1 航平は牝牛を客にコンサートをする
この小説を書くにあたり、何人かのミュージシャンに貴重な意見をいただきました。ありがとうございます。音楽業界の取材が行き届かず、様々な間違いや勘違いが多くあると思います。アドバイスをいただければ、とてもありがたいです。
山間の村は朝もやのなかで霞んでいた。あたりはまだ暗い。村をぐるりと囲む山の稜線がほんのり白みだしている。
十月に入り、明け方はだいぶ冷え込むようになった。岐阜高山の郊外は、紅葉するにはまだ早いが、東京より一足早く秋へと移りつつあった。
桜木航平は、楽器のキーボードとそのスタンド、それにアンプを積んだ台車を押していた。
がらがらと車輪の転がる音がする。芝を踏むたび朝露が足もとで弾ける。寝巻きの上にダウンジャケットをはおり、サンダルを突っかけて来た。
両親に気づかれると、またうるさい小言が飛び出す――おまえも二十二歳になったんだ、音楽ばかりやってねえで牛の世話をしてくれ、と。
だから、こっそり家を抜け出した。
牛舎が近づくにつれ、ぷんと牛の匂いが強まる。聴衆は待ちわびていることだろう。新曲の構想はだいたい頭に入っていた。細かい部分は相手の反応をみてアレンジすればいい。聴衆の賞賛を期待して、航平は胸が高鳴った。
牛舎のドアを開け、台車をなかに入れた。
土がむきだしの通路の両側から、リスナーの丸い黒目が柵ごしに集中する。
航平はスタンドを組み立て、キーボードの準備を始めた。彼女たちは決まって――なんだこいつは、と鼻を鳴らす。航平は楽器の前に腰かけた。
さあ、コンサートの開幕だ。
打ち込んでおいた音源を鳴らす。スピーカーから静かな音が牛舎に広がっていくと、聴衆の耳がぴくりと動く。ひとたび音楽が始まれば、彼女たちの態度は変わり、興奮して声をあげはじめるはずだ。
航平は軽くキーを叩いて、指ならしをした。タッチレスポンスによって音に強弱をつけられるが、親が起きると面倒なので、鍵盤をなでるような弾きかたになった。楽曲は飛騨を彩る紅葉をイメージした。
彼女たちは知らんぷりで餌をはみながらも、耳だけはこちらに向けている。航平の演奏が進むにつれて鼻息が荒くなり、白い息が牛舎にたちこめる。鼻を鳴らし、鳴き声をあげ、四足でリズムをとる。
航平は、聴衆が音楽にのりはじめたのを感じた。牛舎は彼女たちの歓声で、にわかに騒がしくなった。
いいぞ、その調子。
航平はボリュームペダルをぐっと踏み込んだ。
61鍵あるキーの上を、10本の指が駆け上がり、駆け下り、めまぐるしく回転する。指は激しさを増した。航平は音楽と一体になる。鍵盤を叩く指を通じて、メロディーが身体を駆け巡り、リズムが体内で振動する。
航平はいつしか音楽にのめりこんでいた。
牛舎と牝牛が消え、紅葉した飛騨の山々が周囲に広がる。32分音符の細かい音型が旋回しては上昇する。旋律は木枯らしとなって葉むらを騒がし、それを赤く燃え上がらせた。
「朝っぱらから、うるせえぞ」
牛舎のドアが乱暴に開いた。
航平の指は止まり、いっきに現実に引き戻された。
出入口に立っていたのは、近所の牧場で馬の調教をしている吉蔵だった。顔に芝草がつき、服が土で汚れている。首に赤いスカーフをまき、つなぎの作業着にブーツだ。若い格好しているが、もう五十年配だ。
「ハナノサクラは、ここんところふさぎこんでいた。おれはハナに騎乗して乗馬道に連れ出してやった。さわやかな朝で、やつは気持ちよさそうに走っていた。この近くまで来たときだ。牛の鳴き声が高まり、けったいなエレキ音がとどろいた」
「ハナは? ハナがいないね」航平は訊いた。
「あいつはおれを落っことして、どこぞへ逃げやがった。えっ、驚くじゃねえか」
吉蔵は激しく怒っているようだ。
「ハナは、ぼくの演奏に驚いたの?」
「驚いたのはおれのほうだ。あいつがとつぜん棹立ちになるから、手綱を操る余裕もなかった。おれはもんどりうって芝草に放り出された。あれほど見事に落馬したのは、村のロデオ大会で準優勝したとき以来だ」
「よかった。ハナを驚かせなくて」
「なにが、いいもんか。ハナだって驚いたから、おれを落っことしたんじゃねえか。あいつは神経質なんだ。癇にさわったに違えねえ」
「おかしいな。ぼくの音楽を聴くと、みんな乳の出がよくなるんだけどな」
航平は、柵ごしに黒い目を向ける客たちを指さした。
「バカやろう。牛と馬をいっしょにするな」
「だって同じ哺乳類じゃないか」
「ハナはオスだ。モーツアルトを聴いたって乳なんか出るもんか。二度と騒音はたてるんじゃねえぞ。おれはハナを探しに行く。連れ戻ってきたところで、また落っことされるのはごめんだからな。わかったか」
吉蔵はドアを乱暴に閉めて立ち去った。
演奏会はこれで中止だ。せっかく曲が仕上がりつつあったのに、と航平は落胆した。
