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ふつうの人  作者: 佐久間ユウ
第3部 再生
22/30

1 航平の再デビューをはかる

 救急病院を出て自宅マンションに着いたのは、午後9時過ぎだった。7時くらいまで、華の眠る霊安室で過ごしていた。コンサートが開催されていれば、いまごろ打ちあげて盛りあがっているころだ。ホルスタインの楽曲はキーボードなしではありえない。公演は中止になっただろう。


 コンサートの開催に関わったスタッフに、どう謝罪したらいいかわからない。バンドのメンバーには合わせる顔がない。ファンのみんなには申しわけない気持ちでいっぱいだ。プロデューサーの坂井は激怒しているだろう。


『――おれがどんなに努力したって、最後の最後でミュージシャンがその役目を果たさなかったら、なにもかもおしまいだ。おれはそんな人材と仕事はできない』


 華を首にしたとき、坂井はそう話していた。


 このさき坂井になにを言われようと、いまさらどうでもよかった。華の不慮の死で頭がいっぱいで、彼女のことしか考えられない。華の生前の姿を思いえがくと胸がつまって息苦しくなる。


 翌日の昼過ぎ、華とならんで座っていたテレビの前で膝を抱えていると、ドアホンが鳴った。名前を呼んでいるのは、どら猫とウッディだ。


「華の事故は警察から聞いた。まずは開けてくれ、」と、くりかえしていた。


 航平はその呼びかけを無視した。華の死について誰とも話したくない。


 しばらくして、「おまえのキーボードをドアの横に置いていくから」と言いおいて静かになった。


 コンサートの中止はホルスタインのホームページで知った。航平の急病のためと発表されていた。チケットの代金は、後日、払い戻されるという。主催会社のミューズクリエートは大きな損害をこうむるはずだ。航平とバンドの所属する音楽事務所はその責任を問われるだろう。


 ツイッターには、ホームページの発表とは異なる噂が流れていた。


『航平は病気じゃない。その恋人が事故にあったんだ』『出血多量の恋人に自分の血液を提供していて、コンサートに間にあわなかったらしいよ』


 どこから情報が伝わったのか、そんなつぶやきが広がっていた。


 航平は血液提供を病院に断わられたんだから、でたらめもいいところだ。輸血がもっと速かったら、華は助かっていたかもしれない。いまさら悔やんでも、華の命はとりかえせないんだ。


『コンサートを投げうったバンドヒーロー』そんなツイートもあった。


 ぼくはヒーローなんかじゃない。華を助けられなかったんだから――。


 あの日、航平は病院の霊安室で華と過ごした。白い壁にかこまれた薄暗い個室には、線香の香がただよっていた。寝台の華の顔には、白い布がかけられていた。華が死んだなんて信じられなかった。その布に手をのばそうとしたとき、警察の人間が入ってきた。華の持ち物を確認してほしいという。


 華のハンドバッグにあった品物のなかに、外付けのハードディスクがあった。航平が自宅に忘れ、華に届けてもらうはずだったものだ。その小さなディスクを手にしたとたん、熱い涙がこみあげてきた。


「彼女の遺品をご遺族にお返ししたいんですが」


「遺品って言うな!」


 静かな霊安室に航平の声が響いた。航平は顔をおおって椅子にかがみこんだ。警官はなにも言わず、ハンドバッグを持って立ちさった。


 事故をおこした運転手が危険ドラッグを使用していたとテレビ報道で知った。薬物の入手経路を突きとめるのは、使用者が亡くなっているので難しいという。怒りを向ける相手も、この世にいないんだ。


 事故の2日後に、華の両親が航平の部屋をおとずれた。華の持ち物を選んで梱包している母親が泣きくずれ、父親がその肩を抱いてなぐさめていた。


 華について語りあいたいことはいっぱいある。航平はそのどれも言いだせなかった。華の両親も同じだったらしく、たがいに黙礼して別れた。


 事故から1週間がたち、今日も1日中、航平は自宅にこもっていた。


 部屋はがらんとしていた。華の持ち物がなくなっても、華と暮らした思い出はつまっている。航平の目には華の姿がのこり、耳には彼女の声が響いている。ここに閉じこもっていたら、華への想いで押しつぶされそうだ。


