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ふつうの人  作者: 佐久間ユウ
第2部 発展
21/30

8 ホルスタインの単独ライブは開催なるか

 翌日の夕方、航平の携帯に坂井プロデューサーから電話があった。いきどおりもあらわに、SKIミュージックにすぐ来いとどなりつけられた。


 音楽プロダクションのビルに着いたのは午後5過ぎだった。会議室で待っていた坂井は、浅黒い顔を赤レンガ色にそめ、目に怒りをたぎらせていた。


「ホルスタインのホームページに、きみが婚約者を裏切ったという非難が殺到している。その情報源はツイッターらしい。これはいったいどういうことなんだ? 心当たりはあるのか。どこまでが真実だ?」


「すみませんでした」


 坂井と顔をあわせた航平は、まずは頭を下げた。どんな言いわけをしても通じないだろう。ここは正直にいきさつを話したほうがいい。


 航平は岩井好美との見合いから逃げて上京した。好美はそれを、航平が東京で成功したら彼女を迎えにいく約束をしたと周囲に言いつくろっていた。


「つまり、おおもとは岩井好美らしいと言うんだな。きみが東京に来て10か月がたつんだろ。いまになって、どうしてそんな話題がネットで飛びかうんだ」


 7月に上京した好美が、航平のマンションをおとずれ、そのときの話し合いがものわかれになったと航平は打ちあけた。いまは8月だ。好美が情報源だったとして、ネットに流れるまでに1か月かかったのは、やはり不可解だ。


「7月に好美さんと再会したとき、彼女をうまくなだめられなかったのか」


「つい感情的になってしまったんです。ネットの噂は真実ではありません」


 航平は強くうったえた。


「きみは好美さんとの見合いから逃げた。いまは奥村華と暮らしている。きみを訪問した好美さんとはものわかれになった。それだけ事実がふくまれていれば充分だ。尾ひれはいくらでもつく。ネットに広がった噂を利用者がどう受け止めるか、それが問題なんだ。きみのイメージはガタ落ちだろう」


「すみません。ホームページで真実を……」航平は口をつぐんだ。


 好美の嘘をあばいたら、それが世間に知れわたってしまう。これ以上、彼女を傷つけたくない。航平への中傷をネットに流したのが好美だったと決まったわけじゃないんだ。


「いまさら釈明しても遅い。高山山麓乳業はコンサートの協賛をおりると言いだした。ヨーグルトのCMタイアップもなくなったよ。高山さんの販路は家族層だ。きみのふしだらなイメージを商品に与えたくないんだろう」


「ふしだらだなんて。好美さんとのいきさつは、いま説明したとおりです」


「真実なんて関係ないんだよ。顧客の受ける印象が全てだ。新聞社やテレビ局など関連企業からの協賛はあるが、高山山麓が降りたのはいたい。主催のミューズクリエートもコンサートの開催に難色をしめしだした」


「それじゃあ、中止になるかもしれないんですか」


 航平は思わず立ち上がり、長テーブルに両手をついた。


 坂井は椅子に深く腰を下ろすと、眉間に深い皺を寄せて見上げてくる。


「いまさら中止できないところまで、コンサートの準備は進んでいる。完売したチケットを払い戻すわけにもいかない。スタッフの数を減らすなどして経費を調整する必要がある。午後はずっとミューズクリエートの本社で話し合っていたが、うちが拠出金を増やす方向になりそうだ」


 すみません、と航平はくりかえすばかりだ。


 あんな小さい携帯端末であらゆる情報が流れ、数えきれない利用者に拡散する。SNSのもつ絶大な力を、航平はあらためて思い知らされた。


「ネットの火消しはこっちでする。余計なことはいっさいするな。きみの役目はステージでの演奏だ。音楽に専念していればいい。わかったな」


「わかりました」航平は会議室を出た。


 坂井にとって航平はビジネスの材料だ。2000人を収容できる市民ホールでのコンサートに、どれほどの予算が必要なのか、航平には想像すらできない。その莫大な金の流れのなかで、航平の才能は小さなものでしかない。誰のために音楽を続けているのかと、むなしさをおぼえた。


