12 ビッグアーティストへの道
ふいの出来事に、航平は、その場に立ち尽くした。すぐに華の危険を悟り、ステージの真ん中でもつれあう華と義男へ進む。
華の膝げりが義男のみぞおちに決まった。義男がうめき声をあげて華から離れ、腹を抱えてうずくまった。
立ち上がった華は、逃げようともせず、相手に強い視線をそそぐ。
義男が憎悪の表情を浮かべ、奇声をあげた。再び華につかみかかろうとするのを、航平は義男の腰に両腕をまわして止めた。
「やめるんだ。これ以上、乱暴をするな」
ものすごい衝撃がきた。航平は吹っ飛ばされ、最前列のテーブルに激突した。悲鳴とともに食器類の割れる音が響く。
とても義男自身のものとは思えない怪力だ。
薬でも打って来たんじゃないのか――華の言葉がよみがえる。
バーカウンターにいる、ニット帽の男とその相棒と目が合った。航平の想像どおりに彼らが刑事なら、その狙いは義男の薬物使用だろう。しかし、おびえた様子の2人はカウンターから動こうともしない。
ホール全体がざわついた。
義男が大きく身体を屈めて、華に迫っていた。その手にナイフがひらめく。義男は顔面を紅潮させ、目をむき、ねじ曲げた唇からよだれを垂らしている。止めに入るスタッフはいない。義男のナイフがそれを妨げていた。
「刺せるものなら刺してみろよ」
華が、自分の胸をそらせて挑発した。
いけない。航平は立ち上がった。
「だめだよ、華。義男は本気でやるつもりだ」
言いながら、航平は飛び出した。
義男は振り返りもせず長身を揺らしている。そのかたわらに、航平のキーボードが転がったままだ。航平はそれを両手でつかんだ。
「航平さん――」背後から呼びかけられた。
ナイフをかまえた義男が動きだした。航平はキーボードを振り上げ、義男の後頭部に力まかせに叩きつける。鈍い音がして、手ごたえを感じた。
ナイフが床に落ちる。
義男が膝をつき、前のめりにステージに倒れた。
にわかにホールは静まりかえった。航平は、振り下ろした楽器をつかんだまま、昏倒した義男を見下ろしていた。心臓が強く脈打っている。
華と目が合った。華の表情から緊張が抜けていく。親指を突き出し、にっと航平に笑ってみせた。
ふと、華の視線が航平の背後に投げられる。
「お2人とも無事でよかった」
額の汗をぬぐう葉山が立っていた。白い肌に脂汗をにじませ、真ん中から分けた髪の隙間が、いっそう広くなったようだ。片方の手に拳銃が握られている。
航平はそれに目が釘付けになった。
「葉山さん、あなたはいったい?」
「銃で義男をけんせいするつもりだったんですが、義男のうしろに航平さんが飛び出したものだから、狙いをつけられなくなりました」
「葉山さんは刑事だったんですね」
「いえ、ぼくは厚生省の職員で、麻薬取締官事務所に勤めています。特別司法警察官として逮捕権はもっていますけれどね。義男が覚せい剤の密売をしているのはわかっていたので、ずっと彼をマークしていました。義男は末端の売人です。そこから卸し売り組織までたどるつもりでしたが、内偵はこれで終わりです」
麻薬取締官だったんだ、と航平は了解した。
そのとき葉山の仲間らしき5、6人がホールに入ってきた。〈バー・ヘロン〉の内や外で見張っていたのだろう。葉山がてきぱきと指示を与えはじめる。
義男が、取締官に助け起こされている。意識を取り戻したらしい。さっきまで暴れていたのが嘘みたいに、打ちひしがれている。
義男が、2人の取締官に支えられて、ホールを出ていく。歩くのもやっとの様子で、燃えつきてしまったような印象を受けた。
「こんど、ご連絡しますから」
葉山が言い、同僚のあとに続いてホールをあとにした。
「そのキーボード」
華に言われた航平は、足もとに転がる愛用の楽器に視線を落とした。
裏側がへこみ、本体カバーが外れかかっている。義男を殴ったときの衝撃と音を思い出した。キーボードは精密器械だ。無事には済まないだろう。
航平はキーボードを起こし、片手で支えながら、いくつかのコードを弾いてみた。間の抜けた音がするだで、10年来の相棒はやはり壊れていた。
「ごめんな、あたしのために。ヤクザに脅されたとき、自分の命より大切なものだって、言ってたよな。本当にごめん」
華は心から申し訳なさそうだ。
「いいんだ。人の命より大切な楽器なんてないから」
航平に後悔はなかった。
ライブ対決はこれでおしまいだった。スタッフに誘導された客が、ざわざわ言葉を交わしあいながらホールを出ていく。
客の投票は行なわれず、ウォーキングジグザグのキーボディストは航平に内定した。義男がこのバンドに戻ってくる機会は、まずないだろう。
バーカウンターの2人組のうち、ニット帽の男が航平に近づいてきた。
「興味があれば、あとで連絡してくれ」
男が差し出した名刺を航平は受け取る。
そこにはSKIミュージック、音楽プロデューサー坂井啓司とあった。
さかいけいじ――。
「けいじさん」と航平はつぶやいた。
「そう呼ばないでくれ」と坂井が苦笑いする。「このとおりのコワモテだろ。知り合いからはよく『刑事さん』と言われ、からかわれているんだ」
そういうことか。
坂井が刑事らしいと言ったのは華だ。坂井を呼び止めた記者が、そう呼んだのを聞いて勘違いしたのだろう。本当に人騒がせだな。