 マネージャーの細田からメールが届いた。もとボーカルの華の追悼公演として、同じK市民ホールでコンサートを開きたいという。中止ではなく延期という形にして、チケット代の払い戻しをさけたい、そんな内容だった。


 航平が輸血のためにコンサートをなげうった『美談』としてネットでささやかれている。その流言を利用するつもりなんだ。チケット代の払い戻しをさけようと、華の追悼公演という善後策を思いついたんだろう。


 そんなの、まっぴらごめんだ。


 ホルスタインは脱退する。バンドの仲間や、音楽プロダクションの関係者が、航平の決意を変えさせようと、この自宅をおとずれるだろう。その全てから逃れたい。音楽と関係のない世界に行きたい。

 

 航平はアパートの部屋を引きはらう決意をした。


 華の死とともに、航平は心からホルスタインを消失させた。彼女と約束した、ビッグネームにするバンドはもう存在しないんだ。


 必要な荷物はたいしてなかった。ノートパソコンをボストンバッグにしまい、音楽機材をキャリーカートにのせ、キーボードをおさめたケースをかつぐ。あとは、華との思い出だけで充分だ。


 航平がアパートを出て半年が過ぎるころには、レコード店からホルスタインのCDはなくなった。中古販売店の500円コーナーで、たまにアルバムを見かけた。1年が経過すると、販売店からも、リスナーの記憶からも、その名前は消えさった。


                 * * *


 東京に来て2度目の紅葉の時期が去り、季節はさらに冬から春へ移りゆく。航平は、六畳一間にキッチンとユニットバスのついた、月7万のアパートを新居にさだめた。室内には、楽器とその機材、パソコンの他にCDコンポがあるだけだ。電化製品といえば、小型冷蔵庫とヒーターと扇風機くらいしかない。


 4月のはじめ、航平は夕方からストリートライブに出てみる気になった。ストリートに立ちはじめたのは去年の12月からだ。家賃がとどこおり、部屋にいづらくなったのがそのきっかけだった。


 華を思いだすキーボードはずっとしまったままになっていた。アルバイトは音楽と関係のないものを選んだ。それでも、鍵盤に触れたい気持ちは日ごと高まり、自分には音楽しかないと、あらためて思いなおした。


 バイト以外のひまな時間はモーツァルトの音楽を聴いて過ごした。岐阜高山の神童と言われていたころ、母親がよく聴かせてくれた。中古販売店で購入したモーツァルトのピアノソナタを20年ぶりにかけてみた。


 シンプルな音がよどみなく流れ、無限のメロディを生みだす。心があらわれるようだった。短調の曲では一転、激しい感情の爆発となる。モーツァルトの無邪気で明るい作風とのコントラストが胸をつく。2世紀以上も昔の音楽が、現代人の心をゆさぶるのに、あらためておどろかされた。


 空のきわが夕陽のオレンジ色にそまるころ、航平はアパートを出た。キーボードをかつぎ、小型アンプとスタンドの入ったキャリーカートを引く。向かった先は上野だ。警察の目がわりあい甘いとツイッターにあがっていた。


 上野駅に近い銀行の、下りたシャッターの前で、航平はキーボードを演奏しはじめた。歩行者の行方や警察の有無を絶えず目でさぐる。午後6時前、会社帰りの人が駅に向かう時間だが、ほとんどの通行人が素通りだった。


 ホルスタインがブレイクしたころなら、すぐに人が集まり、警察によるストップがかかった。そのバンドのキーボーディストだった航平に気づく人はいなかった。ホルスタインというバンドがあったことすら、忘れられているのだろう。


「おい、路上でのライブ行為は禁止だぞ。すぐに楽器を片付けるんだ」


 航平はハッと周囲をうかがった。警官の姿はなかったはずだ。


「こっちだ。航平」


 航平が背にする銀行の壁ぎわに消火栓があり、そのそばに初老の男が立っていた。白い髪をうしろになでつけ、口からあごのまわりまで白いひげにおおわれている。サングラスをかけ、コーデュロイの上着に、すりきれたジーンズだ。白髪が年寄りの印象を与えるが、実際はもっと若いかもしれない。


