11 クリスマスの決戦ライブが始まる
航平の演奏が終わったあと、ようやく対戦相手の義男が〈バー・ヘロン〉にやって来た。
義男はぼさぼさの長髪に不精ひげを生やし、色あせた革ジャンに擦れきれたジーンズだ。手ぶらのまま、キーボードは持参していなかった。
義男が楽屋に入ってくる。その影が壁を這いあがり、天井まで広がっていく。だらんと垂らした両腕がやけに長く感じられる。青白い顔にらんらんと輝く瞳には、異様な自信があふれていた。
「おれが逃げたと勘違いして喜んだか? がっかりだったな」
義男が航平をせせら笑う。
「まさか。勝負もしないで、バンドのキーボード担当にしてもらおうとは思いませんよ。義男さんを負かして、その地位を勝ち取ってみせます」
航平はそう言い切った。
しかし、今日の演奏が本調子じゃなかったのは事実だ。義男がぎりぎりになって登場したのは、自分を揺さぶる心理作戦だったのかもしれない、と航平は唇を噛んだ。
「航平と勝負する気があるなら、どうして自分の楽器を持って来ない?」
華が、義男が手ぶらなのを指摘した。
「先月のライブでおれのキーボードを航平が使っただろ。音源がおかしくなっちまった。今回は航平のを使わせてもらうよ。同じ楽器で演奏したほうが、客がその良しあしを判断しやすいし、公平だろ」
義男が嫌味ったらしく言う。
「それは言いがかりです。確かに義男さんのキーボードを無断で借りましたけど、ボタンやつまみを勝手にいじらないよう気をつけて演奏しました。それは他人の鍵盤を使う場合の常識です。音源がおかしくなるはずがありません」
航平は強く反論した。
「それはもういいんだ。気にしていないから。とにかく、おれのキーボードは使用できない。あんたのを借りてもかまわないだろ」
「それは……」と航平は口ごもった。
なにか思惑がありそうで、航平は自分の楽器を使わせたくなかった。しかし、前回は無断で使用しているぶん、断りづらかった。もっとも予備のキーボードはなく、対決を続けるなら、義男に貸さざるをえない。
航平はしかたなく、うなずいた。
「そうと決まれば」と鷺下が口をはさんだ。「航平のキーボードをステージにセットするんだ」
鷺下は機嫌を直したらしく、スタッフを呼んで指示を出す。午後8時をまわり、第2ステージの始まる時間は過ぎていた。
義男が、にやりと笑い、楽屋を出ていく。
その態度に、航平は得体の知れない不安を覚えた。
バンドメンバーの顔はさえなかった。ホールを映すエアモニターでは、航平のキーボードがステージに準備されている。その様子に、鷺下だけが期待にあふれる眼差しを向けていた。
ステージの準備が整い、華、どら猫、ウッディが楽屋を出ていった。
その3人の姿がエアモニターに映し出される。音声は切られているが、大きな拍手で迎えられたのがわかった。メンバーの扮装するサンタクロースとトナカイの衣装が受けているらしい。
遅れて義男があらわれた。トナカイの被りものはしていなかった。拍手はまばらになり、客どうし顔を見合わせる。場内の雰囲気は一変したようだ。
航平は楽屋で見ていられなくなった。
ホールに出ると、ちょうど1曲目が始まったところだった。航平は客席を迂回してステージに近づき、壁に身体をもたせて音楽に耳を集中させた。
義男の正確無比なタッチが戻っていた。細かな音のひとつひとつが明瞭で、ボールベアリングのように滑らかに転がっていく。
ソロパートに入ると、義男の指はさらに磨きがかかった。長い両腕を駆使して、鍵盤の低音部から高音部へと目まぐるしく駆けめぐる。その研ぎ澄まされた演奏に、航平は背筋が冷たくなった。
客席は静まり返っていた。誰もが義男の演奏に圧倒され、固唾をのみ、聴きいっている。客との一体感はなく、義男の音楽だけがホールを支配していた。
1曲目が終わっても、拍手はおきなかった。
義男が、どうだ、と言わんばかりの眼差しを客席に向ける。
華がマイクスタンドに片手をかけたまま、苦々しい顔つきをしている。義男の態度は気に入らなくても、その演奏には文句のつけようがないからだろう。
どら猫とウッディは、自分たちのプレイが信じられない様子で、驚きと興奮をあらわにしている。義男の指さばきが最高のパフォーマンスを生み出した、と航平は認めざるをえなかった。
1人の客の手が叩かれた。するとそれに導かれて拍手が起き、賞賛はホール全体に広がっていく。航平は両手の拳を握りしめた。
義男の言動をよく思わない客も多く来ているはずだ。それにもかかわらず満場の拍手がわきおこっている。
航平は、この店の客に人気があると意識していた。自分に好意的な票が集まると期待していた。甘い考えだった、と航平は奥歯を噛みしめる。義男の演奏に素直に拍手できない自分が情けなかった。
