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ふつうの人  作者: 佐久間ユウ
第2部 発展
15/30

2 鷺下がついにバンドを引退する

 バンド〈ウォークインジグザグ〉の曲が、高山山麓乳業のCMに起用が決まった。広告主(クライアント)はバンドのプロモーションにも協力するという。しかし、バンド名をホルスタインに変えるように条件をだしてきた。


 バンド名の変更の返事はいったん保留にして、航平は、鷺下、華、どら猫、ウッディとSKIミュージックの会議室を出た。


「できるだけ早く決断してください」プロデューサーの坂井が念をおしていた。


 航平たちは、駐車場にとめたライトバンに乗りこんだ。ダッシュボードの時計は午後6時40分を表示していた。


「どうする? 華」運転席の鷺下が前を向いたままたずねた。


 むすっとした表情の華が、後部席で腕を組んでいる。黙ったままなのが、その答えなんだろう。華をあいだにはさんで、どら猫が大きな目をしばたたき、ウッディが四角い顔の頬をふくらませる。目顔でうなずきあうと、


「ぼくらはかまわないですよ」


 2人を代表して、どら猫がおずおずと答えた。


「そうは言うけどさ」華がかみついた。「このバンド名には、うちらの4年間の歴史がふくまれているんだ。その名前でファンになり、応援してくれている人の存在を忘れるなよな」


 まあね、とドラ猫がつぶやき、うん、とウッディがうなずいた。今のバンド名は、高校を卒業してバンドを組んだとき、華が名付けたらしい。


「だったらタイアップの話はことわるか」鷺下が口をはさんだ。「ブレイクするかもしれないチャンスなんだぞ。音楽で成功しようと上京した航平はどうなる? サポートの航平と義男の対決をきっかけに、坂井の声がかかったんだ」


「わかってるよ。わかってるから腹がたつんじゃないか」


 乱暴な口調で、華が座席にふんぞりかえった。


「航平はどう思う?」鷺下がきいてきた。


「ぼくはこのバンドにかかわって半年しかたたないから、改名についてはなにも言えません。こうして正式にバンドのキーボーディストになれて、みんなともっと演奏をしたい。ライブでお客さんを夢中にさせたい、ただそれだけです」


「あたしとまたセッションをしたいか」華がきいた。


「もちろんだよ」航平は後部座席をふりかえった。


「わかった。だったら、いまからうちらはホルスタインだ」


 華が車内のルーフをあおいで、ぶっきらぼうに宣言した。


 ふくらんだ頬をゆるませてウッディが息をはく。どら猫がシートでまるめていた体をのばす。車内から緊張感がうすれたようだ。航平はようやくリラックスできた。音楽プロダクションの会議室に入ってから緊張の連続だった。


 鷺下がエンジンをかけ、ギアをファーストに入れる。ヘッドライトが闇を照らし、ライトバンが宵闇のなかへ走りだした。


 坂井プロデューサーの提案を入れて、レコーディングのスケジュールが見直された。航平の書いた曲のアレンジをふくめ、4月のデビューアルバム発売に向けて、いっそう慌ただしくなった。アレンジにはバンドのメンバー全員が参加し、鷺下も協力してくれた。


 ホルスタインとバンド名を変えたミニアルバムが4月中旬にリリースされた。アルバムの内容は、航平のオリジナル4曲と、シングル発表した2曲、それに『男と女のラブゲーム』のカバーをふくむ全6曲だ。


 高山山麓乳業のCMには、アルバム収録曲のなかから、航平の書いた1曲が選ばれて放送されている。それに合わせて、以前に制作したミュージックビデオも、ホルスタインのバンド名で音楽情報番組(MTV)に流された。


 バンドの改名やアルバム収録曲の変更など、それに対するバンドメンバーの気持ちをよそに、坂井の宣伝活動は効果をあらわしだした。さすがは販売のプロ、ベテランのプロデューサーだと、メンバーの誰しも認めざるをえなかった。


 坂井から呼び出しがあったのは、5月に入ったさわやかな空あいの午後だった。航平、華、どら猫、ウッディはSKIミュージックの本社ビルに向かった。鷺下は、遠慮すると来ていなかった。