「おれだよ。忘れちまったのか。つめたいやつだな」


 男が近づいてくる。その話し方と声には覚えがあった。男がサングラスを持ちあげ、警戒するような目つきを航平に向けた。


鷺下(さぎした)さん」航平はおどろいた。


「バカ。大きな声で言うな」


 鷺下が慌ててサングラスをかけ、あたりをうかがう。まるで誰かに追われているかのようだ。鷺下は安心した様子で、航平に向きなおった。


「いまは鶴野(つるの)と名乗っている。まあ、いろいろとあったんだ」


「それで、ひげも髪を白くなってしまったんですね」


「バカ、違うよ。白髪は50代のころからだ。前は染めていたんだよ」


 鷺下が、白いひげにおおわれた口角を上げてみせた。


「〈バー・ヘロン〉が閉店して、ずっと心配していたんですよ。1年半も、どこで、なにをしていたんですか。やっぱり、ふみたおした借金……」


「まあ、待て」と鷺下がさえぎる。「往来で話す内容じゃない。とにかく会えてよかったよ。華が急死してから、おまえは行方不明になっていただろ。おれはずっと航平を探していたんだ」


「ぼくを?」鷺下が探していたと聞いて不思議に思った。


 そうだ、と鷺下がうなずいた。


「華の事故は気の毒だった。音楽をやめたいとも考えただろう。おまえから音楽をとったら、ただの変人だ。きっとストリートに立つ、おれはそうふんだ。路上ライブの盛んな場所を訪ね歩いたが、なかなかおまえには出会えなかった」


「ライブを始めたのは去年の12月からなんです」


 航平は口をはさんだ。


「だったら、それ以前の半年間は無駄足だったんだな。とにかく雲をつかむような話だろ。まずは、航平が上京した日にライブをした東京駅の帰宅時間帯に狙いをさだめた。あのあたりでストリートライブをするやつはあまりいないけどな」


 東京駅周辺では航平を見つけられず、神田駅、秋葉原駅と渡りあるいた。


「そうしてようやく、上野駅でビンゴしたわけだ」


「どうして、ぼくを探していたんですか」


「立ち話もなんだ。どこか、酒の飲める店で話そうじゃないか」


 航平はうなずいて楽器を片付け始めた。


 アメ横のガード下の飲み屋に入り、サラリーマンの客と肘突き合わせるほどせまい店内で、鷺下と差しむかいに座った。周囲の声がうるさく、生ビールを注文するにも声をはりあげる必要があった。低い天井を揺らし、しきりに電車の走行音が行きかう。鷺下は、ずいぶん騒がしい店を選んだものだ。


 航平は、ジョッキの生ビールで鷺下と乾杯した。


 航平がビールを飲む姿に鷺下はおどろいたらしい。「ミルクは卒業したのか」と問われ、「いろいろあったから」と航平は答えた。


「そうだな。人生いろいろあるよな」


 鷺下が自分に言い聞かせるようにつぶやき、やにのしみ込んだ天井をあおいだ。店内には煙草の煙が充満している。航平は、煙にしみたまぶたをまたたいた。焼き鳥が運ばれると、2人はそれをつまみに飲んだ。


「1年半前のコンサートは残念だったな。せっかくのチャンスだったが、華を救うためにそれをふいにしたとツイッターでつぶやかれていたぞ。華と同棲していたのも、それで知った。おれに黙ってやがったな」


 鷺下が、ひげについた泡をぬぐった。


「鷺下さんに冷やかされるからって、華に口止めされていたんです」


「あんがいそれで、おれのマンションを出る決意をしたんじゃないのか。〈バー・ヘロン〉に出演しているころから、とっくにできてたんだろ」


「違います。付きあい始めたのはメジャーデビューしてからで、失業した華がぼくの部屋に押しかけてきたんです」


「そうむきになるなって。男と女のあいだにはなんだって起こりえる。自分の恋人の命を助けるため、自分の血液を提供したという噂は本当か」


「いえ、ぼくは提供を申し出たんですが、病院側に断わられました」


「そうだろうな。だが、輸血のデマが世間に広まったのは幸いだったな。SKIミュージックは、コンサート中止の損害を個人的には請求しづらくなったんだろう。その情報を流したのは航平じゃないのか」


