10 義男は怖気づいたか
午前0時に〈バー・ヘロン〉での仕事が終わった航平は、店の看板の前で待っていた華に、いっしょに帰ろうと誘われた。
華は白いニット帽をかぶり、こげ茶のダッフルコートに黒いブーツだ。顔の半分をおおうマスクをかけていた。
「風邪でもひいたの?」
航平は、連れ立って歩きながらきいた。
「その予防だよ。ライブが近いからね。ボーカルは声が命だ。枯らすわけにはいかないだろ。仕事のほうは風邪で2、3日休むって連絡してある」
華はふだんアパレルの店でアルバイトをしている。
「休んでばかりいるって話じゃないか」
華の欠勤の多さはバンド仲間から聞いていた。今日だってこんな時間に訪れて、明日の仕事は大丈夫なのかと思ったら、ずる休みするという。
「あたしに客商売はむかないんだ。いまさらながらわかった。それより、航平は義男との勝負に勝つ自信はあるのかよ」
対決ライブの話しは鷺下から聞いたのだろう。
「どうかな。彼のテクニックは確かにすごい。正確無比に譜面を音にしていく技術には舌を巻くよ。先週のライブで指が乱れたのが不思議なくらいだ」
「ピアノを弾くために生まれたようなやつはいる。義男の演奏をはじめて聴いたとき、音符を打ち込まれたロボットが弾いているかと思ったくらいだ。ピアノはあたしもやっていたけど、これは勝てない、鍵盤は義男にまかせ、自分はボーカルに専念しようと、そのとき決めたほどなんだ」
「まともならば義男さんに負けるかもしれない。今回の対決を提案したのは彼だっていうから、きっと立て直してくる。それでも、その勝敗を決めるのは一般のお客さんだ。ぼくにも勝ち目はあるかもしれない」
「やつがどこまで立て直せるかは疑問だね。音楽センスだけで演奏してきた人は、自分がどうしてうまく弾けるかを理解していない。だから、なにか不具合があったとき、どうしていいかわからず、途方にくれるもんだよ」
「逆に波にのれば、神がかり的なプレイをする」
「なんだよ。勝つ自信はあるのか、ないのか。どっちなんだ」
「なくはないよ。ここは義男さんに負けるわけにはいかないんだ。かならず正式メンバーになってみせる。これくらいで挫折して、いまさら故郷には帰れない」
「帰れない事情でもあるのかよ?」
「それは――」見合いから逃げた経緯を話すと、華に手を叩いて笑われた。
言わなきゃよかった。
上野駅の前まで来て、航平と華は足を止めた。
駅舎を背景に、黒々とした巨大なシルエットが立ちはだかっている。その周囲で人影が動き、クリスマスツリーの準備をしているらしい。
12月に入った。対決ライブはクリスマスの日に行なわれる。
「チケットの予約は、バーヘロンの開店以来、最速で完売したらしいよ」
華が口を開いた。鷺下からの情報だろう。
「ライブの好評でリピーターが増えたんだろうね。ぼくらの音楽の集客力が高まったんだよ。ここんところ、鷺下さんはにやけっぱなしなんだ」
「航平、勘違いするなよな。うちらの音楽が客を集めたんじゃない。鷺さんの対決企画が評判を呼んだんだ。バンドそのものの力じゃない」
「ぼくらの演奏が支持されたのも確かだよ」
航平は、忙しいあいまをぬって来場してくれる葉山を思い描いた。
「数百人の客だったら、あるいはそうかもしれない。けれど、何万人も動員するコンサートとなったら話は別だ。コンサートプロデュース会社や全国イベンターなどの協力があって成功に導かれる。それをバンドの力だとおごると、しっぺ返しをくう。それだけは忘れるな」
「大げさだなあ。わかったよ。肝にめいじておく」
「天狗になるなって教訓だ。じゃあ、あたしは電車だから」
華が片手を振って駅ビルに向かう。その途中で振り返った。
「航平、負けるなよな。いっしょに東京で音楽を続けよう」
「もちろん、そのつもりだよ」
一瞬にして星がまたたいた。色とりどりの光が明滅して夜空を駆けめぐる。上野駅前のクリスマスツリーのイルミネーションが点灯していた。
「反対側はどうだ?」根もとの人影から声があがる。もみの樹に電飾を巻き終え、試しに電源を入れたようだ。今日の夕方から一般に公開されるのだろう。
「ラッキー。うちらが最初に見れた」
華が、手を叩いてはしゃいでいる。
クリスマスツリーを彩るイルミネーションのはるか頭上で、トップスターが輝いている。いつかあの星をつかみとるんだ、と航平は心に誓った。
ライブ対決の日、航平は午後3時に店に入った。朝のうちに雪がちらつき、昼過ぎになって、灰色の雲がどんよりと低い空をおおった。
店の看板に電飾が巻かれ、『クリスマス決戦。勝敗はあなたしだい』と表示されている。階段の壁にも電飾が伸びている。
ホールに入ると、ステージにクリスマスツリーが飾ってあった。客席のテーブルの中央には、ガラス器に入ったロウソクが置かれている。そんな演出からして、鷺下の意気込みが感じられた。
ホールにどら猫とウッディがそろい、少し遅れて華が入ってきた。サンタクロースのコスプレをし、スーツケースを引きずっている。
「みんなの衣装もあるんだ」
とスーツケースを開いて見せた。
