虚実の国
Aは愕然となってその光景を見つめていた。目の前で高官が酒を酌み交わしていた相手が、どう考えても同胞ではなく、敵の国の、しかも軍人であるように思えていたからだ。それはある会合の場のことで、これからここで働くのならばお前も参加しておく必要があると上司から言われ、彼は上司と共にそこを訪れたのだ。
Aの国は大国と言われている。広大な国土を持ち、信じられない規模の人口を抱えている。だが、その巨大な国は、肥大した自尊心で成り立っているような、歪とも異形とも表現できるような社会構造を持っていた。国民の多くはその事に気付いている。言論統制やネット規制などで国はそれを秘密にしようとしているが、どうしたってそれは染み漏れ出て来てしまう。しかし、Aはそれに気付いてはいなかった。国が教える内容をそのままに信じ、その所為で強い国粋主義者となっていた。彼が進んだ道は軍部だったのだが、それも同じ理由だ。彼は少しでも領土を広げ、国の偉大さを内外に示す事こそが、自分の人生で最も重要だと思っていたのだ。
が、そのAの目の前には、彼の人生にあってはならない光景が広がっていたのだ。敵国だ。敵国の軍人が、我が国の軍人と楽しそうに歓談をしている。しかもそれを上司は何でもないような顔で見つめている。Aは何が起こっているのか理解できず、怒りを覚えるでもなく、ただただ戸惑っていた。激しい認知的不協和に陥っていたのだ。そのうちに彼は、その光景をこのように判断した。
“ああ、なるほど。これは交渉の場なのだな。このような会合を通して、我が国と彼の国は無用な戦闘を避けているのだ”
交渉によって互いに利を得る。これは充分に戦略の一つだ。それならば、納得がいく。しかし、そうは思ってみても、その場に流れる雰囲気からは、高度な交渉の場に発生するだろう緊張感が圧倒的に欠けていた。非常に和やかで、まるで仲の良い友人達の集まりのようにすら思える。相手の国とAの国は、少し前に衝突しかけたばかりだ。互いに警告を発し合い、一触即発の事態だったとニュースでは告げていた。一部では軽い戦闘になるのではないかという噂まで流れた程だ。このように呑気に話し合える道理がない。
「何を呆けているのだ?」
やがて、彼の上司がそう話しかけて来た。
「いえ、何故、敵国の軍人がいるのかと思いまして」
Aがそう返すと上司は笑った。
「ははは。驚いたか? しかし、違うぞ。むしろ敵国の軍人だからこそここにいるのだ」
Aにはその意味が分からない。それでこう尋ねる。
「停戦の約束でもしているのですか?」
するとまた上司は笑う。
「ははは。違う。逆だ。また、衝突しかける相談をしているのだよ。どのようなシナリオでそれを行うのか」
ますますAは混乱した。
「シナリオ? どういう意味です? 軍事衝突するのに、どうしてあのように和やかに話し合っているのですか?」
「そのままの意味だよ。我が国と彼の国が衝突し合っているのは、単なる演技なのだ。緊張状態を演出しているだけなのだな。だからあのように仲良く話している」
「は?」
Aはその言葉に目を剥く。
「どうして、そのような事を……」
その言葉に、上司は彼を馬鹿にするような表情を浮かべてこう言った。
「金だよ」
「金?」
「そうだ。国から軍事予算をできるだけ奪う為には、緊張状態を演出する必要がある。そうしないと、我々の懐は寂しくなってしまう。贅沢な暮らしもできん」
それを聞いて、Aは唖然となった。
“なんだと?”
上司は続ける。
「そして、その事情は向こうの国でも同じだ。我々の利害は一致している。だから互いに協力し合って、戦争になりそうな気配を演出しているのだな。まぁ、もちろん、本当に戦争をするような馬鹿な真似はしないさ。経済で協力し合えなくなったら、共倒れするだけだからな。そもそもだ。貧乏になったら、一体、どうやってこの莫大な軍事費を賄うんだ?」
それから上司は呵呵と笑った。その笑い声で、Aは自分の世界が脆くも崩れ落ちてくのを感じていた。彼は自分の今まで生きて来た場所は“虚実の国”だったのかと強く強く思っていた。
流石にこんな事はないとは思いますが、あの国の軍事部門の汚職が激しいという話は本当です。