千年桜
その日。
私は電車の一人旅をしていた。ローカル線の各駅停車と、のんびりとした旅である。
ふらりと、小さな無人駅で電車を降りた。
――きれい!
線路敷をへだてた構内の一画に、一本の桜の古木が満開に花を咲かせていた。
次の電車まで一時間ほどある。
コインロッカーにキャリーバッグを預け、私は駅舎から出て、駅前の通りを歩き進んだ。
田舎町らしく十五分も歩いたら、家並みのほとんどを通り過ぎてしまう。見渡すに田んぼや畑ばかりがあって、見るべき名所もないようなので同じ通りを歩いて駅へともどった。
――きれい……。
目にするたびに心が叫んでしまう。
改札口を抜けてホームに立った私を、先ほどの満開の桜が出迎えてくれたのだ。
電車の到着は二十分後。
キャリーバッグをガラガラと引いて、私は時間待ちにとホームのベンチへ向かった。
ベンチには先客がいた。
七十歳前後の老婦人で、ひなたぼっこをするようにして座っている。
――同じ電車かな?
私は会釈をして隣に腰をおろした。
おばあさんがキャリーバッグに目をやり、それから私を見て声をかけてきた。
「旅行だね」
「はい、あてもなくぶらぶらと」
「いいわねえ」
おばあさんは微笑んでから、向かいにある桜の大木に目を向けた。
私もその視線を追うように桜に目をやった。
「とってもきれいですね、あの桜」
「今年は寒かったからね」
「寒いと桜って、きれいに咲くんですか?」
「そうよ。冬が寒ければ寒いほどね」
「ちっとも知りませんでした」
「今年はね、昭和の冬と平成の冬を一度に越してきたもの」
「そういえば、冬がふたつあったんですね」
そう、昭和は年をあけてすぐに終わった。今年の春は、平成になって初めての春なのだ。
「でもね、それは私がそう言ってるだけで、ほんとはそんなの、桜にとってはなんの意味もないのよね。桜はいつだってきれいに咲くもの」
おばあさんが私に小さく笑って見せる。
「そうですよね」
「あの桜、千年桜っていうのよ。ずいぶん昔からあるみたいで」
「千年桜、ステキな名前ですね」
「ええ、とっても」
おばあさんはうなずいて桜に目をもどした。
花びらがひらひらと舞い落ちている。
ひととき桜をながめてから……。
腕時計に目を落とすと、電車の到着まで十分を切っていた。
私はたずねてみた。
「次の電車にお乗りになるんですか?」
「いいえ、主人の帰りを待ってるんですよ、こうしてここで。帰ってこないのは、とうにわかってるんだけどね」
おばあさんは桜から目をはなし、遠く空に視線をはわせるようにした。
帰ってこない者を待つ。
その言葉の意味が気になって、会ったばかりだというのに、私はつい問い返していた。
「どういうことなんです?」
「もう四十年以上も待ってるのに、あの人は帰ってこないからね」
「四十年以上って?」
「戦地に行ったきりなの」
「じゃあ、戦争で……」
「ここで主人を見送った日も、千年桜は今日のように満開で……。それでね、列車に乗るとき、あの人が私に言ったの。必ず生きて帰るって」
まるで昨日のことのように話してから、おばあさんはうつむいて息を深く吸った。
――千年桜、おばあさん自身なんだわ。
私はそう思った。
いくら時が移ろうと、おばあさんのご主人を思う気持ちは、桜のように変わることはないのだと。
「あの人は根っからの正直者で、決して嘘をつくような人じゃなかった。だからね、きっと帰ってくる、必ず帰るって、ずっと信じて待ってたのよ」
「でも……」
「帰ってこなかった。出征する前の夜もね、あの人は一晩中、私を抱きしめてくれて、必ず生きて帰ってくるからって言ったのに」
おばあさんはじっと目を伏せ、それからゆっくり言葉を継いだ。
「そのとき私のおなかには、じきに生まれる赤ちゃんがいてね。あの人、すごく楽しみに……」
「赤ちゃん、見せてあげたかったですね」
「ええ……でも今ではね、その子にも子供がいるんですよ」
「じゃあ、おばあちゃんなんですね」
「かわいい孫三人のね」
おばあさんがおばあちゃんの笑顔になる。
私は少しだけ救われた気がした。
そのとき。
車輪をレールにきしませながら、電車がゆっくり構内に入ってきた。乗降ドアが開き、十人ほどの乗客がホームに降り立つ。
「この電車に乗りますので」
失礼します、と言って頭を下げ、私はベンチを立ち上がった。
「よい旅を」
おばあさんが手を振って見送ってくれた。
電車がホームを離れ、車窓越しにベンチに座ったおばあさんの姿が見えた。
おばあさんは満開に咲く千年桜を見ていた。