 自宅マンションに帰った航平は、華に事態を説明した。


「坂井さんから、さんざんしぼられたよ」


「コンサートは中止にならなかったんだろ。どうして、そんなにへこんでるんだ」


「坂井さんやプロダクションのスタッフ、主催会社に大きな迷惑をかけたから」


 航平は、テレビの前でビールを飲む華とならんで座った。そのそばには、空き缶が3本転がっている。華がうまそうにビールをあおってから、


「航平にはふせげなかった展開だろ。そんなに気にするなよ」


「そうだけどさ」航平はため息をついた。


 航平を中傷する、おおもとのツイートはわからなかった。あるいは、他のSNSの書きこみを見た第三者がつぶやいたのかもしれない。好美がその情報源だった可能性が、航平の心にわだかまりをつくっていた。


 もしそうだったとして、好美に悪意があったとは思いたくない。それほど彼女を傷つけていたんだ。好美でさえ、自分がネットにあげた内容がここまで拡散するとは予想していなかっただろう。増殖しだした情報は、それを発信した本人であっても、もはや止められないんだ。


「好美さんのことを考えているのか?」


「えっ。なんで、わかったの」


「会話の流れと航平が黙りこんだタイミングから。好美さんが犯人だって決まったわけじゃないんだ。不確かな根拠をもとに悩むのはバカらしいって」


「犯人だなんて言い方はしないでくれよ」


「ごめん。悪かった。いずれにしても事態はもう航平の手を離れたんだ。坂井が言うとおり、航平は、コンサートで演奏する音楽に専念すればいいよ。金もうけのためにあれこれ考えるのは、あいつらの仕事なんだからさ」


 華らしいさばけた意見に、航平の気持ちは少し軽くなった。


「わかった。華がそばにいてくれてよかったよ。ぼく一人だったら、なんでも自分でかかえこみ、その重みにつぶされていたかもしれない。華となら、どんな困難だって乗りこえられそうだ」


 航平は心からそう思った。


「うれしがらせるなよ。世界中を敵にまわしても、あたしは航平の味方だ」


「ありがとう」航平は華の肩をそっと抱きよせた。 


 華と知りあい、彼女との演奏を通じて音楽の真の楽しさを知った。華がバンドを脱退して、自分の音楽にとって、彼女がどれだけ大切な存在だったか痛感した。そしていま、航平にとっても華はかけがえのない女性だと実感した。


 盛夏が過ぎるころには、航平の悪い噂はネットから消えた。ホルスタインのホームページに寄せられる非難もなくなった。坂井が事態の収拾にはげんだのだろう。発信者からのさらなる中傷はなく、このまま騒ぎは消息しそうだ。


 コンサートの開催をあやうくさせる事態ではあったが、ホルスタインの名を広める結果にもなった。完売したチケットの問いあわせが殺到し、それをうけて、10月に追加公演が決まった。そのチケットもまたたくまに売りきれた。高山山麓乳業の協賛金のうめあわせができるほどの売り上げになった。


 あれから岩井好美は航平の前に姿をあらわさず、電話もかけてこなかった。


 9月の第2水曜日にニューアルバムが発売された。オリコン初登場72位を記録し、いまもじわじわ順位を上げている。CMタイアップがなくなり、坂井はCDの初動売り上げを気にしていたが、売れ行きは好調だった。コンサートの運営会議では、


「ホルスタインはハプニングとともに成長するんですよ」


 相好をくずした坂井が、ミューズクリエートの担当者にそう語っていた。


 航平が東京に出てきて、1年近くがたとうとしている。実家にいたころの自分は、牛舎で十頭の牝牛を相手にコンサートを開いていた。いまでは、市民ホールで2000人の客を前に演奏しようとしている。


 航平は故郷を去る前に牛舎に入り、牛の一頭一頭に頬を寄せて、「かならず成功して戻ってくる」と約束した。そのときの情景が思い出され、航平の胸は深い感慨に満たされた。


 コンサートが開催される10月にはいった。SKIミュージックと、ミューズクリエートの手配したイベンターを中心に、コンサートの準備は着実に進んでいた。ホルスタインのメンバーはリハーサルをくりかえし、アレンジを仕上げ、演奏する楽曲の完成度を高めていった。