「やった。けっこう有名な音楽プロダクションじゃないか」
華が、肩ごしに名刺をのぞきこんでいる。
坂井プロデューサーは、もとは義男に目をつけ、〈バー・ヘロン〉に通っていたという。そこで航平の演奏を聴き、興味を抱いた。
さらに航平と義男の対決ライブが企画された。その結果しだいでは、2人のどちらかをメインキーボーディストにしたバンドを、みずからプロデュースするつもりで、部下とともに訪れたらしい。
坂井とその連れがホールを出ていく。
航平は、その後ろ姿が消えるまでずっと見送っていた。目標に一歩近づいた、そう実感すると身体が熱くなった。
* * *
こんど連絡する、と言った葉山からは、年が明けても音沙汰はなかった。その職業柄、年末年始にかかわらず忙しいのだろう。航平からも電話をしなかった。
義男の事件については、テレビで何度も特集された。
義男は覚せい剤の売人であり、その使用者でもあった。
新宿でヤクザに脅されたとき、葉山が警官を呼んで助けてくれた。その前に、暴力団員らしき男と歩く義男を、航平は見かけていた。
あのとき葉山は義男を尾行していたのかもしれない。捜査のさまたげをしてしまったのなら、本当に申し訳なかった。
義男の薬物使用には、思い当たるふしがあった。
覚せい剤を使うと、全能の人間になったように感じる。その自信がときに優れた能力を発揮させる反面、薬が切れるといっきに消耗し、指一本動かすのもおっくうになるという。
航平は、義男がいつも疲れ果てた様子だったのを思い出した。
レコ発ライブで義男の演奏が大きくくずれたのは、薬を切らしていたからだろう。その汚名を返上するため、義男が薬の供給源と接触する可能性は高い。そうにらんだ葉山は、義男のアパートを張り込んだ。
鷺下が、対決ライブの話を義男のアパートでまとめた帰り道、葉山から声をかけられたと言っていた。鷺下からその企画を聞いた葉山は、近いうちに義男が薬を求めると確信したに違いない。
テレビ報道によると、義男はふだん、手に入れた覚せい剤を袋づめにしてキーボードの内側に貼りつけていたという。対決ライブの日、義男が自分の楽器を持参しなかったのは、その内側に薬を隠していたからだろう。
義男がライブに遅刻したのは、密売人と会っていたからではないか。その義男を葉山は尾行していた。そして〈バー・ヘロン〉での逮捕となった――。
すべては航平の推測だけれど。葉山に真相をたずねてみても、取締官の立場上、答えてはくれないはずだ。
葉山とようやく会えたのは、1月の半ばだった。
前日の夜から雨が降り、午前中には雪に変わった。葉山と待ち合わせたジャズ喫茶に向かおうと、マンションを出た航平は、ぶるっと身を震わせた。
店にはいると、すでに葉山が待っていた。航平は葉山と差し向かいに座り、コーヒーを注文した。
午前中の店内はすいていた。軽快なピアノ伴奏に合わせて、サックスのなめらかなメロディが静かに流れている。
「葉山さんは、きょうは休みなんですか」航平はきいた。
「いちおう休日にはなっていますが、いつ捜査で呼び出されるかはわかりません。休みはあってないようなものなんですよ」
葉山との会話は音楽に関する話題ばかりになった。義男の薬物事件にふれないのは、やはり守秘義務があるからだろう。航平からも水は向けなかった。
「SKIミュージックから、ウォークインジグザグのメジャーデビューが決まりました。2月から本格的なプロモーションが始まります」
航平は、葉山にそう報告できるのがうれしかった。
「もちろん、航平さんがキーボートを弾くんですよね。いまからコンサートが楽しみですよ。メジャーデビューには、あの事件も一役かったかもしれませんね」
義男の薬物事件――。
葉山のほうから言いだしたのが、航平には意外に感じられた。
「テレビ番組で大きく取り上げられたでしょう」と葉山が続けた。「彼がいたバンドにも世間の注目が集まったんじゃないですか」
確かに、バンドのホームページのアクセス数やネットにアップしたライブ動画の視聴回数が急増していた。
坂井はそれに目をつけてプロデュースを決定したのかもしれない。彼はベテランプロデューサーだという。さすがに事件のおかげとは言わなかったが、それを宣伝に利用しようという計算はあってもおかしくはない。
葉山の携帯電話が鳴った。なにか急用がはいったらしい。
「コンサートの予定が決まったら、すぐに声をかけてくださいね」
葉山が席を立ち、そこで別れた。
航平はしばらく時間をつぶしてから店を出た。雪はやんでいた。昼休みどきの歩道では、多くの人が行きかっている。
上京したとき、駅の混雑のなかで、東京は立ち止まれない場所だと意識した。メジャーデビューしたら走りつづけなければいけない。息切れしたり、苦しくなったり、休みたくなったりしても、決して止まれない。足を止めたときがミュージシャンとして終わりだと肝に銘じる。
航平は、ビッグアーティストへの道を力強く歩みだした。
第1部 了
これで第1部「上京」は完了です。このあと、第2部「発展」、第3部「再起」と続きますが、新人賞に応募する予定があるので、ネットでの発表はここまでにします。いままで読んでくださったみなさん、本当にありがとうございました。