楽器スタンドをたたみ、機材を片付けて台車に載せる。吉蔵は文句を言いに自宅まで来るだろう。ますますライブがやりにくくなる。
航平はため息をついた。
航平は三歳でおもちゃのピアノを弾き、五歳で作曲をした。幼少のころには飛騨の神童と騒がれ、大きくなると変人とバカにされている。
たまに牧場を手伝うだけで、定職にはつかず、楽器をいじっているのだから、それもしかたないだろう。まわりの人は航平の音楽に興味を示さなかった。牛たちのほうがまだ理解があるくらいだ。
スナックでピアノを演奏する機会があった。航平の曲には誰も耳をかさず、「男と女のラブゲーム」を酔客に要求され、カラオケ伴奏をするはめになった。
航平は台車を押して牛舎の出入口に向かった。牝牛が餌をはみながら流し目をくれる。航平は彼女たちに向き直ると、深ぶかとお辞儀をした。
戸外には朝の光があふれていた。連なる山並みを陽射しが縁取っている。
いつか東京に出て音楽で成功したい、と航平は強く願っていた。
部屋でパソコンに新曲を打ち込んでいると、母親に呼ばれた。父さんから話があるという。やはり吉蔵が苦情を言い立てたんだ。なにを言われるか、航平は予想がついた。
階段を下りていると、居間から両親の話し声が聞こえてきた。
「航平はなんだって、あんなおかしなやろうになっちまったんだろうな。乳しぼりもしねえで、牝牛に音楽ばかり聴かせやがる」
「航平の曲を聞くと、出る乳の質がよくなるんですよ」
「バカ言え。村の連中はそう噂しているがな。牛乳の質がいいのは航平の音楽のせいじゃねえ。おれの腕だ。風評被害もいいところだよ。そんな悪口はおれが許さねえぞ」
「吉蔵がなにか言いに来たんだね」
航平は居間に入るなり、声をかけた。
「おう、来たか。まずは座れ」父の幸吉がテーブルの向かいを差した。「吉蔵の文句なんかはどうでもいい。いまに始まったことじゃねえからな」
「航平に殺されそうになっただなんて大げさに言うのよ」
母の澄江の話を聞き流しながら、航平は両親とさしむかいに座った。
「吉蔵の落馬なんかはかまわないんだ。どうすればおまえがふつうの人間になれるかを、母さんと話し合い、嫁を迎えるのが一番だという結論に達した」
「ぼくはまだ結婚する気なんてないよ。東京に出て自分の音楽を試したいんだ。こっちで身をかためるつもりはないから」
「バカ言え。音楽で成功できる人間なんて、ほんのひと握りだ。おまえには楽才があるかもしれん。だが、そのていどの才能だったら東京にはあふれているんだ」
「そんなの、やってみなければわからないじゃないか」
「まあ、聞け。花嫁はおまえの知らない女じゃない。うちの原乳を卸している岩井乳業の娘さんだ。岩井好美さんといって、おまえとは中学でいっしょだった。見合いの話は向こうから来ていた。彼女に変人の夫をもたせるのはどうかと、おれはしぶっていた。だが、おまえを更生させるにはそれしかないと決めた」
「勝手に決めないでよ。更生だなんて犯罪者じゃないか。その話は断ってよ」
「好美さんね」母親が口をはさんだ。「音楽の授業が苦手だったんですって。楽譜を見てもちんぷんかんぷんで、実技のテストが憂鬱だったって。航平がハーモニカでもなんでも、初見で暗譜して演奏する姿に憧れていたそうよ。アドリブ演奏までしてクラスで喝采をあびたと聞いたとき、母さん、とても鼻が高かった」
「その音楽が、いまじゃ風評被害のもとだ」
「そんな大げさに言わないで。航平が牛に演奏を聴かせた日に、乳をしぼって飲んでみると、いつもよりおいしいのは確かなんですよ」
「気のせいだ。化学的な根拠なんてあるもんか。いいか、航平。娘のうちは自分にない才能に惹かれるなんて、よくある話だ。大人になれば、そんなもんはなんの役にも立たないと気づく。好美さんがおまえに抱いているのは、言ってみれはノスタルジーだ。過去の思い出は美しく感じるからな。そんな彼女を嫁に迎えるのは騙すようで気がとがめるが、おまえのためだ。彼女と結婚してうちを継げ」
「ぼくに牛の世話はできないよ。牧場を継ぐ意志もない」
「とにかく見合いはしろ。もう日時も決めて、岩井さんに連絡した。好美さんはなかなかの器量よしに育った。おまえみたいな変人の嫁になってくれる女なんて、このさき金輪際、あらわれねえぞ。会って話してみれば気持ちだって変わる。そのうえで結婚したくないなら、自分の口で断ればいいじゃないか」
父親はそう言うが、見合いをしてしまったら、断れなくなりそうだ。
音楽の好みならいくらでも語れる。女性のタイプはなんでもよかった。岩井好美で悪い理由は見つかりそうにない。
ただ、家を継いで牛を育てるつもりはなかった。
頭のなかには楽想があふれている。つぎつぎにメロディーが浮かんでくる。いくらでも新しい曲を生みだせる。そんな才能が枯れないかぎり、音楽の道を進むつもりだ。
「わかったな」父親に念を押され、話し合いは一方的に終わった。
続