なかからトナカイの頭が出てきた。そのひとつを航平は手渡された。頭にかぶってマジックテープであごに止めるようだ。華が、そのかぶりものをどら猫とウッディにも渡す。ひとつあまった。
「これは?」と航平は訊いた。
「義男のぶんに決まっているだろ」
航平は、トナカイのかぶりもの姿の義男を想像してみる。
「――かぶるかな?」
義男はまだ来ない。彼は遅刻魔らしく、メンバーの誰もが気にしていないようだ。
「開演間際に登場するつもりなんだよ。主人公を気取りやがら」
華が鼻を鳴らして言い捨てた。
午後6時半に開店した。航平はホールの入口に立って、客を出迎えた。
「トナカイの被りものが似合っているね」と常連客に褒められる。葉山はなかなか姿を見せない。年末でも仕事が忙しいのかと失望した。
航平は待ちきれずに、地上に出る階段を上がった。
踊り場で、あのニット帽をかぶった目つきの悪い男とすれ違った。きょうは20代の優男を連れている。航平にちらりと目をくれると、連れとともに階段を降りていった。
店の出入り口で、華とばったり鉢合わせた。
「いつもの男がいま来店しただろ。あいつの正体がわかった。さっき道ばたで記者らしき男につかまり、刑事さんと呼ばれていた」
「えっ。でも、刑事がどうしてバーヘロンに足しげく通っていたんだろう」
「さあね。義男に目をつけていたみたいだった。義男のやつ、なにか犯罪に手をそめていなければいいけどな」
そう言うものの、華が気にした様子はない。
航平は、いまの男の正体が暴力団員ではないかと想像していた。人相の悪さでは、暴力犯罪を担当する捜査員だって、さほど変わらないかもしれない。
開演の10分前になり、航平はバンドメンバーと楽屋で合流した。
義男はまだ来ていないらしい。
華が大きく足を組んで椅子にふんぞり返っている。柄の悪いサンタだ。どら猫とウッディも、さすがにそわそわと落ち着かない。鷺下が苛立たしげに携帯電話を耳にあてていた。
「義男につながらねえ。時間になったら最初のステージを始めるぞ」
「あたしらの演奏は聴くまでもないってか」
華が毒づいて舌打ちした。
航平たちは楽屋を出てホールに向かった。
挑戦者の航平から先に演奏する段取りになっていた。15分をはさんで第2ステージを始め、そのあと客の投票を行なう。そして勝者によるアンコールというスケジュールだ。
バンドのメンバーがスタンバイにつく。航平はキーボードを前にして、ぐっと気持ちが引き締まった。
今回のライブの趣旨を、鷺下が客に説明しはじめた。
航平は、葉山の姿を探した。薄暗くてはっきりしないが、見当たらない。ニット帽の男が、カウンターからステージをにらんでいた。
航平の頭に、いろんな想像がうずまいた。
刑事だってライブに来るだろう。単に音楽を楽しむためなら問題はない。けれど、捜査が目的だったとしたら――。
刑事はふつう2人組で行動するという。いつも1人で訪れていたのは、あるいはプライベートだったのかもしれない。きょうは相棒を連れている。ライブを聴く以外の目的があるのではないか。
2人の狙いが義男だったとしたら、彼がいまだに姿をあらわさない理由にも説明がつく。義男は暴力団とつながりがあり、捜査の手が自分に迫っていると気づいたのではないか。
ライブが始まったが、航平は演奏に集中できなかった。ただ鍵盤の上で指が動いているだけだ。客席は盛り上がっているが、航平はいつもの高揚を感じなかった。
気持ちのこもらない演奏に気づいたのだろう、華が歌いながら視線を送ってくる。
航平は余計な懸念を振り払い、音楽に集中するよう努めた。
第1ステージの六曲を引きおえた。大きな拍手に送られ、航平はバンドのメンバーとともに退場した。満足感はなかった。
「どうしたんだよ。いつもらしくなかったじゃないか」
楽屋に戻りながら、華が非難した。
「ごめん。調子が出なかった」
「義男がまだ来ていないんだ。何度も電話しているのに出やしない」
楽屋では、鷺下が携帯電話を手に顔を真っ赤にしていた。
第2ステージは15分後に始まる。
ホールを映すモニターでは、航平のキーボードが撤去されている。義男の楽器を準備する手はずだが、それも店に届いていなかった。
「義男のやつ、怖気づきやがった」
華がバカにした顔つきで言う。
そうだろうか? と航平は疑問に思った。
自信家の義男が逃げ出すとは考えにくい。この対決は義男から言い出した。なにか不都合が起きたのではないか。捜査の手が義男にのびていた――その想像は当たっていたのかもしれない。
「航平の不戦勝だよ。よかったな」
華が祝福して航平の肩を叩いた。
「なにがいいもんか。義男はおれをはめやがったんだ」
鷺下が声をあげた。
なにを言いだすかと航平はいぶかった。
「義男はバンドを辞めるつもりだったに違いない。自分の才能の限界に気づいたんだ。その前に、おれに赤っ恥をかかせようとした。対決企画を提案したのはあいつだ。おれはその気になり、大きく宣伝を打って、客とチケット代を集めた。当日になって出演をすっぽかし、おれの足もとをすくいやがったんだ」
そんな考えもあったかと、航平は驚いた。
「言いがかりだよ。鷺さん」
楽屋の出入口の壁に、義男が長身の背中をもたせていた。
続