 航平たちはロビーを抜けてエレベーターホールに向かう。廊下で、牛の着ぐるみのアイドルらしき女性が、マネージャーにあいさつについて叱られていた。そのアイドルがしきりに頭を下げるたびに、大きな胸がゆれていた。


「明日のビッグスターのお出ましだ」


 坂井にむかえられ、いつも使用する会議室に通された。室内の様子はあまり変わらないが、テーブルの資料の山は増えたようだ。


 アルバムの売れ行きは軌道にのりはじめたと坂井が近況報告をしたあと、


「今年中にフルアルバムをリリースし、コンサートも開催したいと考えています。その集客しだいでは、来年にライブツアーを敢行します」


 予定の話ではあるが、ものすごい速さで計画が動きだしている。航平は意見をさしはさむ余裕もなく、坂井の言葉についていくのが精一杯だ。


 坂井は、コンサートだ、ツアーだと簡単に言うが、その開催にはコンサート・プロデュース会社やチケットを売る全国イベンターなど、たくさんの企業の協力が必要だ。そこで動く予算がどれほどなのか、航平には想像さえつかない。それだけの人脈と力とが、坂井にはあるのだろう。


「コンサートの集客のためには、メンバーの顔見せをしてファンを増やさなければいけません。手始めにインストアライブを行ないます」


 これは大型レコード店の売り場を利用したイベントだ。そこでライブをし、ホルスタインのCDを客に買ってもらう。ジャケットにサインをしたり、握手をしたりする。ひさびさのライブの話に、航平の胸はおどった。


 翌週、〈バー・ヘロン〉の休業日に、その店内のホールで、メジャーミニアルバムの発売を祝う記念パーティが開かれた。バンドメンバーの他に会場に集まったのは、店の従業員や音楽仲間、それに事務所の制作チームなどだった。


 午後6時にパーティは始まった。坂井は出席できないと連絡があり、代わりに、〈SKIミュージック〉の札のついたスタンド花が届いた。


 まずは華が音頭をとり、乾杯をした。


 テーブルにつまみの皿が並べられ、グラスを手にした客がホールを歩きまわる。ステージの背後にはられた白布には、高山山麓乳業のCM映像がプロジェクターから投影されている。航平の作曲したタイアップ曲がかかるなかで、やけに胸の大きな女優が牛乳を飲んでいた。


 続けて、ホルスタインのミュージックビデオが流された。バンドメンバーの乳しぼりのシーンが映されると、ホールで歓声があがった。華がそのときの苦労話をして、会場の話題をさらっていた。


 そのとき、とんとん――マイクの入る音がした。


「本日は、ホルスタインのアルバム発売を記念してお集まりいただき、まことにありがとうございます」


 オープンステージに立った鷺下がスピーチを始めた。


「バンド結成時のメンバーは、わたしが音楽教師だったころの教え子であります。そこに牧場出身の航平くんが加わり、新たに〈ホルスタイン〉とバンド名をあらため、今まさにわたしの腕から羽ばたこうとしております」


 鷺下はいつもより丁寧な口調で、すでに酒がまわっている様子だ。


「この機会に発表したいことがあります。わたしはホルスタインから卒業し、これからは〈バー・ヘロン〉の経営に専念するつもりです」


「なんでだよ。もっといっしょにやろう」


 華がまっさきに声をあげ、グラス片手にステージに進んだ。そんな華をなだめながら、鷺下がバンドメンバーのもとに戻ってきた。


 自分の音楽の才能は見限っていたと鷺下がしみじみ告白する。


「教え子がバンドを組んだとき、演奏する場所が欲しいというから、店のホールを提供した。それは少しでもバンドの力になりたいと思ったからだ。いまでは、あんたらはもうおれなしで充分にやっていける。むしろおれは足手まといにしかならない。だから手を引く決意をした」


「けどさ……」華は納得していない様子だ。その細い肩を鷺下がつかみ、


「バンド名は変わっちまったけど、中身はいっしょだ。みんなと力を合わせて、ホルスタインをビックバンドにしてくれ。がんばってくれよな」


「わかった。ビッグバンドになると約束するよ」


 華が片手を差し出し、鷺下とかたく握手した。


 出席者はどんな反応をしたらいいか迷っているらしい。音楽仲間には残念でも、店の従業員には都合がいいかもしれない。音楽プロダクションのスタッフには、どうでもいいようだ。