 コンサート前日には、会場のK市民ホールで、通しリハーサル(ゲネプロ)を行なった。本番と同じ衣装、音響、照明で、当日のセットリストどおりの楽曲をプレイする。なにか不具合があっても中断しないで最後まで行ない、その内容を検証するのだ。


 ゲネプロを終えて帰宅した航平は、ホールの実際の響きにあわせて、演奏する楽曲のアレンジを修正した。その作業にうちこみながら、航平は、明日のライブへのはやる気持ちをおさえられない。


 2000人が集まるライブはどんなものだろう。客として知りえても、演奏者としては初めてだ。いままでは多くても400人ほどだった。その5倍の人でうまる客席は、ステージからどう見えるだろう。航平には想像もつかなかった。


 気づくと、午後11時をまわっていた。修正した音色が市民ホールでどう響くかは、当日の最終リハーサルで試そう。航平はそろそろ就寝しようと、パソコンの電源を切った。クラブで歌う華の帰宅は遅く、いつも午前2時過ぎだ。


 そのとき、携帯電話が鳴った。ディスプレイに華の名前が表示されている。仕事中にどうしたんだろう。航平はいぶかりながら電話に出た。相手は、華が勤務するクラブのマスターだった。


「航平くん。悪いけど店に来てくれないかな。華が荒れてるんだ」


 華が客とやりあったという。航平はうんざりしながら、すぐ行きますと答えた。


 ハイヤーを呼び、クラブの店先に着いたのは午前0時10分前だった。


 どんな騒ぎになっているかと店内に入ると、すでに営業は終わり、客は1人も残っていなかった。ステージにはバンドが演奏していた楽器が置かれたまま、テーブル席の飲食物も片付けられていない。バンドマンや店員が、やれやれといった様子でひとかたまりになっている。


 従業員が見入るなか、華がカウンターに突っ伏していた。止まり木の下に、割れたウイスキーのボトルがあった。中身が飛び散っていないところを見ると、華の体内に吸収されたのだろう。


 マスターが航平に気づき、外国人の仕草のように肩をすくめて見せた。

 

 クラブのステージで歌っている華に酔客が、


『あれ、ホルスタインのボーカルだった女じゃない。歌い手が、おっぱいの大きなお姉ちゃんに代わったとたん、バンドは大ブレイクしたらしいな。やっぱり、胸は大きいにかぎるね』


 間奏のあいだに、そうからかったという。


 うわあ、と航平は額に手をやった。その客は華の地雷を踏んだんだ。


 爆発した華をスタッフがおさえ、相手の客にマスターが平あやまりにあやまり、その場をおさめたという。華は仕事を放棄し、残っていたウイスキーを空け、カウンターで寝入った。起こそうとしたマスターに、空のボトルをふりまわし、ボトルはそのとき落ちて割れたそうだ。


「それで航平くんを呼んだってわけ」マスターの顔が苦りきっている。「華を起こしてなだめて連れ帰ってくれないか。頭が冷えるまで、当分のあいだ出勤しなくていいと華に伝えておいてよ」


 店の外にハイヤーを待たせてあった。航平は、うつぶせた華の肩をゆする。華は素直に目を開けた。ふらつく華をわきから抱え、マスターに頭を下げてクラブを出た。車に乗りこませると、華は座席にもたれてすぐいびきをかきはじめた。


 頭に血がのぼった華が騒動を起こしたのは、これで三度目だ。航平に迷惑をかけている認識はあるのだろうか。クラブでの騒ぎがネットにながれ、それがコンサートに悪影響を及ぼさないとも限らない。わかってはいても、華は自分をおさえられなかったのだろう。


 その不始末について華は航平と話したくないらしく、マンションに着くまで、わざとらしい大いびきが続いていた。


 華をベッドに横たえたときには、午前2時を過ぎていた。明日は大事なコンサート当日だ。航平はその準備をあとまわしにし、絨毯にマットを引いて眠りにつく。気持ちが高ぶって、なかなか寝つけなかった。