「そんなわけないですよ」航平は声をあげた。


「冗談だって。怒るなよ。それほど企業にあたえるネットの影響は大きいと言いたいんだ。アパートから姿をくらましたあと、どうしていた?」


 しばらくは貯金とアルバムの印税で暮らしていたと航平は話しだした。生活費が底をついてくると、アルバイトで食いつないだ。キーボードは押入れの上段の棚にしまったまま、手もふれなかった。アパートにいるときは、よくモーツァルトのピアノ曲を聴いて過ごした。


 19世紀の偉大な作曲家の名前が出ると、鷺下が口に運ぼうとしたジョッキの手を止めた。目を細めてなにか考えこむ様子になった。


「モーツァルトのピアノ曲は弾けるか」と、きいてきた。


「わりとシンプルなメロディなので、10代のときに暗譜した曲もあります。楽譜さえ買えれば、演奏できると思います」


 航平はそう答えながら、鷺下の質問の意図がよくわからなかった。


 そうか、と鷺下がうなずいてから話題を変える。


「やはり、音楽が忘れられないんだろ。華を思いだすからと、いったんはしまいこんだキーボードを引っぱりだし、ストリートライブをするようになったんだからな」


「それは家賃の払いが遅れていて、部屋に居づらくなったから」


 航平はそう言ってジョッキに目を向けた。


「そりゃあ口実だ。アパートにいづらいなら、ネットカフェにでも行けばいい。肌寒い駅前に立つ必要はないんだ。音楽を断念したなら、実家に帰って牧場を継げばいい。市民ホールで2000人を前に演奏する間際までいった。自分の音楽が受けいれられ、満場の賞賛をあびるところだった。その機会を逃したのを、心のどこかであきらめきれないでいる。違うか」


「チャンスをものにできない人間に、幸運の女神は二度とその機会を与えない。華がそう言っていました。ぼくは好機をものにできなかった」


「華が心配でコンサートどころじゃなかったんだろ。すんだことをくよくよするな。航平が音楽をやめると聞いて、あの世の華がよろこぶと思うか。おまえだって、あいつの性格はわかっているはずだ。ぶん殴りに化けて出るぞ」


 そうかもしれない、と航平はうなずいた。


 ――音楽は続けろよな。あたしのせいであきらめるなんて言ったら承知しないから。あたしのためにビッグアーティストになってみせろ。


 華の声が聞こえてくるようだ。


 けれど、と航平はジョッキを見つめたままつぶやく。


「ホルスタインというバンドはもうありません。いまさらSKIミュージックに出向いたって、坂井さんにあわせる顔がないです」


「坂井なんてどうだっていいんだ。こんどはおれと組んでみないか」


「――えっ」航平は顔を上げた。


「おれが航平をプロデュースする。おれは幸運の女神じゃないが、もう一度、自分の才能を東京で試してみないか。どうだ?」


 ――鷺下さんが、ぼくをプロデュースする。


 航平はすぐには返事ができなかった。音楽業界から転落した航平を、そう簡単に再デビューさせられるものだろうか。それとも鷺下さんは、なにかレコード会社や音楽プロダクションにこねやつながりがあるのだろうか。


「あてなんかない。おれと航平の2人きりでの再スタートだ」


「そんなの無理ですよ。たとえぼくに音楽の才能があったとしても、それだけではこの業界でビッグネームにはなれない、そう言ったのは鷺下……」


「バカ。おれは鶴野だ。たのむから間違えないでくれよな」


「すみません」と航平は店内をうかがった。


「心配するなって。誰も聞いちゃいないから。たくさんの人間が騒いでいる場所のほうが、内密の話をするのに向いているんだよ」


「内密の話、ですか」と航平はききかえした。


「あんたのプロモーションについてだ。順をおって話す。多額の費用をかけた大手レコード会社の宣伝はもはや時代遅れだ」


 航平はハッとした。同じ見通しを坂井プロデューサーも話していた。


 インターネットの影響はますます大きくなると鷺下が続ける。


「ネットでの楽曲の公開、ダウンロード、オンライン販売はさらに拡大する。デジタル技術や機器の進歩により、誰でも安価に原盤制作がきるようになった。個人の設立したレーベルで、大手レコード会社に負けないデビューが果たせる時代なんだ。ネットの力はメジャーレーベルさえ打ち負かすだろう」


