Prologue/1. あいさつ
実験的に書いてみた。これは複数文字体系による落書きである。
日本語というのは、中国語や英語とは違い複数種類の文字を文中に並べることで意味をなす言葉(複数文字体系)であり、世界的に見ても珍しい言語である。
そこで、僕は自由帳に意味もなく鉛筆をなぞるといった行動を小説に置き換えてやってみたということに過ぎない。だから、何を書(描)いているのかわからない。つまらないと感じたなら、その場で読み止めれば良い。
"Self-Converge" Jacob Titor
文章はおよそ何行ごとに段落を作ればいいか。話の切れ目はどこなのか。読点はどこに打てば良いか。そんなことを心配する必要はない。少なくともこの俺にとっては。ここに記すことが勝手に成してくれることで、それはこの複数文字体系が織りなす字列に従って読み取れば良いこと。そもそも、複数文字体系のみでは我々の全てを記述することはできまい。我々が日常的に用いる文書、文字は複雑文字体系であり、なぜ複雑などといった客観的形容がなされているのかは今のところ聞かないでもらいたい。ここでは特別に複数文字体系による記述を行うこととする。
1. あいさつ
ただいま、おかえり。AM2:45。空は夕焼けで赤く染まっていた。
「おいおい、夜中だろうが」
「いやいや、まだ夕方でしょ」
このような収束のつかない会話を毎日くりかえす相手はハウスドルフ空間の部分空間εに同じく住まう同僚K氏である。K氏のことはこの|自己収束《self-converge》イベントを説明する上であまり必要な情報ではないので、説明は省くがとりあえず年相応でない光頭が印象的な有機体であることだけは特筆すべき業績であろう。業績というやつは結果があって初めて伴うものだが、K氏に関しては因果によって特筆される業績という他にないのだから、それ以上の説明は不可能である。
有機体は実次元時空間に住まう実質的生命であるが、我々を支配する無機体は高次複素時空間からやってくるもので、俺たち有機体を暇があっては食らいついて生活をしている。かつて同じ実次元時空間上のあらゆる場所で見つかった媒体によると、我々はその媒体を伝播させて生きてきた生命体が直系の祖先と解釈することができる。媒体はいかにして掴んだかというのは実のところ専門家に問い合わせる他ないが、問い合わせたところで専門家は守秘義務があるので答えてくれそうにない。
AM4:00。それはこのハウスドルフ空間の一瞬であったが、すべてが超次元的云々によって我々の演算装置に侵食してきた。ほんの一瞬で味わったことのない感覚だった。
「実次元時空間に住まう方々にお知らせがあります」
εの境界上のテレスクリーンに射影された無機体と思われる自称Tはそう呼びかける。
「我々はあなた方にある取引を提案しようと思っています」
有機体はこの次元支配構造をさらに蝕むつもりのかと無尽蔵にテレスクリーンに向かって怒号や有機体自身を投げつけている。かくいう俺もこの時、他の有機体同様に無機体に対して並々ならぬ怒りに自己を委ねていた。
「いま、有機体の減少は我々にとって深刻な問題となっています。そこで、我々は有機体の生成に力を尽くそうと決意したのです」
待て。複素空間からやってくるのであれば、あんたたちは有機物の生成など疾うに実現しているのではなかろうか。
いやはや、話の流れがつかめない。
「実はあなた方は実次元空間を我々が支配しているとお思いでしょうが、それは全くの誤解です。我々とあなた方は分離されているのです。そしてこれは数学の公理をも破壊しており、理解はされぬと思いますが、我々の演算能力でもってこの交信は辛うじて成立しています」
ではなにか。無機体が食らうのは数学的演算処理では不可能ということなのか。何者によって我々は侵略されていたのか。ここで有機体は自称Tの言うことに理解ができないでいて静まっていた。
「演算能力については、あなたたちの稚拙な知能、いえ、あなた方に説明することは非常に大変なのですが、この世界は無情にも皮肉なくらい我々をどこまでも孤独という極限に引き連れて行こうとしています。私たちは本来、個として存在することに慣れていないはずです。まあ、個に対する耐性という点では、我々はあなた方よりも慣れているとは思いますが」
自称Tのあまりにも直接的な揶揄は再び有機体をカオスへと導いた。
「まあ、落ち着いてください。我々はリアルタイムであなたたちの様子を伺うことができるのです。双方向の会話をしようじゃありませんか。我々の提案する案は『|自己崩壊《self-collapse》』です。我々は共に原子、いえ、素粒子によって構成されています。我々の言う個というものは何なのでしょうか。素粒子の組み合わせによって存在しているのでしょうか。分離空間を発見したあなたたちの祖先、人間はそれから個と帰属というものを大切に考えてきました。我々が無限に存在するとすれば、個も無限に存在する。それはつまり、組み合わせは厳密に無限通り存在し、我々はまた違う次元空間において同じ個というものを実感できるのではないのでしょうか」
自己崩壊してそれでまた同じ組成を作り上げるだけではないか、と有機体。加えて自称T曰く
「それでは、自己崩壊とは何でしょうか。自己崩壊とは自らをすべての演算に対して、単位元に還元することなのです。それはパリティという概念からの解放を意味し、我々は真の意味でこの分離空間において初めてつながりを感じるのです。あなたたちは何もしなくていい。普段通りに過ごしていただければ良いのです」
自己崩壊とは、聞いて恐ろしい言葉であるが普段通りに過ごしていれば、彼らは向こう側から何かしらのボタンを押すことによって、この次元構造に穴を開けようとしているのか。なるほど、すでに人質となっているわけか。そもそも、すべての演算に対して単位元となりうるものなど、それはもうすでに多面性を持った仮面である。演算系の破壊から始めるべきだろうが、高次元複素空間上の奴らは演算処理に関する公理がそもそも違うので、それはうまくいきそうにないだろう。
その時、有機体Aは至って冷静を装うように発言した。
「確かにこの次元構造には心底不自由を感じていることは同意だ。だが、あんたたちの言うことは聞かない。俺らには俺らなりの美学がある。そちら側の勝手な都合で俺らを巻き込むな」
すると突然テレスクリーンは消滅し、我々は不思議な拘束感から解放されたように超次元的云々は演算装置から離れていった。
「消えるか、死に延びるかだな」
そうAは口にし、我々から離れていった。