「なんだか、しんみりしちまったな。今夜はお祝いなんだ」


 鷺下の言葉に、いっせいに拍手がわき、それがホールに広がった。華がアカペラで歌いはじめる。それは明るく活発な歌声で、自然に拍手が手拍子に変わった。航平も手を打って参加した。


 午前0時を過ぎてパーティはお開きになった。最後まで残っていたのは、バンドのメンバーと店の従業員だった。後片付けをし、ホールの照明を落として、店の外に出た。そこでバンドメンバーと別れると、航平は鷺下とともに、彼のマンションに歩きだした。


「アパートが見つかりました。今月中には鷺下さんのお宅を出て行きます」


 帰る道すがら、航平は報告した。


「そうか。なにかあったら相談にのるからな」


「あとさき考えず東京に出てきて、最初に出会えたのが鷺下さんで、とても感謝しています。本当にありがとうございました」


 航平は鷺下に向き直ると、腰を曲げて深ぶかとお辞儀をした。


「おいおい。そんな大げさなまねはよせよ」


「実家でも、コンサートの最後にはいつもこうして感謝をこめていました」


「コンサートの相手は牝牛なんだろ。おれは牛かよ」


 鷺下は豪快に笑った。それは少しわざとらしく、航平には感じられた。


「そういうつもりじゃなかったんですけど。もし、ミュージシャンとしてブレークできたら、また鷺下さんの店に戻ってきます」


「バカ野郎。おれの店はビッグアーティストが出るような箱じゃねえよ。大勢のファンが押しかけたら、とても収容しきれない。入店できなくて暴動が起きるぞ」


「そのくらい支持が得られるように、がんばります」


 航平は自分の言葉に強い意志をこめた。


「ああ、何万人も集めてみせろよ。それでも、人間のファンにしてくれよな。牛が何万頭も突進してきたら、おれの店はつぶれちまう」


 冗談めかして、鷺下がまた笑った。


「バー・ヘロンが、今より繁盛するのを願っています」


「ありがとうよ。テレビにでも出たら、ひとこと宣伝してくれ。とはいえ水商売だ。この先、どうなるかはわからない。やれるだけやってみるつもりだ」


 鷺下が夜空をあおいだ。


 ながれる雲から青白い月が見え隠れしている。鷺下の口調ははなんだかさびしげだった。バーの経営に専念すると言っていたが、やはり音楽活動から離れたくないのかもしれない、と航平は鷺下の心のうちを推測した。


 ゴールデンウィークは、雲ひとつない好天にめぐまれた。その最終日に、インストアライブが行なわれる。場所は繁華街の量販店だ。行楽に出かけていた人も戻り、街はにぎわっていた。午後5時に、航平と華はレコード店に入った。


 このミニライブはバンド編成ではない。航平がキーボードの伴奏とコーラスをつとめ、華がリードボーカルをとる2人体制だ。


 ライブは午後7時から始まる。エスカレーターで上がっていくと、降り口でライブのチラシを店員が差し出した。来店客で、航平に気づいた人はいないらしい。店内には客があふれていたが、目当てのCDを求めて買い物を楽しんでいる。航平には誰も目さえくれなかった。


 控え室で、マネージャーの細田と合流し、ミニライブの最終打ち合わせをした。そのあと、リハーサルの前に時間があったので、航平は売り場に出た。


 ライブはジャズのフロアで行なわれる。航平たちの音楽はジャズではないが、アルバムはその売り場に置かれていた。店員が、CDの購入者にはライブ後のサイン会の参加券が配られると購入をすすめていた。ライブそのものは無料だ。


 ホルスタインのデビューアルバムが山積みされている売り場エンドに、航平は立った。並んだ自分のアルバムに、航平は心がふるえた。


 エンドに飾られたポスターでは、高山山麓乳業のCMで牛乳を飲んでいた巨乳アイドルが微笑んでいた。このポスターの掲示はスポンサーの意向なのだろう。少し気になったが、航平の写真がでかでかと貼られていたら、恥ずかしくて、とても売り場に出てこられなかっただろう。


