4 好美とミューズクリエート
航平への中傷がネットに広がって炎上したのは、好美のせいだった。
「ごめんなさい。まさか、あんな大事になるなんて想像もしなかったの」
好美は、航平との見合いの経緯や、航平が故郷に迎えにいく約束について、自分のホームページに投稿したらしい。
「K市民会館のコンサートチケットが完売した日よ。それをホルスタインのホームページで知り、高山山麓乳業がスポンサーにつくきっかけをつくったのはわたしだって、強い気持ちがこみあげてきて、つい――」
ホームページに書きこんだ。その記事を見た誰かが、航平への中傷をツイッターに投稿し、それがネットにまたたくまに拡散したという。
「おおもとのわたしにも、もうどうする手立てもなかったの。航平くんのコンサートを妨害する気持ちなんてなかった。そんなSNSが恐ろしくなり、自分のホームページはその日のうちに閉鎖したわ」
「もういいよ。さかのぼれば、見合いを途中で逃げ出したぼくが悪い。あやまらなければいけないのは、ぼくのほうだよ」
好美に悪意がなかったと知り、航平は安堵した。上京した好美とケンカ別れをした7月から1か月以上たって、航平に対する中傷がネットに広がったいきさつがこれでわかった。
「わたしは航平くんの邪魔をしてしまった。中学生のころから航平くんの音楽の才能にはあこがれていた。そんな航平くんを少しでも応援したかったのに」
「いいんだ。好美の投稿でコンサートは中止にならなかったから。ぼくが開演のどたんばで投げだしてしまったんだ」
集中治療室のドアが閉まる瞬間にのぞいた華の顔が、航平の脳裏によぎった。それが彼女の最期の記憶になった……。
「ごめんなさい。わたし、なにか悪いことを言ったみたい」
航平が黙りこんだので、好美はその心中を察したようだ。
「違うんだ。ぼくは自分の音楽をたくさんの人に認めてもらいたくて上京した。その目標が実現するまぎわで、ああなってしまい、それが残念でしかたない。2000人の客でうまるホールが頭にうかんだから……」
そのコンサートが中止になった事情を知っているはずの好美は、本音だと思っていないだろう。好美は、航平の言葉にはこたえなかった。
2人は欄干にもたれて川上を眺めはじめた。
川の水量は少なく、川底がすけて見えるほどだ。その先で流れは暗渠にのみこまれていく。しめった風が吹きわたり、川沿いの柳の枝をたよりなくゆらす。うろこ雲を赤くにじませた夕焼け空が、好美の横顔も染めていた。
そのとき、着信音がやけに大きく響いた。
ふいの着信に航平はどきっとした。好美があわててハンドバッグを探る。おどろいたのは好美も同じだったらしい。取りそこないかけたスマホに注意をうばわれ、好美の腕からハンドバッグが落ちた。
「もしもし」好美が電話に出ながらバッグを拾いあげる。その足もとにカードが落ちていた。通話している好美は、自分の落とし物に気づいていないようだ。
航平はカードを拾いあげ、なにげなく表返した。
そこには〈ミューズクリエート〉の社名がプリントされていた。それは、K市民会館でのホルスタインのコンサートを主催し、航平のせいで大きな損害をこうむったコンサートプロデュース会社だ。
「スポーツクラブの会員証なの」
航平の手からカードが奪いかえされた。電話を切った好美が、
「お母さんから。わたしが東京で一人暮らしをしているのが、いつまでたっても心配らしいの。新しい就職先が決まったって報告したら安心したみたい」
航平が質問をする前に早口で答えた。
「好美とスポーツって、なんだかイメージに合わないね」
「中学時代のわたしとは違うの。10年あれば人は変われるでしょ。じゃあ、航平くんの再ブレイクを目指して、いっしょにがんばりましょう」
じゃあね、と好美が立ちさった。
そのうしろ姿を見送りながら、好美とミューズクリエートはどんな関係にあるのかと航平はいぶかった。好美にたずねたい気持ちはあるが、スポーツクラブと言っているんだから、ちゃんと答えてくれないはずだ。
その件は、忙しさにまぎれてうやむやになった。年内に200人~300人規模のライブハウスの出演が決まりだした。航平はその準備にかかりきりになった。
中堅レコード会社からCD販売の申し出もあったが、鷺下と相談のうえ、これはことわった。楽曲の販売はダウンロードに限定し、売り上げの重点をライブにおく方針は、いまのところ変えるつもりはない。