 腰に強い衝撃を受け、たまらず目が覚めた。腰部に手をあてたまま首をねじると、隣のベッドから、赤いペディキュアをした素足がぶら下がっている。華のかかと落しが決まったらしい。


 窓のカーテンのすきまから、朝日が差しこんでいる。航平はマットに起きあがった。隣のベッドに大の字になった華が、ワンピース姿のまま片足を投げ出した姿勢で、のんきに寝息を立てている。


「ひどいなあ」とつぶやき、ベッドサイドの時計に目をやった。


 午前8時20分だ。しまった――。


 午前10時にK市民ホールに集合し、打ち合わせをする予定だった。航平はすぐに身支度にとりかかった。華のかかと落しは、いい目覚まし代わりになった。航平はあわてて玄関に向かう。


「航平。がんばれよな」寝言のように言い、華がごろりと寝返りをうった。


「わかってるよ。じゃあ、コンサート会場で」


 K市民ホールの会議室で行なわれている打ち合わせには、大きく遅刻した。すみませんと室内に入った航平は、坂井に鋭い目でにらまれた。ばつが悪くなり、メンバーの顔を見られなかった。


「主役は遅れて登場するものです。いまや航平くんはホルスタインの大黒柱ですから」


 ミューズクリエートの担当者がそうフォローしてくれた。


 航平はまた頭を下げ、長テーブルのすみの椅子にかけた。坂井は不機嫌そうだ。ネット上の中傷の件といい、坂井の印象はますます悪くなったようだ。


 会議のあと昼食の前に、航平はコンサートホールのステージに立ってみた。


 数人の作業員と運営スタッフしかいない客席はいっそう広く感じられる。一列に30~46席、それが30列で合計1200の客席が段上に広がり、その上から800の二階席が見下ろしている。そんな大勢の客に自分の音楽を演奏する。そう思うだけで、航平の体は熱くなってきた。


 航平はキーボードの前に座った。その隣にはマイクスタンド、後方には、ドラムセットとウッドベースが置かれたままになっている。航平はひとつ深呼吸をすると、演奏する曲の一節を弾いてみた。


 故郷では、牛舎で牝牛にばかり音楽を聞かせていた。親からも知人からも変人とバカにされていた。それがどうだ。ぼくの音楽を目当てに2000人が集まる。航平は鍵盤に指を走らせながら、会場をうめた客が熱狂し、感動し、盛大な拍手をおくる様子を想像してみる――。


 だめだ。白い息がたちこめる牛舎で、鼻を鳴らし、鳴き声をあげ、四足でリズムをとる牝牛の姿しか思いうかばない。2000人を前にするコンサートがどんなものか、航平の想像をはるかに超えていた。


 午後から最終リハーサルにはいる。きのうの通しリハーサル(ゲネプロ)で、プログラム後半のバラードのアレンジに厚みが足りないと航平は感じていた。きのうの夜、その修正をほどこした――。


 あっ、と航平は気づいた。


 音声データーを記録した、外付けハードディスクを自宅に置いてきた。華の勤務先の騒動のせいで、すっかり忘れていた。アレンジしなおした音がこのホールでどう響くか、本番前に試してみるつもりだった。


 しかたない。リハーサルで音響を確認するのはあきらめた。華がコンサートを見にくるときに届けてもらおう。航平は携帯電話を取り出した。


 華が出ると、航平は事情を説明した。


「だったらこれから持って出かけるよ。まだ早いけど、どうせ行くんだから」


 華はこころよく引き受けてくれた。


 コンサートは午後3時開場、4時開演だ。いまからマンションを出れば、2時過ぎには会場に着けるだろう。客の入場する前に音響のチェックができそうだ。航平は、華が到着したら楽屋に案内するようスタッフに頼んだ。


 午後1時半から最終リハーサルが始まった。どら猫がドラムカウントをとる。航平は、オープニング曲のイントロを弾きはじめ、そこにウッディのベースがのってくる。キーボードの隣で舞が歌いだした。


