表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
ふつうの人  作者: 佐久間ユウ
第1部 上京
2/30

2 「ラシドレミ」の音しかもたない好美

 岩井好美との見合いは来週、町のホテルで行なわれる。すでにそこの日本料理屋に個室を予約してあるという。なんとも手回しがよかった。航平の気持ちとは関係なく、全てが進行していく。


 航平は憂鬱な気分で自分の部屋に戻った。中学のときの好美を思い出そうとしてみる。まるで記憶になかった。


 見合い当日の正午、航平は黒いスーツを着て、両親とタクシーでホテルに乗りつけた。ロビーには、すでに岩井好美とその父母が到着していた。航平たちがあらわれると、岩井家の3人がソファから立ち上がって迎える。


 好美は髪を結い上げ、振袖を着ていた。薄い萌黄色の地に緑の曲線が流れ、そのラインに沿って色とりどりの花が散っている。レンタルしたのだろうか、それでも10万円以上するはずだ。


 会場に来て、ホテルの立派さにもたじろいだ。なかには結婚式場や宴会場があり、建物の反対側には日本庭園が広がっている。


 思いがけず見合いの規模が大きく、航平はいっそう縁談を断りづらい心境になった。


 家族は互いに挨拶しあった。好美がはにかんだ笑みを浮かべ、そっと会釈する。他人行儀な面会になった。実際に好美を目の当たりにしても、やはり航平の印象には残っていなかった。


 6人はホテルの1階にある日本料理屋にうつった。個室のテーブルで両家が向かい合って座り、会食が始まった。


 3種のお通しがきて、ビールで乾杯する。それから刺身、焼き物、煮物とすすむ、本格的な会席料理だ。航平は食事をしながら高そうだなと感じ、ますます結婚の話を断れなくなった。


 食事の席では親ばかりが話していた。


 同じ自警団に属す父親2人は、山への不法投棄が増えたと、見回りの強化を相談する。母親たちはバター不足を話題にし、バター増産に原乳をまわすよう通達が来たと話す。


「息子さんの音楽を聴かせれば、牛乳の生産量も増えるんじゃない」と好美の母が航平に水を向けた。父の幸吉の顔色が変わり、そのときだけは席が緊張した。


 好美が中学時代の思い出を語る。航平は適当に受け答えする。


 会席が始まってからずっと断る理由を考えつづけていた。なにひとつ理由は見つからなかった。好美と目が合い、彼女がにこりと笑う。


 水菓子が出て、コースは終了した。


「あとは2人にまかせて、邪魔者は席を外そう」


 茶を飲みおえると、幸吉がうながした。それをしおに互いの両親が立ち上がる。航平と好美は個室に2人きりで残された。仲居が来てテーブルを片付けていった。


「わたしのこと本当に覚えています?」


 好美が、あまり抑揚のない声で訊いた。


「あのころと少しも変わらないですね」


 ほとんど記憶になかったけれど、航平は無難に答えておいた。


「それって、7年たっても成長していないみたい。中学のとき、わたしは眼鏡をかけていたの。コンタクトにしても印象は変わらない?」


 あっ、と航平は自分の失敗に気づいた。両手の人差し指と親指で輪をふたつ作ると、それを見合い相手の顔にかざしてのぞきみる。


「岩井さん」航平はようやく記憶が本人と一致した。


「いま気づいたって感じ」


「眼鏡をかけてお下げ髪のセーラー服を着た姿しか覚えていなかったから。そうやって晴れ着を着ていると、ずいぶん見違えますね」


「成人式のときにもこれを着て、桜木くんに挨拶したのよ。誰か見知らぬ人からお辞儀されたと思ったんじゃない。あのときはそれっきりだった」


「ごめん。気づかなかったんです」


「この振袖はおばあちゃんの形見なの。うちに嫁入りするときに持参したものなんだって。わたしが結婚したら披露宴で着るようにって遺してくれたの。それまで待てずに、成人式のときに持ち出してしまったのよ」


「ぼくはてっきりレンタルだと思っていました」


「桜木くん。本当はこの見合い、気が進まなかったんじゃない?」


 好美は背筋をぴんと伸ばし、航平をじっと見つめてくる。晴れ着の背後から、彼女の亡くなった祖母が加勢しているように感じた。とても、この縁談を断れる雰囲気ではなくなってきた。