秋に配信予定のセカンドアルバムの収録曲が決まり、航平はMIDIキーボードの前で一息ついた。花柳プロダクションの2階の一室が、航平の仕事場だった。空調で揺れるブラインドの隙間から、真夏の陽射しがもれている。
「来年にコンサートツアーが決まったぞ」
鷺下がいきおいよくドアを開けた。くわしい内容は階下で話すという。
1階の事務室に降りると、パソコンの前の好美が航平に顔を向けた。眼鏡の奥の瞳がうれしそうで、鷺下の知らせをすでに聞いているようだ。
鷺下が、白いひげにおおわれた顔をほころばせて報告する。
「先月のアマデウス・リベレーションズのライブは、キーボード独奏のコンサートとしては異例の成功をおさめた。同じ主催会社の担当者から、来年の3月に全国の3か所をめぐるライブツアーをやらないかと打診された」
「やったね」好美がパソコンの前から立ち上がった。
航平は思わず好美と手を取りあった。成功のチャンスをよろこびあえる彼女の存在が、なによりの励みになった。
鷺下によると、来年のライブはキーボード独奏ではなくバンド編成で、ライブハウスの規模としては、先月と同じ800人から、1000人ほどを検討しているという。
「ツアーでめぐる都市は決まっているんですか」と航平はたずねた。
「まずは東京、それから大阪、福岡あたりじゃないか。まだ検討中だ」
「岐阜は候補にあがらないんですか」
「そういうことか。飛騨高山の牧場〈マウンテンファーム〉での凱旋ライブのときは、ボーカルが倒れて中止になったんだよな」
「凱旋と言えるほど成功はしていませんでしたけれど」
とは言うものの、故郷で自分をないがしろにしてきた相手に、メジャーデビューした姿を見せる機会だとはりきっていた。その会場で好美と再会したのだ。
事務机から、好美がこちらを見ているのに気づいた。
「あのときは、イベントに来てくれてありがとう。CMタイアップの裏事情は、好美のおじさんから聞いたんだ。本当は感謝すべきだったんだけれど、変な意地をはってしまった自分が恥ずかしいよ」
航平はあらためて好美にあやまった。
「おじさんには口止めしておいたのに。中学生のころから航平くんを応援していたし、その音楽活動にかかわりたいと望んでいたのよ。だからそれが叶い、こうしていっしょに仕事ができるのがとてもうれしい」
「ありがとう」航平は心から感謝した。
誰にも望まれない音楽を作曲し続けるのは、やはり寂しかった。故郷では牝牛を相手に牛舎でコンサートを開いた。そのころから、航平の才能を信じ、応援してくれていた人がいたんだ。
「なんだよ。いい感じになりやがって」鷺下が口をはさんだ。「おまえらデキてんじゃねえだろうな。華のときといい、ういた話はおれに内緒にしやがる。男と女のできあいなんかいくらでも見てるんだ。いちいち冷やかすかよ」
そんなんじゃないと航平は応じた。鷺下が笑いだし、事務室はなごやかな雰囲気になった。好美が見合い相手だったとは明かさなかった。
好美の帰りぎわ、航平は彼女を夕食に誘ってみた。
「ごめんなさい。きょうはこれからスポーツクラブの予約があるの。来週には航平くんにディナーをおごってもらおうかしら」
そうこたえた好美と、花柳プロダクションの出入り口で別れた。
航平の脳裏に、好美のスポーツクラブの会員証にあった社名がよみがえった。ミューズクリエートは、コンサートだけでなく、スポーツ事業も展開しているのだろう。好美とスポーツではぴんとこない。ダイエット目的だろうか。食事のおりにたずねてみよう。
翌週から、花柳ビルの1階の改装が始まった。リホームには1か月ほどかかるらしい。その間の会社業務は2階で行なう。航平と鷺下が居住するのは、いままでどおり3階だ。日中は業者のたてる騒音に悩まされるが、仕事の場を別に借りずにすむ。工事が終わるまでの辛抱だ。
そんなさなか、〈アマデウス・リベレーションズ〉の航平が、もとホルスタインのキーボーディストだったとネットであばかれた。さらに、航平がコンサートをなげだし、バンドが解散した経緯まで知れわたった。
その日、航平はずっとアルバム収録曲のアレンジをしていた。作業がひとだんらくし、パソコンで〈アマデウス・リベレーションズの〉のホームページを開くと、コメント欄に投稿されていたのだ。
いったい、誰が――?