「すみません。ホルスタインの桜木航平さんですか?」


 女子高生らしき制服姿の2人連れだ。「やっぱり」と甲高い声をあげ、2人してうけていた。部活帰りらしく、ラケットバッグをかつぎ、スマートフォン片手に、体を寄せあうようにしている。


「ミュージックビデオを見ました。つなぎがお似合いで、乳しぼりがとても上手でした。ホームページで知ったんですけど、牧場の出身なんですよね」


「牛がとてもかわいかったです。写真、いいですか」


 女子高生が続けざまに話しかけてくる。航平の答えは必要としていないようだ。


 女子高生にはさまれた航平の顔の前に、一方の高校生のスマートフォンがかかげられる。「笑って」と言われて、航平はあいまいな笑みを浮かべた。シャッター音がして記念撮影が終わった。


「ありがとうございました」女子高生がくすくす笑いながら立ち去った。


 2人で勝手にしゃべっていたけど、航平の音楽に対する感想はひとつもなかった。それでも写真を求められるのは、悪い気はしないものだ。


 しだいに来店客が航平に気づきだした。ホルスタインは知らなくても、配られたチラシと、航平とを見くらべている。「あれ、牛舎でピアノを弾いてた――」誰かの声がして、売り場の視線が集中する。


 航平はあわててフロアをあとにした。


 午後6時半から、リハーサルの準備が始まった。売り場フロアの一画が空けられ、その周囲に店員が赤いロープをめぐらせていく。航平のキーボードが設置され、アンプが運ばれる。スタッフがマイクをテストしはじめた。店内に専用のスタジオがないので、お客さんが買い物をするなかでのリハーサルだ。


 航平はキーボードの前に座って音源をチェックした。ペダルの位置を合わせ、キーに軽く指を走らせる。なにかが始まったと気づいた客の人垣ができはじめた。それをスタッフが整理している。航平は落ち着かなくなってきた。


 華が売り場の雰囲気を気にかけた様子はない。発声練習を終えて、アキレス腱を伸ばしている。歌唱とは関係ないと思うが、準備運動は、路上ライブで警官から逃げまわっていたころからの習慣なのだろう。


 ペットボトルの水を飲んだ華が航平と目があい、にっと笑って見せた。


「おっ、ホルスタインじゃん」


 客から声がかかると、華の表情が変わった。


 改名は受け入れたものの、まだ納得していない部分もあるのだろう。航平はイントロを弾き、「始めよう」と華をうながした。


 リハーサルが開始されると、人の輪はふくれあがっていった。ステージに近づかないようにスタッフが注意しているが、客の話し声までは制限していない。冷やかしや笑い声が飛びかっている。華がいらだっているようだ。


 航平は楽曲の気になるところを演奏して確認すると、早々にリハを終えて、華とともにバックヤードに下がった。


 控え室に戻ると、坂井プロデューサーの笑顔が出むかえた。坂井は麻木色のスーツ姿で、いつものように白いニット帽をかぶっている。


「ようこそ、ホルスタインのお2人。本日のビッグスターのお出ましだ」


 坂井のいつものお世辞に、航平は軽く頭を下げた。華はむすっとした表情で、「ホルスタイン」という呼びかけには応じなかった。坂井のうしろにひかえるマネージャ―の細田が、困ったような様子をしている。


 航平、華、細田、坂井が控え室のテーブルについた。坂井が話しはじめる。


「今まで高山山麓さんの広報と打ち合わせていたんですよ」


 その帰り道に、インストアライブに顔を出してみたという。


「高山さんはコンサートの協賛金を出してもいい、とそんな感触なんですよ。予算はいくらあってもいいですからね。ホルスタインでもっと売り込んでいきましょう。そこでメンバーの衣装なんですが、白と黒でそろえたい――」