「見合いなんて初めてだから、とまどっているだけです」


「わたしだって初めてよ。もう、どうして敬語で話しているの。同級生じゃない。もっとふつうに会話しようよ」


「そうですね」と言いかけ、「そうだね」と言い直した。


 こうして個室で2人きりになり、好美と言葉を交わしてみて、航平には気づきはじめたことがある。


 好美の声は弱く、抑揚にとぼしい。彼女の声域は極端に狭いのではないか、と推測できた。もちろん会話は歌唱とは違い、歌うときほど多くの音を必要としない。そうではあっても航平は気になった。


 中学時代の、音楽の授業の記憶がよみがえった。


 30代の女性教師はおかっぱで、やせ細った身体をぴっちりしたスーツに包み、いつもタクトを振り回していた。教師に何度も歌い直しをさせられて、眼鏡の少女が生徒の前に立っている。その姿が好美と一致した。


 彼女の歌唱は歌といえるものではなかった。まるでお経を読んでいるようだった。


「ドレミの歌を知っているよね」航平は訊いた。


「えっ」と好美は思いがけない質問にとまどったようだ。


「ドはドーナツのドって歌でしょう。小学校のとき、全校集会で歌わされた気がするけれど」


「昔にかえって、いっしょに合唱しよう」


 歌は苦手だから、と好美はしぶった。航平は、ぼくらが小さかったころの思い出がもっとよみがえるかもしれない、と強くうながした。好美はようやく承知し、『ドレミの歌』を2人で歌いだした。


 彼女の声はか細く、くぐもり、はっきりしなかった。フルコーラスを歌うまでもなく、航平は衝撃の事実を知った。


 好美の音域は、ラシドレミの5音に限られていた。アマチュアでもオクターブぐらいはでるのがふつうだ。思ったとおり、好美の声域はずいぶん狭い。


「わたし、へたでしょう。音程が少し外れていたかも。桜木くんは絶対音感をもっていそうだから、わたしをチューニングしてもらおうかしら」


 好美が照れ笑いをした。


「そうだね」航平は適当に応えておいた。


 好美がもっている五つの音を調律することはできるだろう。ただ、その音さえも外している。ピッチがひとつもあっていない、彼女が歌ったのは『ドレミの歌』ではなく、完全なオリジナル曲と言ってもいいくらいだ。


「こんど桜木くんに、わたしでも歌える曲を作ってもらおうかしら」


 ラシドレミだけで作曲してくれと依頼されても――。


 航平は苦笑いするしかなかった。


 しばらくして2人の両親が個室に戻ってきた。秋晴れのいい天気だからホテルの庭園を散歩しよう、という話になった。みんなで料理屋を出た。


 ホテルのテラスから芝生が庭園に向かって下っている。石段を下りて、ひょうたん池を囲む遊歩道に出た。


 モミジやカエデ、ナナカマドなどが色づきはじめている。秋が深まれば、枝葉は色鮮やかに染まり、訪れる人の目を楽しませるのだろう。


「われわれはさっき見学したから、好美さんと散策してくるといい」


 父の幸吉が航平にすすめた。


 赤い和傘を立てたベンチが近くにあり、幸吉たちはそこで休憩するようだ。


「向こうに見える東橋に行ってみましょうよ」


 好美が誘った。


 ひょうたん池のくぼんだ部分に、赤い小さな橋がかかっていた。2人で並んで歩きながら、好美がうちとけた様子で話しかけてくる。彼女の言葉はとめどもなくあふれるが、そのなかにはたった5つの音しかないのだ。


 航平と好美は、東橋の欄干に身を寄せて庭園を眺めた。


 橋の向こうには滝があり、3段になった岩場を水しぶきをあげて流れ落ちる。錦鯉がはねて水音をたてる。池を泳ぐ水鳥が羽ばたく。


 航平の耳にはそれらが音符になって聞こえていた。


 頭上で、さやさやと葉音がする。池のふちからモミジが枝葉を伸ばし、風の強弱に合わせて様々なメロディーを奏でる。


 飛び交う小鳥が鳴く。つがいらしく、2羽は見事なハーモニーを輪唱する。


 ホテルに隣接するチャペルで、鐘が荘厳に鳴りひびく。


「どうしたの。黙り込んじゃって」


 好美が不思議そうに尋ねた。


「聴き耳をたてていたんだ。世界は、なんてたくさんの音であふれているんだろう」


 航平は、料理屋の個室で単調な会話を交わしていたぶん、なおさらそう感じた。世界中にある音色を集め、それらを並べて音楽を創造したい。そしてそれをたくさんの人に聞いてもらいたい。航平は心からそう望んだ。