 熱く語る鷺下の顔が赤く染まっているのは、酔いのせいばかりではなさそうだ。


 ソーシャルネットワークの影響力は航平も実感していた。ホルスタインの人気に火がついたのも、SNSの情報拡散力によるものだ。逆に、航平の醜聞がささやかれれば、CMタイアップがなくなり、コンサートの開催を危うくさえした。それほどの力がインターネットにはあるのだ。


「つまり」航平は理解した。「新しいレーベルでぼくを再デビューさせようというんですね。確かに時代は変わったと思います。インターネットの宣伝効果はバカにできません。けれど、ネットには情報があふれています。無数にアップされるもののなかから、リスナーの興味をひけるでしょうか」


 航平は、とてもうまくいかないと感じていた。


「そうだな。なにか利用者の目をひく要素が必要だ」


 鷺下は航平と話していて、あるストーリーを思いついたという。


「音楽業界から転落した航平は、音楽以外はなにもできず、仕事にあぶれて貧しい生活をしていた。そして去年のクリスマスに、飢えと寒さで高熱を出して路上に倒れた。そこを通りかかったおれにひろわれたわけだ。熱がおさまり、目を覚ました航平は、大変な事実を思い出した」


 鷺下が言葉を切り、航平の目をのぞきこむ。


 航平は続きを待った。


「自分は、ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトであると」


 鷺下に大まじめな視線を向けられ、航平は絶句した。


 轟音とともに天井が揺れて、電車が通過した。近くで笑い声があがる。誰かが浪花節をがなる。乾杯の音頭が上がり、歓声がする。航平と鷺下のジョッキは空になっていた。鷺下が大声で店員を呼んだ。


 鷺下さんは本気で言っているんだろうか?


「モーツァルトは200年以上も昔に死んでいるんですよ。その墓だってあります」


 航平は、まっとうに応じていた。


「現在、サンクト・マルクスのモーツァルトの墓に、その遺骨はない。妻のコンスタンツェが墓堀りに金だけ渡して丸投げにしたから、モーツァルトが埋められた場所は不明だ。没後百年に中央墓地に墓が移されたさい、遺骨は完全に行方不明になった。モーツァルトが死んだ証拠はないんだ」


「毒殺されたという検視の記録があったんじゃなかったですか」


「遺体がひどくむくんでいたから毒殺がうたがわれたんだ。つまり、人相なんかはわからなかった。よく似た別人だった可能性だってある」


「くわしいですね」航平は感心した。


「おれは音楽教師だったんだぞ」と鷺下が相好をくずし、「いちいち真にうけるなって。航平がモーツァルトの生まれかわりだと証明する気はない。話題づくりだ。おまえの演奏をネットにアップするさいの衣装は決めてある。白いかつらに、赤いジャケット、首にクラバットを巻き、半ズボンにタイツだ。音楽の教室にモーツァルトの肖像画があっただろ」


「それじゃあ、頭のおかしい人ですよ」


「航平は平均的に見ても変人だから、そこは気にするな。高熱のために頭がいかれたというわけだ。ユーチューブで動画を閲覧した人は面白がるぞ」


「みんなに変人だとからかわれて、それでおしまいですよ」


「そこなんだ」鷺下の口調に力が入る。「前におまえと義男とをキーボード演奏で対決させ、勝敗を客の投票で決める企画をたてた。その対決ライブは大当たりし、〈バー・ヘロン〉はかつてない売り上げを記録した。モーツァルトのコスプレをするだけでなく、大衆の興味をひくイベントが必要だ」


 そういえば、と航平は義男との対決を思い出した。


「そこでだ」と鷺下が続ける。「ホルスタインがメジャーデビューしたきっかけは、義男の覚せい剤事件だ。バンドの人気はハプニングのたびに高まり、ついにブレイクした。だからこんどは――」


 鷺下がいったん言葉をきり、


「こっちから事件を起こすんだ」


「おまち」生ビールが届いた。ガード下の店内は相変わらずざわついている。航平は多聞がはばかられ、周囲の耳が気になった。声をひそめて、


「こっちからって、ぼくになにをさせるつもりなんですか」


「まあ、飲もうじゃないか。飛騨高山の神童に――」


 乾杯と音頭をとられ、航平はしぶしぶ鷺下とジョッキを合わせた。



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