 セットリスト後半のバラードでは、やはり楽曲のアレンジに厚みがかけていた。ホールの時計は午後2時10分だ。華が到着してもいい時間だ。なにをやってるんだ? 航平は演奏しながらも、会場の出入り口が気になってしかたない。


 最終リハは午後2時半に終わった。華はまだ来ていなかった。航平はしだいに心配になってきた。楽屋に戻ると、彼女の携帯電話にかけてみた。


「ごめん」と華が電話に出た。「電車が止まったんだ。航平の忘れものをすぐに届けようとタクシーをひろったら、こんどは渋滞に巻きこまれた。もう近くまで来ているから、あと10分くらいで着くよ」


「そんなに慌てなくていいから」と航平は電話を切った。


 渋滞ならしたかない。航平はひとまず安堵した。華が市民ホールに着くのは午後2時45分くらいだろう。客の入場が始まる3時までに、外付けハードディスクに記録した音響を確認するのは無理そうだ。


 午後3時を過ぎた。華はまだ到着しない。どうしたんだろう? すぐ近くまで来ているんじゃないのか。あれから30分以上たっている。航平は華に電話してみた。発信音が続くだけで、つながらなかった。


 航平はいてもたってもいられなくなり、市民ホールの外に出てみた。ホールの出入り口前の駐車場には、2000人近くの客がならんで入場を待っていた。会場のスタッフが整理番号を読みあげている。コンサートの開演まであと1時間もない。


 航平は表通りに出てみた。K市民ホールに向かってくる車列のなかに、華の乗るタクシーはないかと目で探した。そのとき、ポケットの電話が鳴った。ディスプレイには華の名前が表示されている。


 ようやくだよ、と航平は通話ボタンを押した。


 もしもし、と聞きおぼえのない男の声がした。


「わたしは交通警察のものです。直前に着信した番号の履歴からかけたんですが、この携帯電話の持ち主の知り合いのかたでしょうか」


「はい」航平は自分の名前と、華との関係を告げた。電話の向こうから聞こえる慌ただしい人びとの声や足音に、航平は強い不安をおぼえた。


「奧村華さんが事故にあわれました。現在、奥村さんは非常に危険な状態でして、緊急にご家族と連絡をとりたいんですが」


 華が事故にあった――。航平は衝撃をうけた。


 その隊員によると、華の乗るタクシーが交差点を通過しようとしたとき、信号無視した乗用車がタクシーの側面に突っ込んできたという。乗用車の運転手は死亡し、タクシー運転手は大けがをした。


「奥村華さんは出血多量の重体で、近くの病院に緊急搬送されました」


 華が重体……。航平の携帯を持つ手が震えている。隊員から、華が運ばれた救急病院の名前と所在を聞いた。その病院はK市民ホールから車で10分の距離だと教わった。航平は電話を切った。


 路肩にタクシーが止まった。乗客の降りた車のドアが、バタンと閉まる。航平は反射的に手をあげ、タクシーに駆けよっていた。


 航平は運転手に行き先を告げ、重傷者がいるので急ぐように催促した。午後3時12分だ。4時に開演といっても、たいがい遅れて始まるもんだ。少しくらい遅刻したってかまわない。


 航平は、どうしても華の容態が知りたい。こんな不安な気持ちのまま、コンサートにはのぞめない。坂井のいきどおる顔が予想できた。航平に対する覚えはいっそう悪くなるだろう。かまうもんか。


 救急病院に着くと、航平は受付で華の所在をたずねた。緊急外来の集中治療室に運びこまれたという。教えられた階に上がりながら、航平はなにかの間違いであってほしいと願った。


 事故にあった人物とともに見つかった携帯電話が華のものでも、華が事故にあったとは限らない。華がタクシーに携帯を置きわすれ、つぎの客を乗せて走りだしたあと、事故に巻き込まれた可能性だってあるはずだ。その客には悪いけれど。


 航平は、緊急外来の廊下を集中治療室のドアの前まで進んだ。この施設に収容されるのは、大きな機能障害を起こした重篤の患者だ。華が死に瀕しているなんて、そんなはずあるもんか――。