「なんでだよ。まるで葬式じゃないか」


 華がぶっきらぼうに文句をつけた。


「牛なんですよ。牛の白黒まだらをイメージしています」


 隣で、ぎしり、と椅子のきしむ音がした。華が腕を組んで、背もたれにふんぞり返っている。ひきむすばれた唇から、明らかに不満な様子がうかがえた。


 にこやかな顔で、坂井が説明を続ける。


「高山山麓さんの直営牧場で、ライブイベントをしたいという話もあるんですよ。牛の着ぐるみで登場したら、さぞ子供たちにうけるかと……」


「あたしらは牛じゃないんだ。そんな恰好で歌ったり演奏したりできるかよ」


 ふいに華が声をあららげた。


 その勢いに、坂井は鼻白んだようだ。いえね、と続ける。


「向こうは冗談で言ったんですよ。着ぐるみで野外イベントをやったら、脱水症状を起こしかねない。ミュージックビデオでならありかなと思っただけです。白黒の衣装についてはデザイナーと相談しています」


「航平、行こう。もう時間だ」


 華がそっけなく言い、航平の返事を待たずに控え室を出ていった。そのあとを追った航平は、ドア口で坂井に一礼する。坂井の目に不快の色がひらめいた。


 はっとした航平は、すぐにドアを閉めた。


〈バー・ヘロン〉を視察していたときの、坂井の険しい表情を思い出した。仕事では愛想よく接してくれているが、その本当の顔を見た気がした。


 売り場に出るスイングドアの前で、華と2人のスタッフが待っていた。扉に寄りかかる華は唇をへの字に曲げ、まだ不機嫌そうだ。


 扉の外から、拍手を練習する様子が聞こえてくる。


「――もっと大きく。まだまだできるでしょう」しだいに拍手が大きくなっていく。司会者がなにかジョークを言ったらしく、どっと笑い声がひびいた。


「そろそろ出番です」とスタッフが教えた。


 航平はうなずいて、華をふりかえる。


「笑顔で出ようよ。ぼくらのファンになるお客さんだっているかもしれない」


「わかってるけどさ、どうしても苛立ちがおさまらないんだ」


「ステージに出たら」とスタッフが説明する。「ホルスタインのバンド名であいさつをしてください。それから司会者とのやりとりがあります。台本通り、牧場でMVを撮ったときの質問をしますから……」


「わかってるよ。うるせえな」


「それでは盛大な拍手でホルスタインの2人を呼びましょう」


 フロアから司会者の声が聞こえ、ひときわ大きな拍手があがった。


「行こう」と航平は華をうながした。


 かたい表情のまま華が先にたって扉の外に出ていく。大丈夫かな、と航平は心配になってきた。


 航平は拍手に迎えられ、売り場のオープンステージに出た。


 赤いロープで仕切られているものの、最前列の客がやけに近い。みんな立ち見だ。売り場に無理やりステージを設けているので、周囲はぎゅうづめだった。「もっとつめてください」と店員が客を整理している。


 航平はキーボードの前に立った。斜め前に進んだ華が、マイクスタンドに手をかける。そのそばに椅子と台が置かれ、台の上にはペットボトルの水が用意されていた。華がマイクの調子をテストしてから、


「本日はお集まりいただき、ありがとうございます。ホルスタインの奥村華です」


 華に笑顔がもどっていたので、航平はひとまず安心した。キーボード奏者の航平を華が紹介する。2人は一礼して、それぞれの椅子に座った。


 人垣のなかで誰かが手をたたき、それにつられて拍手が会場に広がった。


「さっそくだけど、華ちゃん」芸人くずれらしい司会者が呼びかける。「高山山麓乳業のCMが大評判だよね。ミュージックビデオでは、牧場で乳搾りをしたんだって。そのときの話を聞かせてくれるかな」


「なんだ、CMの姉ちゃんじゃないのかよ」最前列から声があがった。「胸がぺっちゃんこじゃん。これじゃあ、ホルスタインじゃなくスペアリブだ」


 不平をもらしたのは、ポスターのつきでたビニール袋を両手に持った、革ジャンにTシャツの40年配の長髪の男性だ。


 華の目つきが険しくなった。航平が止める間もなかった。立ち上がってペットボトルを取るや、ひやかす客の顔に、ためらわず水をぶちまけた。


 会場に悲鳴とおどろきの声がひびいた。



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