午後7時をまわった事務所に、好美の姿はすでにない。好美がネットに暴露するはずがない、と彼女への疑惑を頭からふりはらった。
午後9時過ぎに戻った鷺下は、疲れきった様子をしていた。
「来年のツアーの話はまずいことになりそうだ。先方が開催に難色を示しだした」
鷺下が腰を下ろし、サングラスを外して目頭をもんだ。
「ぼくの過去についてですね」
航平は鷺下の向かいに座ってたずねた。
「おまえも見たか。ネットで炎上していたからな。いずれはばれると思っていたが、嫌なタイミングで情報が広がったもんだ」
「2年近く前に、ぼくがどたんばでコンサートをほうりだしたから、また同じ事態が起こるんじゃないかとうたがわれているんですね。あのときは華が事故にあい、ぼくはそれどころじゃなかったんです」
「わかっている。華に必要な血液製剤が足りず、おまえは輸血にそなえて待機していた。担当者にはそう話しておいた。おまえからじかに話を聞きたいらしい。明日、おれといっしょにイベント会社に行ってくれないか」
「わかりました」とこたえた航平の気持ちはしずんでいた。
航平の血液の提供は病院側から断られていた。航平が集中治療室の前で待っている理由は、かならずしもなかったのだ。それをバカ正直に話す必要はない。それでも、一度うしなった信用を取り戻せるか心配だった。
翌朝、航平は鷺下と連れだって花柳プロダクションを出た。出入口のガラス戸を出たところで、出勤してきた好美と鉢合わせた。鷺下が、イベント会社に出向くむねを好美に知らせ、簡単に仕事の引継ぎをした。
「航平くん。わたし――」
先にたった鷺下のあとを追おうとして、好美に声をかけられた。
「わかっている。いつかはあばかれることなんだ」
航平はそれだけ言って歩きだした。
好美の表情から、彼女も事態を承知しているらしいとわかった。
航平くんの過去を暴露したのはわたしじゃない――好美の目がそう語っているようだ。当たりまえだ。全国ツアーの決定をあれだけ喜んでくれた好美が裏切るはずがない、そう航平は自分に言い聞かせた。
電車に揺られながら、さまざまな考えが頭を駆けめぐる。
ホルスタイン時代に大切なコンサートをふいにしたミュージシャンが、音楽業界に復帰するのはやはり無理なのだろうか。損害をこうむったSKIミュージックやミューズクリエートは、航平をこころよく思っていないはずだ。航平の再デビューを邪魔しようとさえするかもしれない。
ミューズクリエート――好美が落としたスポーツクラブの会員証にプリントされていた社名が、くりかえし航平の脳裏をよぎる。
ふくらむ疑念をふりはらい、航平は先方の担当者にする説明を頭のなかではんすうする。思考はあの会員証へ戻る。航平の気持ちは乱れ、理性的に物事を考えられない。航平は、ぎゅっと目をつぶった。
イベント会社の会議室で、コンサートに出られなかった経緯を航平は説明した。
「わたくしどもから声をかけておきながら、まことに申し訳ないですが、来年の全国ツアーの話はなかったことにしてください」
話しあいのすえ、主催会社側が出した結論だった。またの機会にいっしょに仕事をしましょうと担当者は言ってくれたが、そのチャンスはもはやないだろう。
イベント会社のビルを出て、地下鉄の駅に向かった。
「常識的な判断だろうな。そんなに気を落とすなよ。音楽業界は広いんだ。航平を使おうという変人が、どこかにいないとも限らない」
鷺下の言葉はなんのなぐさめにもならなかった。音楽業界の厳しさをひしひしと感じさせられただけだった。
航平は重い足どりで花柳プロダクションの出入口をくぐった。
事務室で帰りを待っていた好美は、航平と鷺下の様子から、話しあいの結果を予想できたらしい。好美が目つきで報告をうながしてくる。
「だめだったよ」とだけ航平はこたえた。
「落胆することはないぞ。プロモーションは始まったばかりだ。そう簡単にうまくいくわけないだろ。気持ちを切りかえて次の機会にそなえよう」
鷺下が明るい口調ではげました。鷺下の無理につくった明るさは、いまの事務室の雰囲気にはそぐわなかった。
その週は、新たなチャンスを求める宣伝活動についやされた。鷺下は多くのイベント会社に足をはこび、好美はインターネットでの業務をこなした。航平の過去がわれると、皮肉なことにネットのアクセス数は上昇した。利用者の興味をひいただけでなく、かつてのホルスタインのファンも呼びこんだ。
マネージメントに関して、航平のする仕事はない。事務所の作業室に閉じこもり、セカンドアルバムの完成に気持ちを集中させた。
階下では改装作業が続き、その騒音に航平はいらだたされた。来週から外壁の塗装が始まるという。建物の周囲に足場が組まれ、壁はビニールシートにおおわれる。航平の部屋は空調がきいているが、窓が青いシートでふさがれるのを思うと、気分までふさいだ。