「たくさんの音? そうかしら」


 好美は無感動だった。


 見合いはとどこおりなく済んだ。正面玄関でタクシーを待つあいだ、航平たちのつぎのデートの相談を、親どうしが勝手にしている。


 ドアマンが呼びに来て、両家は車まわしに向かった。


 1台目のタクシーに岩井家が乗りこむ。走る車の窓から、好美が手を振った。航平は力なく手を振り返した。


 その夜、両親が談笑する居間に、航平は入っていった。


 親と差し向かいに座ると、きちんと理由をのべたうえで、この縁談は正式に断って欲しいと告げた。


「見合い相手のもっている音が少ないから断るだと。そんな理由は聞いたこともないぞ。いいか、航平。結婚したからって歌い暮らすわけじゃない。嫁さんが少し音を外したぐらい我慢できねえで、夫婦なんてやってられるか」


 幸吉は顔を真っ赤にして怒った。


「だから、好美さんとは夫婦になれないって」


 航平はゆずらない。


「岩井家には、航平は乗り気のようだと伝えた。相手はうちの取引先でもあるんだぞ。そんなふざけた理由を、いまさら誰の口から言える?」


「できれば父さんの口から話して欲しい」


「自分で言え。いや、おまえは好美さんと結婚する。おまえみたいな変人には、ごくふつうのお嬢さんがぴったりだ。もし破談にしやがったら、部屋にある楽器やら機材やらを廃品業者に売り飛ばすからな。そのつもりでいろ」


「あなた、こっちが逆に廃棄料を取られますよ」


 母の言葉に、嫌な世の中になった、と幸吉は嘆く。


 いっそ、山に捨てて来るか。あなたは不法投棄の見回りをなさってるんでしょ。その監視人が犯人だとは誰も思うまい。楽器が捨ててあれば、すぐ疑われますよ――。


 両親が言い合っているあいだに、航平は居間を抜け出た。


「話はまだ終わっていないぞ」


 幸吉のどなり声は無視して、航平は2階に上がって自室に入った。


 いつものようにキーボードの前に座り、パソコンでシーケンスソフトを開いた。表示された譜面を操作するふうをよそおう。父親がのぞきに来たときの用心だ。


 ふだんどおりの時間に就寝し、午前3時に起きた。


 キーボードと折りたたみスタンドを収納ケースにしまった。キャリーバッグにタブレット端末を入れ、音楽機材を詰め込む。


 いずれこんな日が来るだろうと、実家の牧場で週2回ていど働いて貯めた資金が60万円近くある。生活用品など足りないものは向こうで買おう。


 航平は楽器の収納ケースを背中にかつぐと、キャリーバッグを抱え、そっと部屋を出た。1階は寝静まっていた。


 家の外に出たとたん、冷気が頬をなでる。あたりはまだ暗く、夜空よりいっそう黒い山並みが、盆地の村をおおう。故郷の景色もこれで見納めだ――。


 そのとき、自分のファンに挨拶していなかったと気づいた。彼女たちに別れを告げないで、故郷を去るわけにはいかない、と牛舎に向かう。


 なかに入ると、黒い目がいつもどおり自分に集中した。


 きっと、航平のライブを期待しているのだろう。思えば先週が最後のコンサートになった。途中で吉蔵の邪魔が入ったのが、かえすがえすも残念だ。


 航平は牝牛の1頭に近づき、その頬に手をあてた。彼女の吐く息が白くあがり、体臭が匂う。航平はたまらなくなり、自分の頬を押しつけた。草をはむ動きが感じられる。なんだか寂しい気持ちになった。


 ファンとの名残はつきない。かならず成功して戻るから、そう誓うと目頭が熱くなった。


 航平は1頭1頭に別れを告げてまわる。牛舎を一周して出入口の前に戻ってきた。


 ファンに向き直ると、航平は彼女たちに深ぶかとお辞儀をした。



評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