義男と目が合った。その顔は自信にみちあふれ、キーボードを前に肩をそびやかしている。航平は悔しさのあまりうつむいた。
2曲目に入ると客はリズムにのりはじめた。身体を動かし、足でビートを刻み、自然に手拍子が出る。
義男はさらに調子が出てきたらしい。鍵盤に上体をかがめ、目まぐるしく指を動かし、自分の奏でる曲にのめりこむ。
3曲目、4曲目と、ますます義男の指が走りだした。なにかに憑かれたような顔つきで、バンドのペースなどおかまいなしになる。
どら猫とウッディが慌てて義男の演奏についていく。華の表情が苛つきはじめるのがわかった。
航平は、はじめて華とセッションをしたとき、「自分勝手に弾くな」と彼女にダメ出しされたのを思い出した。そういう華が、自分の思うままに歌うボーカリストだった。それにバンドが合わせていると気づいた。
そしていま、義男のキーボードがはめを外しだした。華が、ちらちらと不快な視線を義男に投げる。音楽を止めて文句をつけないのは、鷺下から注意をされていたからだろう。
客は、華と義男の掛け合いを面白がっている様子だ。いつバンドが乱れるかというスリルに興奮していた。
手拍子がふくれあがり、ホールは熱狂につつまれる。
義男の暴走は止まらない。椅子を跳ね飛ばして立ち上がり、キーボードの上に屈みこむ。ひじを高く上げ、細長い指で連打する。目は異様な光を放ち、唇の端はねじあがり、青白い顔には恍惚とした表情さえ浮かぶ。
どら猫とウッディは顔を真っ赤にして、それぞれドラムとベースを操り、義男のスピードに合わせるのがやっとの様子だ。
義男にミスタッチはひとつもなく、これだけの速さで弾く彼のテクニックは驚異的だった。航平は敗北を感じた。
「いいかげんにしろよな」ついに華が切れた。
義男はかまわず弾きつづける。華の声など聞こえていないらしい。長髪を振り乱し、目を血走らせ、唇からよだれが垂れる。
どら猫とウッディは演奏をあきらめていた。義男ひとりがキーボードに集中している。その影が背後の壁に広がり、激しく踊る。悪魔に魅入られたようだ、と航平は恐ろしくなった。
義男の異常さには客も気づきはじめた。手拍子はまばらになり、ついに止んだ。テーブル席のあちこちから、ざわめきが広がる。
義男は周囲の様子をまるで心にかけていない。楽器と一体となり、自分の音楽にのめりこんでいた。
「やめろって言ってんだろ。わかんないのかよ」
義男の弾く鍵盤に、華が両掌を叩きつけた。
不協和音がして、つぎの瞬間にはホールは静まり返った。航平は壁に背中をはりつかせてステージを見守っていた。
華と義男がキーボードを挟んでにらみあっている。義男は口を半開きにし、目を見開いて、演奏を中断されたのが信じられない、という顔つきだ。
華と義男のうしろで、身体をこわばらせたどら猫とウッディが、ちらちら目配せを交している。
華が一歩退き、サンタの衣装の胸をそらせる。
「義男のテクニックはわかったよ。たいしたもんだ。けれどバンド演奏ってのは1人でするもんじゃない。互いに耳をすまし、呼吸を合わせ、身体で感じ合いながら奏でるのが音楽ってもんだろ。あんたのは、ひとりよがりもいいところだ」
そう言い切り、真向からにらみつける。
義男はキーボードに身をかがめたまま、口をあんぐり開けている。水を浴びたような汗を吹き出させ、髪が額にはりついている。
鍵盤上の義男の指が震えだした。
「おまえに言われたくねえよ!」
義男が大声をあげた。震える指を華に突きつけ、
「ワンマンなのは、てめえだろ。好き勝手に歌いやがって、なにが身体で感じ合いながら奏でるだ。合わせてやってるのはこっちのほうなんだぜ。おれの卓越した腕前がそれを可能にしていたんだ。勘違いするなよな」
「テクニックはさすがだよ。でかい口を叩くだけはある。けれど音楽は小手先で演奏するもんじゃない。なにより大切なのはハートだ。あんたのプレイには魂がこもっていない」
華が強く批判した。
「そんなの関係あるかよ。勝負は相手を圧倒させたほうが勝ちなんだ。このライブ対決で、あんたは航平を勝たせたかった。だから、おれの技量が航平より勝っているとわかり、おれの邪魔をしたい。そうなんだろ」
義男の指摘に、航平は歯を食いしばった。
華が義男の演奏を中断させた真意はわからないが、義男の技術が自分より優れているのは事実だった。
「そんなわけあるか。あんたの演奏があまりに気違いじみているから止めたんだよ。前回のライブではあれだけくずれていたのに、悪魔に魂を売り払ってよみがえったんだろ。薬でも打って来たんじゃないのか」
「なんだと。もう我慢ならねえ」
義男が、キーボードをスタンドごと倒した。それを乗り越え、華におどりかかる。華の胸もとをつかんだとたん、アンプコードに足をとられる。義男と華がステージに転倒した。
客席から悲鳴があがり、ホールは騒然となった。
続