そんな花柳ビルの状況がうとましいのか、営業が忙しいのか、鷺下は、日中はビルに寄りつかなくなった。改装費用の借金は、コンサートツアーの収益で完済するつもりだった。ツアーの話がなくなり、資金の調達を急ぐ必要があった。
その日、終業時間を過ぎてから事務室に入ると、好美はまだパソコンの前にいた。〈アマデウス・リベレーションズ〉の専用チャンネルが開かれていた。
「おつかれさま。マネージメントをまかせっぱなしで申し訳ない」
航平はそう声をかけた。
「いま上がるところだったの。それに、これがわたしの仕事だから。航平くんは新しいアルバムの制作に専念しないとね」
好美がユーチューブの画面を閉じた。
「きょうはこれからスポーツクラブだったよね」
えっ? と好美はふいをつかれたらしい。それでもすぐ、
「いけない、忘れていた。クラブは、花柳プロダクションの最寄り駅と同じ路線にあるから、これから出かければぎりぎり間に合うかもしれない」
そうこたえ、あわてて帰り支度をはじめた。
なんだか言いつくろったように航平には感じられた。ミューズクリエートの会員証が心にわだかまりをつくっていた。好美はなにかを隠している、そんなうたがいがふかまり、航平を落ち着かなくさせる。
「それじゃあ、お先に失礼します」
好美が事務室のドア口からあいさつする。
「おつかれさま」航平の返事はうわのそらになった。
「あれから食事に誘ってくれないのね。今日はジムの予約があるけれど」
好美が、航平の返事を待たずに出ていった。
コンサートツアーが立ち消えになり、航平は食事どころではなかった。なにより好美への不信で心が乱れていた。
航平は事務机のパソコンでミューズクリエートのホームページを開いた。その事業内容はコンサートのプロデュースを主に、新人の発掘、育成と音楽関係に限られている。スポーツに関する事業はいっさい展開していなかった。
好美はどうして嘘をついたのか。こんなもやもやした気持ちのままでは仕事にならない。好美の行き先をつきとめよう。
航平は花柳ビルをとびだした。夕暮れどきの川沿いの道に好美の姿はなかった。好美はスポーツクラブに通うのに、花柳プロダクションの最寄り駅と同じ路線を利用していると話していた。航平は駅に急いだ。
小さな太鼓橋を渡って、しばらくすると大通りに出る。その先が目指す駅だ。道行く人のなかに好美らしき女性は見当たらなかった。好美は遅刻しそうだとあわてていた。もうホームに出てしまっただろうか。
駅舎が見えてきたところで、航平は好美に電話した。
「もう電車に乗った? 改札口の前にいるんだね。急いでいるのに悪いんだけど」
以前にイベントを主催した会社の担当者の名前をあげ、その連絡先をもとめた。
「その携帯番号なら、連絡先に登録してあるはずよ。ちょっと待ってて。担当者の番号を調べて、おりかえし電話するから」
航平はスマホを手にしたまま、点滅しだした横断歩道を足早にわたった。駅構内に入ったところで、好美から着信があった。
「わざわざありがとう。いまメモするよ」
航平は電話しながら、乗降客のあいだを目で探る。旅行パンフレットのラックの前に、携帯を手にした好美がいた。航平は売店で商品を選ぶふりをする。
好美は通話を終えたあとも、スマートフォンを操作している。
「お兄さん、買うの? 買わないの?」
売店のおばさんが、ガムを手にしたままの航平に苛立ちの視線を向けている。航平は「じゃあ、これを」とICカードを取りだした。
そのとき、スマホをしまった好美が、速い足どりで改札を抜けた。航平はICカードでガムの代金を支払い、あわてて好美のあとを追った。
プラットホームにおりると、好美が電車に乗りこむところだった。ホームをはさんだ向かい側を急行電車が走りぬける。発車のサイン音がした。航平は、好美と同じ車両の別のドアから乗車した。
車内の座席はうまっていた。はすむかいのドアの近くで、つり革につかまった好美がスマホをのぞきこんでいる。電車が動きだした。
航平は、好美に背中を向けて乗降ドアに身をよせた。夕暮れの暗い車窓に、電話で話す好美がうつっている。その相手はミューズクリエートの関係者だろうか。
5つ先の駅で好美がおりた。時間を気にしているようだ。
航平も別のドアからおり、エスカレーターに乗った好美のあとをおった。10人ほどの列をはさんで、好美のジャケットのうしろ姿がのぞいている。好美の行き先はスポーツクラブじゃない。では、どこに向かうつもりなのか。
改札を抜けた好美が、行きかう人の波にのまれる。航平は彼女を見うしなわないように、人の流れをかきわけて進んだ。ICカードをタッチしたとたん、警告音がして自動改札のゲートが閉じた。
航平は、あっと足止めされた。カードの残高が100円不足していた。
ICカードをチャージした航平は急いで改札を通る。好美が向かった先の出口から駅舎を出たが、宵闇のせまる往来に彼女の姿は見当たらなかった。
続