 けたたましく携帯が鳴った。ホルスタインのマネージャーからだ。午後3時28分。用件は聞かなくてもわかっていた。


「病院内で携帯電話の使用は、ご遠慮ねがえませんか」


 廊下を通りかかった看護師にきつく注意された。航平は携帯の電源を切った。


 しばらくして治療室のドアが開き、看護師が姿をあらわした。


「華は? 華の容態はどうなんですか。華は助かるんですよね」


 航平は強く言いつのった。


 集中治療室の手前のベッドに、呼吸器をつけた華の顔がのぞく。航平は胸の底に重いものがしずむのを感じた。閉じられたドアに、航平の視界はさえぎられた。


「患者は出血多量です。すぐに手術をしなければ助かりませんが、患者に適合する血液製剤が足りないんです。いま血液センターに問い合わせています」


 航平は、血液型による性格判断の話を華としたのを思いだした。


「ぼくの血を使ってください。華はO型で、ぼくもO型なんです」


 航平は看護師の白衣をつかんだ。


「それはできません」看護師は首をたてにふらなかった。


「緊急に輸血をしないと彼女は助からないんでしょう。ぼくは健康です。大きな病気もしていません。ぼくは彼女と身体の関係があります。感染症にかかっていたって同じことなんです」


 そういうことではないと看護師が説明する。


「現在、全血輸血は行なわれていません。輸血する血液の安全性はもちろんですが、患者の循環器への負担を減らすため、いまでは成分輸血がふつうなんです」


 献血された血液は、赤血球、血小板、血症の各成分に分離され、成分ごとの血液製剤が作られるという。患者が必要としている成分だけを輸血するらしい。


 航平は、患者と血液型の同じ近親者が枕をならべて輸血する情景を思いえがいていた。その輸血方法はいまでは実施されていないと教わった。


 看護師が去り、航平は治療室の前の椅子にしずみこんだ。


 華に必要な血液製剤は、緊急車両で運搬されているところだという。それが間にあってくれるだろうか。渋滞に巻きこまれないだろうか。不安は高まるいっぽうだ。いざとなったら、ぼくの血を無理にでも提供させよう。


 午後3時32分、開演まで30分をきった。ここからK市民ホールまで車で10分だ。まだ時間はある。航平はその場を動く気にならなかった。


 午後3時50分になった。坂井やコンサートスタッフは大騒ぎしているだろう。バンドのメンバーが気をもむ表情が浮かんだ。航平はそれらをたちきるように、ぎゅっと目をつぶった。


 午後4時を過ぎた。開演の時間だ。そのとき、血液製剤が届いたらしい。集中治療室の前の廊下があわただしくなった。


 航平はソファを立ちあがった。いまなら間に合う。20分遅れぐらいでコンサートは開始できる。ホルスタインの中心を担うキーボーディストがいなければ中止せざるをえない。チケット代金は全て払い戻しになる。コンサートに関わった多くの人の努力が無駄になるんだ。


 ホルスタインの前身バンドは、華によって結成された。そこに航平がくわわり、坂井のプロデュースのもと、メジャーデビューを果たした。そこからファンの支持をのばし、2000人を集めるコンサートにたどりついた。


 華が去ったバンドに航平がいつづけたのは、ホルスタインをビックネームにする約束を華とかわしたからだ。その華が生死の境をさまよっている。どうか、華の命を救ってください。航平は心から祈った。


 午後5時13分。治療室のドアが開き、担当の医師が姿をあらわした。


「先生」航平はハッと立ちあがった。


 ドクターキャップとマスクをつけた担当医の表情は読みとれなかった。


「力は尽くしましたが、患者さんはいま息を引きとりました」


 華が亡くなった――。


 航平はソファに押しつけられたように座りこんだ。膝の上で握りしめたこぶしに涙が落ちるのを感じた。航平をバンドに引きとめていた華が、この世からいなくなった。航平は唇をかみしめる。


 華の死とともに、ホルスタインも死んだんだ。


 第2部 了


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