 ホルスタインに改名してからは、デパートのイベントでしか華と共演できなかった。華とは一夜限りのストリートライブをした。その夜、航平は華とむすばれ、ビックアーティストになる約束をかわした。


 そしていま、このステージに戻ってきたんだ。航平の心は感動にふるえた。


 プログラムの最終曲を終え、航平とバンドメンバーはいったんバックステージにさがった。コンサートの成功を4人の仲間とよろこびあう。ホールからは、アンコールをもとめる手拍子が、よせてはかえす波のように続いている。航平はメンバーにうなずき、1人でステージに戻った。


 大きな歓声があがり、リズミカルな手拍子が、盛大な拍手にかわった。客席は熱気につつまれていた。舞台照明がまぶしい。首のクラバットが暑苦しく、裾の長い衣装の下で、汗ばんだ背中にシャツがはりついている。


 航平は一礼してから、ピンスポットのあたるキーボードに進んだ。


「アンコールをありがとうございました。これから歌うのは、昔いたバンドで演奏していた曲です。『男と女のラブゲーム』のカバーを弾き語ります」


 すぐに、「待ってました」と声がかかった。


 ウォークインジグザク時代からのファンからもしれない。3年以上たっても覚えていてくれた。航平は思わず体が熱くなった。華との思い出の曲でもあるんだ。


「ぼくは昔、ホルスタインというバンドにいました。そのとき、このカバー曲を歌っていたのは奥村華でした。その華はもういません」


 それを知るファンも多いのだろう。ステージの近くの席で拍手がやんだ。それで雰囲気をさとったらしく、ホールの前方から後方に向かい、華を知らない客まで静かになっていった。みんな耳をすましているようだ。


「この曲がぼくに音楽をする楽しみを教えてくれたんです。華は天才的なシンガーでした。彼女の歌声を知っている人には、ぼくの歌はへたくそすぎるでしょう。せいいっぱい歌うので、最後まで聴いてください」


 最初のフレーズを弾きはじめると、ホールは静まりかえった。


 ――華、2400人の集客じゃ、ビッグバンドだなんて言えないけれど、その20分の1くらいは約束を果たしたんじゃないかな。さあ、ぼくといっしょに歌おう。


 航平は、華の存在を背中に感じながら歌いはじめた。


 全てのプログラムが終了し、航平と4人のバンドメンバーは楽屋に向かう。楽屋の前の廊下に人だかりがしていた。困惑した様子のスタッフにまじり、目つきのするどい5人のスーツの男が待ちかまえていた。


「桜木航平さんですね」年かさの1人に確認された。


「そうです」と答えると、男が警視庁捜査二課のものだと身分を明かした。


 警察がどうして? 航平には理解できなかった。激しく胸がさわいだ。


「1千万円の詐欺容疑であなたを逮捕します」


「それはなんの話ですか。ぼくにはまるで心当たりがありません。誰がなんの詐欺でぼくをうったえたんですか。きっとなにかの間違いです」


「あなたを告発したのはウォン・ミン氏です。花柳プロダクションは、ホルスタインの全20曲の著作権を、同氏に2千万円で譲渡する仮契約を結びました」


「違います。ホルスタインの曲の著作権は――」


「調べはついています。現在、その著作権はミューズクリエートにあります。つまり、花柳プロダクションには、それをウォン氏に譲渡する権利はないんです」


 ウォンと交渉にあたったのは鷺下だという。その仮契約にあたり、ホルスタインの著作権は、当時、所属していたSKIミュージックにおさえられているからと、その解除費用の1千万円を前金で求め、ウオン氏はそれを支払った。


「ぼくは知りません。あいつはなんて言っているんですか」


「それはわたしたちも聞きたい。花柳プロダクションを訪問すると、鷺下容疑者は逃げたあとでした。ひきつづき探していますが、いまだに行方不明です」


「――そんな」


 航平は、目の前が真っ暗になる思いだった。


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